第41話 海の中で謙吾は

 一人海中に残る謙吾。ここに漂っていたところで何一つできはしない。サワに言われた通り、浜に戻るしかなかった。

 沖水のおかげで息継ぎに海面上に頭を出す必要のなくなった現在、謙吾は改めて、この海中という視界を見渡した。暗くなっている空間は、地図や宇宙からの画像に見られるあの瑞々しい青さではなかった。けれども、人には海は青く見える。美しいと感じる。それは地球が美しくなりたくて青さを選択した、そんなメルヘンな理由を謙吾はこれまで思い浮かべることはなかった。

 魚がいる、海草がある、ヒトデがいる、アメフラシもいる。穏やかにしか見えない海面からは見えない海中のうねりが身体を弄ぶ。

 ――あれ……?

 謙吾は一つ気が付いた。雑音がない。海面に顔を出せば聞こえる子供達の歓声も車のエンジン音も救急車のサイレン音も何も。ただ、そんなことを思っている自分の声は聞こえていた。

 ――ここにあいつらは生きていたんだな

 今さらになってサワや沖水が本来的に生存していた場所を訪れた気がした。そんな風に思うのは、サワや沖水が海のことを説明していたからかもしれないし、単なる感傷かもしれなかった。けれども、そう思えたということは、彼には新鮮だった。

無音のはずの海の中。けれども、謙吾には自分の声以外の音が聞こえるようだった。それを音と呼んでいいのかさえも分からなかった。地球が、海中がしゃべっているなどとロマン的に表すのは、その音に対して失礼な気もした。原始の、いや地球の鼓動とも言うべき、無音が聞こえる。矛盾しているが、謙吾にとってはそう思えたのである。理系の彼でも承認してしまった感覚だった。

 ――帰って来たんだ

 謙吾はそう思った。地球に生物が誕生して三〇数億年。その遺伝的記憶が彼をして想起させていた、などと高説を彼は拒否するだろう。謙吾が聞いているのは地球の、海の息吹以外の何物ではなかった。

 その音を聞き続けられない無念さを胸に謙吾は浜へ向かって泳いだ。

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