呪黒の斧

バックパックを椅子代わりにして休んでいた燐は、突如響き渡った叫び声に跳ね起きた。

声は森の方から聞こえた。自分が狙われているわけではないと理解した燐はほっと息を吐いて、身を伏せて森側の出口に向かった。


顔を覗かして森を見る。すると森の中心の広場が叫び声の発生源だと分かった。

なぜなら今も、続いているからだ。

雄たけびが幾重にも重なり、剣戟の音と悲鳴、そして仄かに香り出した血の匂い。

『戦争』という言葉を燐は思い浮かべた。


『アリス!大丈夫か!?』


燐は心中でアリスに尋ねる。

答えはすぐに帰ってきた。


『大丈夫よ!戦争を始めたみたいだから撮影しておくわね。それと、黒いゴブリンがいるわ』


(―――ッ。生まれてたのか……。俺の支配したゴブリンたちは何も言っていなかった。まだ情報が行き届いてなかったってことだ。つまり、生まれたてだ……相変わらず運悪いな、俺!)


比較的安全な下見のはずだったが、『呪われし小鬼』がいるとなると話は変わって来る。

レベル3の燐が正面から戦って勝てる相手ではないだろう。見つかれば死だ。

燐は恐怖に冷や汗を流す。


『見つかるなよ、アリス。気を付けて』

『ええ。燐もね』


冷静なアリスの声に、心配する必要はないと燐は安堵した。


□□□


「はい、これ」


アリスが差し出してきたスマホを受け取る。周囲はすっかり暗くなっていた。

天井の光苔が光量を落としたのだ。

夜が訪れた森には悲鳴も剣戟も鳴り響かない。半日にも及ぶ戦争は既に終結したのだ。


受け取ったスマホが指し示す時間もすでに夜だ。初めは争いの気配に神経質になっていた燐も、慣れ切った。濃い血の匂いも感じないほどに。


「よし、帰るぞ」


これ以上ここに留まれば、帰りの分の食料と水が無くなる。そう判断した燐は映像を確認するのを後回しにして帰ることにした。


洞窟を降るようにして進んでいく。だがその途中で、アリスが停止した。


「―――アリス、モンスターか?」


囁くように尋ねる。


「ええ。ゴブリンが4体。前から来るわ」


背後に道はない。ゴブリン村の空中に通じる穴があるだけだ。

前方から来るゴブリンを避ける手段は無い。


「チッ。やるしかないか」


燐は周囲を見渡して舌打ちをした。

この通路は狭い。燐が二人並んで歩けるかどうかと言った程度であり、天井も二メートルほどだ。

燐の『敏捷』を活かせない場所は戦うには都合が悪い。


「相手が飛び道具を持ってないのを祈るか」


燐はアリスに【ハインド】をかけてもらい、通路を進んだ。


通路の先は暗く闇が淀んでいる。森の光苔が消えたため、光源と呼べるものはない。

強化された冒険者としての五感で何とか視界を確保している状況だ。


その闇の奥から、4体のゴブリンが出てくる。どれもヘルドッグの装備を身に付けており、村のゴブリンだと分かる。

そしてその先頭には、見覚えのあるゴブリンがいた。


「アリス、あれって」

「うん。燐が支配したやつね」


燐はそれならやりようはあると、作戦を変えることにした。

燐はゴブリンたちの近くまで行き、声を出した。


「後ろの二体を殺せ!」


突然響いた人間の声に、ゴブリンたちは硬直する。

命令を受けた一体を除いて。


『Giiiiiiiiiii!!』


ひと際巨体のゴブリンが手に持った棍棒を振り下ろす。

まさか仲間から襲われると思っていなかったゴブリンは何が起こっているのか分からないといった顔のまま、頭を潰された。


「ハッ!」


燐の突き出した短槍がゴブリンを一体屠る。

そして最後の一体は、支配されたゴブリンの拳で殴り殺された。


『GiGiGiGiGi……』


燐は相変わらず虚ろな目をしたゴブリンを見る。


「俺が支配した奴だったのは幸運だな」


その言葉にアリスが呆れたような視線を向けた。


「分からなかったの?普通使い魔との繋がりって分かるんじゃないの?」

「分からん。それに使い魔じゃないし。肉体の制御権を奪ってるだけで、繋がりがあるわけじゃないんだろ」


燐は吐き捨てるように言った。

通常、使い魔やテイムモンスターとの間には精神的なつながりがあり、意思疎通や命令を下すことが出来る。

だが燐の右手はテイム能力ではない。そんなものは無いと言い捨てる。


だがそれをアリスは否定した。


「そんなことはないわよ」


その確信が籠った言葉に、燐は怪訝な顔をした。


「何で分かる?」

「ゴブリンと会話できてたでしょ。燐、ゴブリンの言葉分かる?ゴブリンが人語を解するの?」

「それは、確かに」


燐は納得する。


「多分、細いつながりはあるのよ。それのお陰で会話できてるのね。もう少し支配を強めたらテレパシーとかも―――あ、ちょっと!」


燐はアリスの言葉を最後まで聞かずに、ゴブリンの魔石を取り出し始めた。

アリスの言葉は燐にとって真面目に聞きたい類の話では無かった。

その二人をゴブリンは虚ろな目で眺めていた。



「正規ルートの近くまで案内してくれ」


燐が命令を下すと、ゴブリンは動き出した。

確かに燐の言葉を理解している。

そしてゴブリンが知らないはずの『正規ルート』という言葉の意味を理解している。

燐の知識の一部が伝わっているようだ。


燐は複雑な思いを噛み殺しながらアリスの言葉を心中で認めた。

そしてゴブリンの後をついて行った。

狭い複雑な道を進むこと数十分、燐は行きとは比べ物にならない速度で進めていた。

これなら朝になる前には帰れそうだとあくびを噛み殺す。


その時、巨大な咆哮が空気を切り裂いた。

荒ぶる気流が通り過ぎたような不気味な音に、燐のみならず、支配下にあるゴブリンすら足を止めた。

支配を超える本能が、ゴブリンに恐怖を刻んだのだ。


「アリス、【ハインド】」

「――分かったわ」


アリスはハインドを発動させて、燐とゴブリン、そして自身を隠す。


「急いで進め」


巨大な力を持ったモンスターが存在する。その確信を得た燐は、緊張感を張り詰めながらゴブリンに命令する。

燐たちは駆けだした。


たったった、と岩の地面を蹴りつける靴音だけが反響する。先ほどの咆哮から謎のモンスターの痕跡はない。

それどころか通常のモンスターの気配も無い。恐らく燐たちと同様、何かの気配を感じて逃げ出しているのだ。


燐たちは順調にダンジョンを脱出しようとしている。モンスターの妨害も無い。

ダンジョンは静まり返っている。

だが背筋を這うような悪寒が燐に纏わりついている。

それが燐の足を速めている。


―――はあ、はあ、ふぅ、ハアッ


己の口から不規則な呼吸音を零れるのを感じている。

燐は額に流れる汗を恐怖と共に拭い去る。


「燐、急ぎすぎ!」


アリスに注意されて燐は速度を落とす。その分、嫌な予感は募っていった。


そして10分後、燐の予感は肯定された。


「―――ッ!何か来てる!」


アリスのつんざくような叫びがルームに広がった。

それは逃げられないと確信したからこその叫びだった。

そして燐も感じていた。背後から迫りくる何かの息遣いを。


『Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!』


潰れた声帯に無理やり空気を流したような、そんな不気味な声だった。命の気配を遠く感じる叫び声と共に、燐たちが通ったルームの入り口が吹き飛ばされた。

巨大なショベルカーを無理やり振り回したような破壊は、それを成した者の埒外の膂力を想起させる。


とても生物が成したとは思えない。思いたくも無い。

だが生物だと否が応でも分からされる。


その叫びが、声に込められた憎悪の歌が、生命に向けられた殺意を色濃く写し取っているのだから。


舞い上がった石のカーテンが開ける。そこから現れたのはあんな破壊をもたらしたとは思えない小さな体躯のモンスターだった。

体格は通常のゴブリンよりも頭一つ高いほどであり、160センチ強の燐と同じぐらいだ。だが体はやせ細り、骨と筋張った筋肉が見えており、身長の割に小さく映る。


肌は黒くひび割れており、その双眸のみが爛爛と血の色に輝いている。


『呪われし小鬼』

十香に聞いたとおりの風貌であり、燐は一目でその正体を見抜いた。


(何でここにいる!)


燐は心の内で絶叫を上げる。

だがその答えは薄々分かっていた。


小鬼はゴブリン村の戦争に参加していた。

そのため、森側、恐らく燐の近くまで来ており、燐とゴブリンたちとの戦闘を聞きつけたのだろう。そして争いに引かれるように燐の後をついてきた。


「―――たっ……!」


燐は戦え、と言いそうになったのを意志の力で止める。

それは呪われし小鬼の視線が燐を捉えていないことに気づいたからだ。

【ハインド】は正常に機能しており、呪われし小鬼から燐たちの姿を隠している。


(後退できるか?)


同じルーム内とはいえ、距離はある。ゆっくりと距離を取り撤退すれば気づかれずに逃げ切れるのではないかと考える。


『アリス、ゆっくり下がれ』


燐はアリスに指示を出してゆっくりと下がっていく。ゴブリンは放置だ。意思を伝える手段がない以上、置いていくしかない。


燐はじわじわと下がっていく。足元のほんの小さな石、苔にすら過敏になりながら音を立てないように神経を捧げる。

すると、呪われし小鬼が頭を上げた。どこかをきょろきょろと見渡す。

燐は思わず足を止めた。


(気づかれたか?)


だが小鬼と視線が合うことは無い。普通のゴブリンであれば疑いを持った時点でハインドが消えかけてもおかしくはないが、小鬼の場合はそうはならない。


恐らく通常種よりも知能が低く、索敵能力が劣っているようだと燐は推測する。

それが種族としての特徴なのか、個体差なのか、呪いのせいなのかは不明だ。


『Gaaaaaaaaaaaa!!!』


呪われし小鬼は右手を掲げる。否、右手に持った斧を掲げる。


(なん、だあれ)


燐は吸い寄せられるように斧を見る。木製の取っ手に欠けた銀の刃。何の変哲もない片刃の斧だがその周囲を黒い靄のようなものが取り巻いている。

【呪術師】である燐は一目で分かった。あれは、呪いだ。

内部に収まりきらないほどの呪いが、器から漏れ出ているのだと。


呪われし小鬼は、呪いへの耐性を得た特殊なゴブリン。

あの体を漆黒に染め上げたのはあの斧だと、燐は確信した。


(一体、何する気だ……)


小鬼は斧を掲げた後、動く気配は無い。

燐は再び足を進めようとした時、斧が動いた。

どくり、と何かが脈拍するような気配を感じる。

恐ろしい圧がルームに広がっていく。そんな感覚を覚えた。


それは魔法職についている燐だからこそ感じ取れた魔力と呪力の波動だった。

そして燐よりも魔法適性の高いアリスは、その顔を蒼白に染めていた。


『Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!』


呪われし小鬼の喉が悍ましい叫び声をあげる。

そして手に持った斧を、振り下ろした。


燐よりはるか遠く、何もいない場所で斧を振るう。

だが燐は、反射的に跳んでいた。


「―――ッ!!?」

「燐!?」


跳びながら反射的にアリスを抱える。そして岩の陰に入り込んだ。

瞬間、爆発した。


「うおおおおおおぉおおおおッッ!!」


自分の喉が何かを叫んでいるのを感じるが、それすらも轟音に塗りつぶされて聞こえない。

巨大な衝撃が燐の全身を走り、後ろへと吹き飛ばそうとする。だがそうなれば、宙を舞う巨大な瓦礫に押しつぶされると燐は歯をくいしばって耐えた。


しゃがみ込んでいた燐は頭を上げる。そして低くなった岩から周囲を見渡した。


「―――なっ」


声が詰まる。


ルームの光景は変わり果てていた。

巨大な岩が無造作に転がっていたルームの端には巨大な穴が開いている。

下層まで届いているのではないか。そう思えるほどの巨大な衝撃跡が、頑丈なダンジョンの床に刻まれている。

余波に当てられた岩は形を保てず砕け散り、散弾となって周囲に飛び散っていた。

遅れるように、ルームの壁の一角が崩れ落ちた。


燐が連れていたゴブリンの姿はない。瓦礫に押しつぶされたか、衝撃波を受けて砕け散ったか。分からないが、生きてはいないことは確信できた。


あんな小さな体躯で、ただの片手武器でこうなる。

これが『呪いの武器』。数多の冒険者を惹きつけた毒の味であり、『呪われし小鬼』を上層最強へと押し上げた力だ。


燐は命が掛かっている場面だと分かっているのに、浮かび上がる笑みを殺せなかった。

心の奥から湧き出す黒い感情を、狂気で飲み干した。


(あれがあれば、あれがあれば―――ッ!)


あの斧を手にすれば、今のように数体のモンスター相手に全力を出して戦う必要も無い。

全てを薙ぎ払う絶対的な力だ。

燐の瞳が狂気の色を帯びる。その目は斧に合わせられ、隠し切れない執念が牙を剝く。


「――――――」

「何やってるの!逃げるわよ!」


一歩進んだ燐の足を、アリスの声が呼び止める。

燐の視界を塞ぐように立ち塞がったアリスが、燐を睨みつける。


「勝てないわ!死ぬけどいいの!!」


アリスは燐の、燐とアリスの実力不足を指摘する。それは正論だと分かるほどの理性は残っていた。

燐は唇を噛み締める。血が滲み、鉄の味が口に広がる。

呪われし小鬼が単独で出歩いている今が最大の討伐のチャンスだ。

だが、勝てない。勝つための装備も準備もしてこなかった。


―――無駄死


「分かってる!」


燐は爆心地に背を向けて走り出す。

なぜか呪われし小鬼が追って来ることは無かった。

燐はほどなく正規ルートに辿り着き、他の冒険者の後を続くようにダンジョン外へと向かう。最後に一度、東を見る。

迫りくる悪寒も、呪いの声も聞こえない。

まるで何もなかったように、ダンジョンは静まり返っていた。

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