31話 七章 嗤う悪魔と、最後の戦い(3)下

 体内の悪魔細胞と人間細胞が、崩壊と再生の足並みをちょうど揃えたらしい。そっと触れて内臓の強度を確認してみると、まだ潰れる気配はない。


 それでも動かすたび、筋肉がギシリと硬直するような気だるい違和感は起こりつつあった。安定している今を過ぎてしまったら、あとは一気に最後まで壊れ続けるのだろう。


 そばに誰がいようと、もう構わない事にした。一時の安定した穏やかさを思い、サードは少しだけ目を閉じた。

 

 先程触れてきたロイの手や、トム・サリファンに腕を掴まれて「お前は『サード』だ。さぁ捕まえたぞ、悪ガキめ」と引き止められた手。スミラギに「逆さ吊りにしてあげます」と脇腹に抱えられた時の感触や、甘いココアの熱が、本当はどのような温度と力強さを持っていたのか――は、考えないようにした。


 人の心があるほど最期は辛くなる、とトム・サリファンが言った事があった。


 未練や心残りを与えるくらいならば、兵器として殺してやれと、地下の研究施設で誰かが喚いていた言葉も覚えている。


 そんな事は出来ません、どうかお許し下さい、最期は私達で処理致しますので、どうか、どうか見逃してください……――最後の一人になった仲間を見届けた研究員達が、偉い研究者の男に向かって、跪(ひざまずい)いて頭を床に擦り付けていた風景が思い出された。


 体中から血を流す少年を、彼らは泣きながら付きっきりで看ていた。そして少年は、こちらを見て微笑んで「ごめん、先に逝くね」と唇を動して、死んだ。


 何気ないワンシーンが、次々にサードの瞼の裏に蘇っていった。どうしてか、初めて地上に出た日の事も思い出した。


 実験で睡眠欲と食欲のほとんどを失っていたから、トム・サリファンの屋敷で食べ物を出された時、サードは『ソレがなんであるのか』分からなかった。彼の真似をして素手で口に入れてみたら、胃が受け付けずに吐いた。


 いつも食べている『乾燥フード』と『サプリメント』をくれと言ったら、トム・サリファンは怒ったように「これを食べなさい」と水気の多い料理を作って出した。


 もっと食べろと、トム・サリファンは一緒の暮らしが始まってからいつも言った。けれど、腹が減らないから無理だとサードは教えた。だって決まった時間に、決まった量の乾燥フードとサプリメントを摂り、定められた時間内に『悪魔の血の丸薬』を服用する以外に、この身体はほとんど何も求めないからだ。


 繰り返される実験で、正常な痛覚が遠のくと共に多くの何かを失ったような気がする。今でも、胸に込み上げる感情の正体は分からないままだ。


 きっと今は腹が空いているに違いない、という僅かな感覚と時間を頼りに、地上での研修期間の半年で、どうにか一日三度は食事をとるよう習慣付けた。


 柔らかいパンが気に入って、トム・サリファンが仏頂面でパンを焼いている時、匂いに気付くたびキッチンを覗き込んだりもした。


 あれは、療養食から通常食への移行だったのだろう。トム・サリファンは「私は独身だ、自炊くらいする」「ここに使用人を入れられないから仕方がない」とぶっきらぼうに言いながら、白衣の上から大きなエプロンをつけて、いつも医学寄りの料理本を片手にキッチンに立っていた。


 きっと、自分は夢を見ているのだろう、とサードは思った。目を閉じている短い時間の中、これまでの事が蘇っては、瞼の裏の闇へと消えていく。


 思い返せば、スミラギの授業が終わる頃、帰宅したトム・サリファンが部屋を覗き込んで「腹が空いたんじゃないか」と、パンを手渡すのは珍しくなかった。夕食までもうすぐだからと告げて、彼はサードとスミラギを勉強部屋に残して、一旦退出する。そして、食事の匂いがし始めた頃に再びやってきて、サード達を呼び、三人で大きな食卓に腰かける毎日だった。


 不意に、覚醒を促されたような気がして、サードは目を開いた。


 そこには、思い出のままの白衣のスミラギが立って、こちらを見下ろしていた。まだ夢を見ているのだろうかと思ったが、腹の辺りには強い不快感があった。

 

 どうにか動かして震える手で腹に触れてみると、内臓や血管や肉を構成するものが、勝手に壊れて潰れていく音が伝わってきた。だから目が覚めたらしいと、身身に聞こえる自分の呼吸音の以上に気付いて思う。


 呼吸がひどく苦しい。スミラギの隣には、不安そうな顔をしたソーマの姿もあった。彼が何事か後ろの人間に言っている様子が見えたけれど、聴覚は鈍くなってしまっていて、ほとんど聞き取れなかった。


「…………なんだ、スミラギ。ちゃんと来てくれたのか」


 そう口を開いたサードは、自分の声が掠れ、絡むような水音を含んでいる事に気付いた。


 既に吐血が始まっているのだろうか。身体の感覚は一部鈍ってしまっていて、口の中の感覚がよく分からない。視界は霞んで、呼吸もしづらかった。


「――サード。サード、聞こえますか」


 すると、スミラギがしゃがんで、耳元でそう言ってきた。


 どうやら、先程から声を掛けていたらしい。サードは「今、聞こえた」と短く答えた。その際に妙な咳が込み上げて、口周りをどろりと汚してしまったような気がしたものの、やはり自分ではよく分からなかった。


 腹の辺りに不快感は続いているが、そこに剣で貫かれた時のような痛みはなかった。視界の隅に映り込む自分の手が、僅かに震えているのが不思議なほどだ。


 喉に力を入れるのが、少しだけ苦しい。けれど、どうにか声を絞り出して、サードは伝えた。


「……大丈夫。不思議と、それほどまでは、痛くない…………このまま、誰かの剣で、首、落としてくれないか」

「やはり予測よりも早く限界がきましたね。あなた達は、『生きているのだと実感がないほどに死期が早く進む』ようですから」


 スミラギが、よく分からない独り言を口にした。


 その時、ずぐん、と一際大きく何かが崩れる音が耳の奥で上がった。息が詰まるような圧迫感が込み上げた直後、サードは大きく咳込んで血を吐いていた。


 ヒュー、ヒューと妙な音が聞こえる。


 もしかして自分の呼気だろうか、と他人ごとにぼんやりと思った。


 痛いはずの身体は、生理的な涙で視界を霞ませている。それでもサードは、先程腹を貫かれたような『痛い実感』は込み上げなくて、ちっとも生きている気がしなかった。それが、ひどく残念だった。


 スミラギの後ろから、ユーリスとロイが顔を覗かせていたが、もうサードは表情までは視認出来なくなっていた。全員の中で一際小振りなエミルの頭を抱き寄せて、ソーマが何事か叫ぶような姿が見えた。


 ふっ、と視界が少し薄暗くなる。


 その一瞬、青い光が上がったような気もした。


 もう日食は終わったのだろうか。サードは、重たくなる瞼をどうにか持ち上げて思った。スミラギの隣に立ったロイが、こちらを見下ろして話しかけてくるが、よく聞こえない。


 すると、スミラギがこちらに顔を寄せて、耳元で淡々とこう言ってきた。


「サード、これならば、こちらの声は聞こえますね?」

「………………聞こ、えるけど、斬首の件は、どうなって……」

「いいからお聞きなさい。あなたは、ただ【了承した】と口にするだけでいい。そうすれば、好きなだけ眠らせてあげましょう」


 こんな時に、スミラギはいじわるをしたいのだろうか?


 サードは呆気に取られ、勘弁してくれと思った。そう考えている間にも、ひどく眠りたいような感覚に襲われて、更に瞼が重くなる。


 数秒もしないうちに、視界が完全に暗転しかけた。しかし、スミラギが容赦なく「起きなさい」と肩を揺らしてきて、眠りの淵から無理やり引き上げられてしまう。


 頼むからもう放っといてくれよ、と、サードは本気で頭を抱えたくなった。


「……分かった、よ。だから、肩、揺するな…………もう、休ませてくれ……」


 言い終わらないうちに、ふぅっと意識が遠のいた。すると、またしても「起きなさい」と先程よりも強く叱られた。


 斬首しなくとも、このまま眠れば死んでしまえるだろうと本能的に察していた。それなのにもかかわらず、しつこく肩を揺すってくるスミラギが鬱陶しい。


「サード、まだ意識を手放していいとは許可していませんよ。ほら、起きなさい。言えないのであれば、あなたが起きやすくなるよう縛り上げて屋上から逆さ吊りにしますよ」


 耳元で大声を上げるスミラギのしつこさに、サードは「えぇぇ……」と思う。この状況で自分を屋上から逆さ吊りにするというのは、あまりに鬼畜ではないだろうか?


 けれどスミラギだったら、絶対にやってのけるに違いない。半年の地上研修で、身に叩きこまされた超スパルタな授業が思い起こされて、この身体でそれをされたらたまらないと思ったサードは、必死にどうにか声を絞り出した。


「りょ……『了承、した』…………」


 そう口にした直後、心臓が一際大きく波打った気がした。


 スミラギが眉一つ動かさず「よく出来ました」と告げた無表情な顔を最後に、サードの意識は、プツリと途切れた。

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