第53話 サワとの別離

「サワさん、本当にありがとう」

 雪花の声が震えている。

「なんだ、ユキカよ。泣く必要などないぞ」

「でも……」

「恥ずいが、良い物が見られた。これで心置きなく帰ることができる」

 それを聞いて、もう雪花は堪えきれなくなってさめざめと涙をあふれさせていた。

「戻って来ることあるのか、こっちに。自宅謹慎てことなら……」

「分からん。上からの指示次第だが、多分……校外学習も予定よりも早く終了ということだ」

 謙吾の言葉を珍しくさえぎった。それは可能性が極端に低いことをしめしていた。

「んな……」

 謙吾の中にも郷愁に似た感じが沸き起ころうとしていた。

「ケンゴだって、大学に行ってしまえば戻って来るとは限らんだろ。ユキカにしろ、誰にしろ。どうなるかなんて分からん」

「そりゃそうだけどよ」

 未来は、世界は未知だ。そこを謙吾は今歩み出している。

 だから、一人の感情だけで寂しいとか懐かしむとか言うのも、自分は顧みているのだろうか。

 寂しいと言い向けた相手から見れば、その人の思いもあり、それを無視されてはいないだろうか、と鑑みる余裕があった。

「目に見えないと心は分からないのか……か」

「ケンゴ?」

「和泉先生に言われたんだ。まあどっちにしろ忘れねぇな、この夏のことは」

 人の記憶は出来の悪いビデオを見るみたいなものだ。DVDには決してならない。時間と使用経過とともに鮮度が悪くなる。それでもこの夏にイルカ・人間に変身する人魚がいて、半魚人がいて、気体の生命体がいて、そして恋をした事実は謙吾に刻まれ消えることはない。

「ケンゴよ、時はいつでも弾けているぞ。その面、ちっとは良い男になったな」

「ダメです。謙吾くんは今しがた私の……って、ダメというのは言い過ぎですけど」

 涙目ながら雪花は幾分、声色に抑揚が戻る。

ただ、ここに至って改めて、目前のサワを直視する。雪花の懸念材料はサワの抜群のモデル体型であった。まさしく身体が語る女性らしさ。文字通りのボディラングエッジ。気落ちの色が浮かぶ。そんな雪花を見て取ったのか、

「大丈夫だ、ユキカよ。ケンゴはな、どちらかというとユキカのようなスタイリッシュな体型の女性が好みらしい」

 ひそひそと耳打ちの仕草はするが、それはふりだけであり、謙吾の耳には十分届いていた。

「何言ってんだよ、お前は!」

「そうではないか、ケンゴよ。お前の部屋の押し入れに入っている衣装ケースの……」

「わー! ってなんでお前知ってんだよ、ほら、雪花引いてるだろ」

 謙吾の必死感が、サワの言の何よりの傍証となる。

「いえ、謙吾くん。いいんですよ。男子だから。でも、謙吾くんの好みの……」

「いや、それは違う。いや違う訳じゃないんだけど。そう、俺が雪花を好きになったのは身体云々ではないから、そこんとこは」

「ケンゴよ、それを墓穴を掘ると言うのではないか?」

「お前が発端だろ! いつ知ったんだよ、俺のが……」

 サワがそれを知ったとしたら、イルカが入浴中した日以外にありえない。そういえば、押し入れの襖がしっとりしていた気がするなどと、今更の記憶が恥ずかしさをそそる。

「だから、それが墓穴だと。まあいいではないか。覚えておけよ、ケンゴよ。障子に目ありだ」

 謙吾達に背を向け、ぐうっと背伸びを一つした。

「さて、そろそろ帰……」

 そこへ一つ水球がえらいスピードで謙吾と雪花の横を通過したと思うと、サワの顔面を襲った。すっかり油断していたらしい。

「何をするー!」

 憤慨する相手は一人しかいない。

「あら、てっきり泣いているだろうから、謙吾さんと波野さんに見せないよう、誤魔化してあげたのに」

 沖水はいつものような冷然とした様子で人差し指を立てていた。

「ふん」

 波打ち際まで歩く。人はいなかった。謙吾と雪花が並び、その後ろに沖水が距離を開け、サワは海を背に彼らと向かい合う。

「人払い、私が行ったら、解くのだぞ」

「言われるまでもないです」

「ケンゴやユキカのこと……いや、なんでもない」

「何度も言わせないでくれる? あなたに言われるまでもなく、よ」

「あっそ」

 謙吾には、今になってようやく気付くこと、分かったことが多かった。サワが謙吾宅前でイルカに変身した時に、道に誰もいなかった、自動車も通らなかった。さらには雪花がイルカの体内で酸素カプセルのように安置されていた時に人気がなかったのは、沖水が今と同じように人払いの術みたいなものを使っていたのではないか。

どうしてサワが来たことを沖水が気づいたかなんて、謙吾には計り知れないが、きっと彼女達にしか分からないような赤外線センサーもビックリな何かしら感知できるものがあるのだろう。サワも気体生命体を識別できるみたいなことを言っていた。それはサワやサワのような海中の研究者達が作り出し、普及させた技術かもしれないし、沖水のような種族が偏在する気体ゆえに持ちうる能力的なものかもしれない。

 いずれにせよ、その時致し方なくとも受け入れ、奮闘し、悶絶しつつも、それと応じていれば、その意味はいつか後になって分かるようになるということだ。この数日がそうであったように、これからの日々をそうして行けばいいだけ事である。

 それを教えてくれた友人は、

「じゃあな、ケンゴ、ユキカよ。恩返しを何かしらしたかったのだが、何もできんで、すまんかったな」

 相変わらずな不遜な姿勢のままである。

「何言ってんだよ。さっきも言ったろ。お前がいて面白かったぞ、この夏は」

「そうよ。サワさんがいたから私は頑張ることができたんだと思うし」

「そう言ってもらえたら、私はうれしい。ありがとう、二人とも。いつだって生きているのは、弾けていることなのだ。ではな」

 サワは駆け出した。その景色に謙吾も雪花も目を見開いた。サワは海面を走って行ったのだ。飛び石のように海面に波紋を作りながら、三〇メートル程、二人から距離を作ると、ジャンプして、放物線を描きながら海面に向かっていった。サワの足は魚の尾に変化しながら、その体は海中に消えて行った。

 大きく広がった一つの波紋はすぐに海に同化した。

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