第45話 謙吾の想起

 島に来るまで住んでいた都市まち。教師は進学率を上げるために、口を開けばあおるだけあおって受験の話しばかり。街を歩けば同じようなビルばかり。週末には似たようなイベントとそれに伴う渋滞ばかり。喧噪にしか感じられなかった、飽き飽きとした生活。

 転校して早々にクラスメート達は都市の有り様をしきりに聞いてきた。彼らが嬉々として聞きたがる都会の生活を大したことはないと断言した。彼らの羨望は想像と違って、見るとがっかりするとも告げた。彼らにとって水平線の向こうは、未知なのかもしれない。それが過剰な期待や興味という想像力の増幅につながっているだけだろうと、謙吾は合点していた。島から訪れる都市とそこに定住することとは、見える角度や透明度が違うのだから。

 辟易している都市生活社会という騒がしい外野から逃亡して、自分のペースで日々を過ごせたら。そのタイミングでの父の転勤話。彼にとってこの島は最初その程度の場所だった。けれども、もしかしたら、その人が思い、描いていた想像を、現実というのは超えていたのかもしれない。謙吾が知っている都市の顔など、現実のほんの断片よりも小さな欠片でしかないと、今になって痛感させられた。謙吾自身がこの夏の日々の中で出会ったことのように。都市での暮らしというジグソーパズルの一片を見て、世界を知ったようになっていただけで。

 去年の夏まではまるで感じなかった思い。都会の生活では気が向かない世界の姿を目の当たりにしていた。 

 やたらに静かな夜。二〇時を過ぎれば、自動車の交通が極端に少なくなる。こういう時間帯が夜なのだということが痛感させられた。そこから感じる、夜の長さ。陽が昇ることの高揚感。秒刻み、分刻みにはなかった。時間が拘束力を持たずにゆっくりと流れている。

体育祭の打ち上げで見上げた夜空。星が本当に教科書のままで、

「まるでプラネタリウムだな」

そんな感想を洋介に、

「謙吾、それ逆じゃね?」

と言われ、間を悪くした。

 謙吾のこれまでの日々を例えるなら、ただ既存のレールを見つめながら、歩いていただけということになるだろう。親が決めたレールなんてお決まりのことではない。国家社会が制度として教育というものを立ち上げている以上、そこに則ったシステムやカリキュラムに従わなければならない。それがレールだ。けれど、いくらそれとて、そのレールでどうするかなんていちいち決められているはずもなかった。仮にそうだとしたら、それこそ大人が勝手に作り上げた運輸機関だ。それはレールじゃない。単なる貨物列車とかトロッコのようなものだ。それを謙吾の親は強いたりはしなかった。立ち止まったり、走ったり、裸足になってみたり、振り向いたり、しゃがみ込んだり、辺りに視線を向けたり……そんなことを謙吾自身がただしなかっただけなのだ。レールの歩み方まで規定されているわけでもなかったから、それこそ自由にしてよかったはずなのに。これまでがそうだったとしても、これからも同じようにしなければならないと決めているとすれば、それはレールでも運輸機関でもなく、謙吾自身である。

 サワや沖水、巨大コブダイなんかがひょっこりと顔を出した海中の未知と同じように、目下取り組んでいる受験さえ、未知なのだ。大学合格率八〇パーセント以上を表すA判定は、何も決めているわけでも、保証しているわけでもない。

 どこかで、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」そんなことを聞いたなと、謙吾は思い出していた。しかし、謙吾は過去さえも未知なのだとしたら、変えられるかもしれないと思った。それこそリードシクティス以上に巨大な古代魚がいたかもしれない。化石が残っていない、出てこないから現代の人間が分からないだけで。

 謙吾自身のことで言えば、「つまらなかった都市の暮らし」から「つまらないと決めつけていた、自分の浅はかさ、視野の狭さの中にいた、未知を発見するまでの停滞期、あるいは準備期間」へと。それは物理的な物事ではなく、単なる言葉のすりかえかもしれない。けれども謙吾にとってはその心の持ちようこそが一歩出せるか出せないかの瀬戸際に立っているのだ。これまでも未知は、ひょっこり顔を出しているのに、気づいていなかったのかもしれない、謙吾自身が決めつけて、固定化させていた視界の範疇が変わる。それが今の謙吾にとっては背中を押す手になるのだ。

 また同時に、謙吾がサワや沖水をすんなりと受け入れられた理由と関係はそこにあるのかもしれない。いつしか硬直していった心の奥底で、そういう未知の者にいて欲しいという深層意識がゼロだった、とは言い切れないからである。彼女達はあまりにも分かりやすく登場してくれたのである。そもそもサワが来なければ、沖水は同じクラスに在籍する、会話をしたことが数回しかない女子というカテゴリーのままだったろう。謙吾にとってこの島が、サワが未知であったとするならば、クラスメート達にとっては謙吾も未知だったろう。

 それでも日々を重ね、知っていき、関係が結ばれていく。そこにも残る謙吾が触れられない、知れない位相。前者を社会というならば、後者は世界ということになる。だとしたら、謙吾は社会と世界が合同であると誤認していたのだ。社会は世界に内包されているとは思いもしなかった。数学が得意な割にそこんとこの証明をしようともしてこなかったのだ。

 サワに住んでいた海の中の世界について、一度訊いたことがあったのだ。その時、サワは、

「さあ、私達も完全には分かっていない。けれど、だから私達は知りたくて技術を磨いているのだ。地上も含めてな」

 などと答えていたが、暇つぶし程度に訊いたことだったので、真剣に関心を寄せているわけではなかった。今なら片手間でなしに最後までサワの話を聞ける気がした。あの高慢ちきなしゃべり方には耐えなければならないが。

 いささか過剰だが過信ではない自信を持っている、そう思っていた。むしろ、サワが抱いているものは、誇りだと言った方がいいと今になって実感する。彼女は走り高跳びに果敢に挑戦した。それまで知らなかったこと、未知に飛び出したのだ。失敗に終わったが。

 ――なら俺自身はどうだろうか?

 沖水ならば何と答えるだろうか。その半魚人と高テクノロジーの海洋生物は仲が悪い。会えば罵詈雑言を並べる。それだけ思いっきり言い合えるほどの関係性。だから、巨大コブダイの時も、雪花がさらわれた時も、互いの持ちようによって協力し合えたのだろう。もはや、サワがオープンキャンパスについて来たのは、あの巨大コブダイを沖水とで対処するためだったのではないかとさえ、謙吾には思えてくる。それを言えば、彼女達は断固として否定するだろうが。

 その関係性を自分は誰かと持ち合わせただろうか、持ち合わせているだろうか、持ち合わせることができるだろうかと、謙吾はふと思った。

 世界は語りかけている。サワや沖水は人の姿に成ってくれているから、人の言葉を使ってくれるから、謙吾は聞こえる。人の言葉でなければ、聞こえないのだろうか。ただ耳を傾けていなかっただけではないか。

 人にとっての深海が“真”海なのかもしれない。人が見えるのはせいぜいグラデーションのあるエメラルド色の領域と水平線。どっちにしろ表面でしかない。海の中身を人は地上からは見ることは出来ない。三〇〇度の熱水を噴出する海底には、硫化水素やメタンを化学合成させて栄養供給として生存する生物もいる。そんなのは、こっちにいてはまるで知れないことなのだ。知れなくても、謙吾には見えなくても、その生命はまさに世界に生きているのだ。謙吾が地上で、その深海生物に知られずに生きているように。

 人間とは違う世界があること、それがどうなっているのかを、同時にこの生きている謙吾達の世界を知りたいという衝動が更に動悸を弾ませていった。

「知りたいのは社会か、それとも世界か?」

 和泉の声が傍から聞こえた。

「世界は見飽きるようなものなのか? なあ、龍宮。お前は地図を見てるだけで十分なのか? 地図を自分で描きたいとは思わんか?」

 和泉の問いかけの向こう側から暗く冷たかったレールが靴音を響く音が聞こえた。リアルな地図を描き始めようとしているように。たった一つの短い言葉が目からどころか心からうろこを剥がしてくれるのだ。鼓動が拡張していく。眼差しの向こう側へ。謙吾のその心に浮かんだのは、

「謙吾くん」

 波野雪花が白いワンピース姿で笑んでくれていた。

 “ドキ”

 ――俺は雪花のことを――

 謙吾は、花火が目の前に上がった錯覚に浸った。あるいは、ジグソーパズルの一ピースがパチリとはまる感覚だった。ぼんやりとしか分からなかったジグソーパズルの全体像の絵がはっきりと見えてき始めた。

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