第3小節目、早朝事変

今朝は、ロータリーの花壇の水やり当番だった。


普段より1時間程早く登校したあたしは、そのミッションをちゃっちゃと完了すると、すぐさま美術室に向かった。


明日までに提出しなくちゃいけない、静物デッサンの進み具合が芳しくなかったから。

あたしはこのところ、絶不調だった。

描いても描いても、自分の思うところまで、行き着く事ができないのだ。

生まれて初めて経験する、「スランプ」ってやつね。


これもまた、あたしのため息の原因のひとつなんだって事は、多分、間違えないんだよね。


★★★


組数より遥かに多い教室の数…。


移動教室の多いこの学校は、まるでちょっとしたラビリンス。

いつもとは違うルートで目的地に向かうと、あっという間に見た事のない場所に迷い込んでしまう。

もともと、方向音痴という不治の病を患うあたしは、通学して3年目になるというのに、未だに校舎の全貌を把握しきれないでいた。


一分でも早く美術室に辿り着き、あのお粗末なデッサンに手を入れないとならないってのに。

突破口を見いだせず、うろつきながら途方にくれていると、どこかしらから、話し声が聞こえてきた。


「…… だわ」

「…… のか」


男の子と女の子の声。

最初はヒソヒソとした、ささやき声だった。

だけど、それは次第に大きくなっていく。


(喧嘩? こんなに朝早くから?)


声のする教室に、引き寄せられる様に近づいていく。


(ここだ。B-108号室)


扉に背中をぴったりとくっつけて、右肩越しに中の様子を探る。

ここから辛うじて見えたのは、スカートからのぞく、しなやかな二本の足。


(あの上履きの色…3年生だ)


肝心の顔のほうは、すっかり影になってしまっていて、いまいち判別がつかない。

男の子の方は、背を向けていて更にどこの誰だかよくわからない。


少し丸まった背中。

随分と背が高い。


(ん? でも待って、あれは)


何かを思い出しそうになったところで、それに多い被さるように、男の子の、懇願するような、切ないような、なんとも言えない声が聞こえた。


「頼むから…!」


それと同時にその子が、突然身をひるがえし、目の前の女の子の腕を掴んで、もの凄い勢いで自分の方に引き寄せた。

そして次の瞬間あたしは、信じられない光景を前に、唖然とする事になる。


えっ、えっ、えっ、

え~~~~~~~!!!!


この時ほど、自分の好奇心ってやつを呪った事はない。


18年間生きてきて、生まれて初めて遭遇する、ほんとうの「生」のキスシーン。

それも、「チュー」なんて温いのじゃない。

その行為は何度も何度も角度を変えて、目の前で執拗に繰り返されるのだ。


なんだか凄いーーーー。


その女の子が、このまままるごとくらい尽くされてしまいそうに見えた。

むさぼる様な激しさが、なんだかたまらなく胸を突く。


……これ、絶対見てちゃダメなやつ。


すぐにでもここを立ち去るか、それともどこかに身を潜めるか。

今のあたしには、この二つの選択肢しかありえない。

頭では、充分わかってた。

わかってはいるけど、そのふたりが接触した部分に釘付けになって、目を離す事なんて出来ない。

その上、あたしのからだの奧深くが、何か凄い力でぎゅうっと掴まれたようになって、膝の力が抜けて、後ずさりする事すらままならないでいる。


心臓は、ありえないスピードで、ドクドクドクドク打ち付ける。


(でもダメ。やっぱりこれ以上は…)


頭の中で自問自答じもんじとうを繰り返し、その結論に辿り着いき半歩ほど後づさりした、丁度その時。


ーーー メッセ〜ジ〜♪ メッセ〜ジ〜♪


あたしのスカートのポケットに入っていたスマホが、「お取り込み中」の二人をまるでからかうかの如く、ちょっとお間抜けなセクシーボイスでしゃべりだした。


ふたりが一斉に、こっちを向いて一時停止する。


「誰?」


心臓が、大きく跳ね上がる。

絶体絶命のピンチ到来。






その隙をついて。


ーーーパシッ!


頬を打つ乾いた音が、まだ二人しかいない教室に鳴り響く。

そして間髪入れずにその女の子が、ドア口で棒立ちになっているあたしを素通りし、物凄い勢いで走り去って行った。



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