第2小節目、アクシデント

抜き足、差し足、忍び足。

室内が暗いのをいい事に、空調がわりの扉の隙間から、真っ黒のカーテンをくぐって忍び込む。


「ねえ、絵麻。なんだか今日、やけに生徒が多くない?」

「映像のクラスと合同なんだって。おかげで遅れたのがバレずにすみそう」


出来るだけ目立たないように腰を屈めて最後尾の列まで辿り着くと、絵麻と二人、何喰わぬ顔をして、肩を並べて席に着いた。


中央のスクリーンには、「s y m b o l i s m e」という文字が、左に移動しながらフェードアウトしていく様子が映し出されている。


symbolismeーーー表現主義、か。


シュバンヌ、モロー、ルドン…。


美術の教科書なんかでどれもお馴染みの作品ばかりが、真っ暗な空間に浮かんでは消える。


「良かった、まだ始まったばっかりみたい」


絵麻はそう呟きながら、スクリーンを食い入る様にして見つめている。


一枚一枚に特徴があって、色彩豊かで、それでいて秘密めいている作品の多いこのあたりの絵、絵麻の大好物ってことは知ってる。

ロングヘア繋がりで、「水に浮かぶオフェーリア」のデスマスクを切り抜いて、SNS用のアイコンにしてたこともあったっけ。

死んだ顔なんて縁起でもないからやめなよ、と言ったのは何を隠そうこのあたし。


あたしは反対に、まるでダークなお伽噺の挿絵を彷彿とさせるような、これらの作品の雰囲気が少しばかり苦手だった。

そもそも実のところ、ゲージュツなんていまいち良くわからない。


もともと、デザイナー志望だしね。




「次の作品は…そうねえ、私が画学生の頃は、美大に通う女子の7割は、この作家が一番好きと答えると言われたものだ」


ずっと黙っていた先生が、マイクを通して話し出した。


グスタフ・クリムト作、The Kiss。

https://kakuyomu.jp/users/cloud-9/news/16817330666798203200


「クリムトの作品には『罠』がいくつもあって…。

まあ、いろんな解釈があるってことで、ここではあえて説明しないから興味がある人は調べてみて」


………それあたし、知ってる。


アレのことだよね。

煌びやかな金箔に彩られ、夢のように華麗に綺麗に描かれた世界の中に仕掛けられた『罠』。

NHKだかの番組で、丁寧に解説しているのを見た事があるもの。


その事を絵麻に話そうと、ふり向きかけたけど、すぐ止めた。

スクリーンの青白い光に縁取られた嬉々とした彼女の横顔が、ほんの一瞬だけれど、艶かしく輝いたのを見逃す事が出来なかったから。


そうなの。

この事が、あたしのため息の原因のひとつでもある。


去年の終わり頃から、8歳も年上の予備校の先生と付き合い出した絵麻。

中学生の頃から誰よりも仲良しだったこの娘が、最近、時折別人のような顔をしてみせるのを、複雑な心持ちで、こうして眺めている。


… 気にしていたソバカスが、目立たなくなった。

… 鼻筋が、前よりすっきりとした気がする。

… 眼鏡の奧の瞳が大きくなったように感じるのは気のせいかな?

… 少し、痩せた?


そんな些細な変化に度々気付かされるものの、全てを受け入れることなんて、未だにできないでいる。


とはいえ、あたしが今日、心ここにあらずでいる原因は、これとは別にあるんだけどね。


★★★


先生のささやかな投げかけは、ふたクラス分の生徒で埋め尽くされた視聴覚室をにわかにざわつかせていた。


再び、マイクのゴトリ、という雑音が、それを打ち消すように鳴る。

それを合図にして、視聴覚室はさっき静けさを取り戻す。

みんな大人しいというか、お行儀が良くて感心しちゃう。 いやほんと。


「次に紹介するのも、同じタイトルで描かれた作品です。

この作家自身も技法も度々変えて、生涯何度も挑んだテーマのひとつね。

中でも、今回はクリムトの作品との違いが分かりやすい、エッチングのものを紹介するわ」


カシャッ


「エドヴァルド・ムンクの…」


「ああ!!」


ガタン!

あたしは大声をあげて、その場で立ち上がってしまった。


エドヴァルド・ムンク、The Kiss。

https://kakuyomu.jp/my/news/16817330666798297197


境界ももどかしく感じるほどにしかと抱き合い、口付けをするカップル。

口と口、からだとからだ。

まるで溶け合うように描かれた情熱的な愛を交わす男女が強烈な印象を放つ、モノクロームのデッサン…。


その一枚の絵に、強烈な既視感を覚えたから。

それが、朝一で遭遇してしまった、衝撃の場面をそのまま切り取ったかのように思えたからなんだ。


「どうした? 清家陽葵せいけひまり、コラ、座りなさい」


おおよそ70個の目が、暗がりで、一斉にあたしに集中する。

クスクスと、どこかで嗤う声が聞こえる。


背中を伝う、冷たい汗。

ある種のショックと、恥ずかしさ。


「陽葵!?」


ヘンだ。

隣に座っているはずなのに、随分と遠い所で絵麻の声がする。

少し離れたところでぼんやりと光る、ムンクの絵がぐにゃりと歪む。


ーーーそして、ブラックアウト。


あたしはそこで、ぷっつりと意識を失った。




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