第42話 海の中で雪果は

 息苦しさ、喉を通っていくしょっぱさ、肩に絡みつく拘束されている感覚。それらで、雪花は海中に突入してしまったことがようやく自覚できた。不意打ちに引きずり込まれた海中をいまだに進み続ける、呼吸もままならない状態で、雪花がたった指先で一つ確かめたこと。

 ――よかった。ここにある

 謙吾にかけてもらったネックレスだった。

 もはや足がつくような深さにはいない。それどころか、海面が上下左右、前方後方どこにあるかのかさえ把握できなくなっていた。ただ方向も定まらない海の中という無限に広がると感じられる空間の中にいる。宇宙に放たれたのと同じだ。

 飲んだ海水の量が徐々に意識を薄れさせていく。ぼんやりとした視界で自身の身体を見た。網もロープも、あるいは海中生物の四肢も身体のどこにもなかった。ポチャン。あえて言えばずっと透明に近くなったクラゲの頭部のような球体が先導しているように見えた。それが一体何なのか、凝視し直すことはなかった。雪花は抗いもせず、どこか覚悟さえしたかのようだった。

 ――謙吾くん、ごめんね。何もちゃんと言えなくて。……今、何してるかな……今日はね、私の誕生日だったんだよ。ありがとうね、ネックレスかけてくれて。これも言えなかった……こうなったのは、きっと……

 力が抜けていき、木の葉のように、ただ海中のうねりに弄ばれていく雪花は、謙吾の顔を思い浮かべていた。

「ユ……カ!」

 遠くから人の声が聞こえる。幻聴。雪花はとうとうな覚悟を決めようとしていた。

「ユキカ!」

 サワがいた。となりには沖水も。

 海中を進む雪花のスピードが緩やかに、徐行になっていき、停止。すると、沖水が手の平を向けた次の瞬間。雪花は見た。クラゲっぽいものと、それに自身の横に謎な生物がいて、その動きが止まっているのを。後者の方は、海中で何もそう自己主張せんでもよかろうと思うほどに色鮮やかな体表面。見たこともない目立つ色彩の生物が大きなシャボン玉のような水泡の中に閉じ込められ、まるでその内が無酸素状態にされているかのように、それはのたうちまわっている。

 けれども、雪花は身体が引っ張られそうになっている感覚は継続しているように感じた。サワと沖水が雪花に近づいてくる。

「愚か者!」

 サワが激高した。雪花は自分が叱られたものと思ったのだが、先導していた何か球体じみた物が震えだしたように感じると、それが自身から離れすごいスピードで遠のいて行く水流があった。

 謎な生物のド派手な足が悪あがくと水泡の中から伸び出し、雪花の首を絡めた。

「波野さん!」

 指を鳴らす動作と同時にシャボン玉は割れ、生物は雪花の首から足を離すと、そのまま沖に向かって行った。

「あなたは波野さんを」

「分かった。お前はユキカの首を絞めたアレを追え。あのアホンダラは私が後でシメル」

 サワに答えもせず、謎な生物を追いかけていく沖水。

「おい、ユキカ!」

「サ……」

 地上と同じように口を開いた。雪花の呼気が泡になっていく。

「ユキカ!」

 サワは右耳のピアスを指先で押す。そこにイルカが現れた。サワが背鰭を撫でると、イルカの背中がぱっくりと裂け、そこに雪花をイルカの体内に押し込んだ。背鰭を再び触ると背中が閉じた。

「ユキカ! 聞こえるか?」

 もう呼吸の一つもできないはずなのに、できていた。それが雪花のまぶたを開かせる。海中ではなかった。宇宙船のコックピットのような場所。スイッチや計器の類が所狭しと並んでおり、モニターもあった。鮮明に海の中が見えた。そこにいるサワの姿も。疲労と気だるさが全身となっていたが、それでも息をしていられることが生きている実感をもたらす。

「良かった。これは私が開発したものだ。少しは気分が持ち直すだろう」

サワがそうした何の装備もなく、地上と同じように海中で呼吸をし、会話をしている。イルカの中から目を凝らす。モニターを通して雪花の目に映るサワの姿。目を一段と見開く雪花。サワが見知った彼女ではなかった。

「サワさん……どうして……?」

「助けに来たに決まっているだろ、友人をな。あやつもな」

「でも、ここは……」

「見ての通り、私は人間じゃないから大丈夫だ。だから、ユキカを助けに来たんだ」

 雪花はサワの身体を、もう一度まじまじと見つめた。

「びっくりさせたか。けれど、これが私の姿だ。ケンゴが待っている。帰ろう」

「ごめんなさい、サワさん」

 雪花は嗚咽し、心情を吐露し始めた。

「出会ったばかりのサワさんが謙吾くんのことを、ケンゴって呼び捨てにしていて、謙吾くんもサワさんのこと呼び捨てにしていて。あの沖水さんとも、謙吾くんはよくしゃべるようになって。いつの間にか沖水さんも謙吾くんを下の名前で呼んでて。いきなり追い抜かれたような、置き去りにされたような気分になって。驚いて、悔しくて、悲しくて。だから、私も呼び捨てにしてもらおうと思って。

 プールでのこと。あんなに気味の悪い生物が襲ってきて、謙吾くんは、私をかばってくれた。あんな非常時に、私は抱きしめてもらえて、うれしいなんて思っていたの。うれしくて気を失って、気がついたら、謙吾くんは沖水さんに寄り添うから、体よく心配するだけで、本当は心の中では、心の中では。

 謙吾くんがサワさんのピアスのこと喋ってる時があって、私も何か欲しくなって。だから、ビーチフラッグスの賞品がネックレスだと分かって、どうしても絶対に欲しくて。それを和泉先生に見抜かれているのが、恥ずかしくて。でも、欲しくて。実際に手に入れたら、今度は謙吾くんにかけてもらいたいって思って。

 どんどん私が今まで知らなかった私が現れてきて、私の感情が膨らんで行って、いつか弾けちゃうんじゃないかって。そしたら、私はどうなるだろう。その時、謙吾くんをどう想っているのだろうって。ううん、想っていてもいいのかなって。

 告白を満足にできないどころか、現状維持も悪くないって思っているのに、嫉妬は一人前にできるんだから。妄想も気持ちがいい。誰も何も傷つかない。ただ現実に面するとがっかりするだけ。何もできない、勇気のない自分がいるだけだから。そんな無力感にさえ堪えられたら、妄想さえもあればいいと思ってしまう。好きという気持ちを大事にすればするほど、大事にしようとすればするほど、臆病になる。この気持ちが消えてしまうことがあるのなら、そうなる行為はきっとしちゃいけないと思ってしまう。

 それだけで幸せだと思っていたのに、嫉妬はそれを忘れさせる。私だけをって、どうしても思ってしまう。嫉妬が私を乗っ取ってしまうみたいに。そんなこと、謙吾くんにとっては迷惑でしかないのに。

だから、海の中でぼんやりしながら、これはこんなことを思っていた罰なんだって。そう思って。でも謙吾くんに……だから、もうあきらめ……」

 サワはただ涙声の雪花の言葉全てを聞き洩らさないようにしていた。ただ一言は決して口にさせてはいけなかった。

「あきらめはさせんよ、私が。ユキカよ、いいんだ。それが人間というものだ。ケンゴだって、ユキカと同じようではないか? あいつだって澄ましているが、悩み事が無いなんてことはない。ヨースケやマスミだってそうだろ。皆そんな自分を抱えながら、それでも優しい。

 それにだ、ケンゴが今どうしようとしてるか、何を考えているか、ユキカなら分かるであろう。実際、あのバカモノは海に潜って行ったんだ」

「……え?」

「ユキカを助けようとしていたのだ、非力だというのにな」

「……謙吾くん……」

「ユキカよ、私に言った思いを、ケンゴにも言うのだぞ」

「言えない! そんなことしたら、謙吾くんに軽蔑されちゃう。怖いの。こんなに我儘に強欲になっている自分が」

「すべてじゃなくていいんだ。今すぐじゃなくてもいいんだ。ユキカのケンゴへの思いを、どう思っているのかを、ユキカの言葉でケンゴに伝えるんだ。あのバカモノはそれくらいしないと分からんぞ」

 サワの穏やかな笑みが雪花には痛かった。

「サワさんは? サワさんはいいの? サワさんは……」

 雪花の言葉を遮って、

「私は恩返しをしたいのだ。安心をしろ。今は休むがいい」

 サワの言葉に落ち着いたのか、海水を飲んだ影響が今になって出たのか、自分の気持ちを言ってすっきりしたのか、あるいはそれらをも含めてすべてのせいか、雪花は意識を失った。

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