第39話 夕方の浜辺で

 閉会式が執り行われ、表彰状及び賞品の授与などの形式が済むと、またしても洋介の提案によってネットのないビーチバレーやらスイカ割りやらがたて続きに行われ、二時間ほどして、汗と海水と日焼けのにぎわいが終わりを告げ、一同は解散をした。

焼けるような日中に比べれば、柔らかな風が心地よささえ催させる夕方。セミ達が競うように鳴き続ける声は耳の奥まで響く。

 家を出て海岸線へ。防砂林を突っ切ると、一面に夕方の浜辺が広がっている。あと小一時間もせずに日没だというのに、まだまだ陽射しが駄々をこねている。ポロシャツとステテコ姿の謙吾はそんな風景の拡がる浜へ夕涼みに出た。

数歩、浜の方へ進む。

「謙吾……くん……」

 ラジオ体操ができそうな開けた広場に東屋があり、隣接してトイレ、そしてロッジ風に仕立てられた更衣室が並ぶ。その脇に木製のベンチがあり、対面に海が臨めるように置かれている。そこに座っていた雪花があっけにとられたような顔で、謙吾を見上げていた。

「雪花……帰らなかったのか?」

「うん、ちょっとね」

声色がどこかよそよそしい。

「座る?」

 ポーチを膝の上に置き、白いワンピースを着ている雪花は、昼のスポーティさとはまるで違って、というよりも謙吾が見知っているのとはまるで違い、婉然としていた。

 “ドクンッ”

 謙吾は、心を奪われた感で雪花の横に腰を下ろした。

 浜は昼とは違ってひっそりしていた。人がいないわけではない。まだ波打ち際ではしゃぐ子供やそれを見守る親や、浜辺を歩く男女の姿などがある。けれども、昼下がりの騒々しさから比べれば、それは静寂と感じられるほどだ。

「サワさんの家にしばらくいて、今サワさんは研究があるとかで家にいて、沖水さんはそもそもサワさんの家には来ないで家に帰っちゃった」

「ま、そりゃそうだわな。家あそこなわけだし、サワと沖水は水と油だし」

「そうだね」

 打ち返す波音が呼びこむ再びの静けさ。

 ――何か話した方がいんだよな

 そんなことを思っていると、大きく息をつく音が謙吾の耳の傍から聞こえた。思わず謙吾は横を見る。

 スクッと立ち上がって

「謙吾くん」

 ポーチを胸の前に抱えて雪花が言うものだから、謙吾もゆっくり立ち上がった。彼女の頬がほんのりとピンク色になっている。

「あの!」

 身を乗り出さんばかりの切り出し。

「ああ、どうした。雪花」

 ポーチをギュッと握ってから

「あの……」

 瞬きを多くして何を見ているわけでもなく、地を視線が定まらず泳いでいる。何か言葉を探しているのだと謙吾にも分かった。

「ゆ……」

「あの、謙吾くん」

「なんだ?」

「少し歩きませんか」

 言うなり、雪花は段を下り浜へ行く。ヒールが数センチあるサンダルは汚れ一つないのだが、履き慣れないのか、歩く様がたどたどしい。謙吾も追って浜を歩く。サンダルの隙間から足に触れる砂がまだ熱い。

 この海岸にいた人が一人また一人と去っていく。

 雪花は波打ち際まで進むと、波に濡れないように足を振り上げながら歩く。

「なあ、雪花」

 判然としない彼女の行動が気になる。理系だからではない。ビーチフラッグスのせいでそこにも砂が入ってしまったのか。払うにも払えない、ほじり出そうとしても出せない。それができるのは謙吾ではなく、雪花なのだ。

 止まる足。雪花は後ろからでも分かるくらいに大きな息を一つついてから振り返った。

「これ……」

 意を固めたような表情のまま、ポーチを手探ると、その中からネックレスを取り出した。ビーチフラッグスの優勝賞品だった。イルカがアクアマリンの玉を抱えているデザインのネックレス。アクアマリンの石言葉は、「幸せな結婚」。謙吾や雪花は知らないだろうが、三十路間際の独身の担任様はきっと知っているだろう。

「もし……気分を害しなかったらでいいんだけど、もし……だったら、これを私にかけてもらえないかな……」

 それまで見据えた謙吾から目を逸らし、まぶたを閉じる雪花。そんなことを言われるものとも思ってもいなかった謙吾の

「気分は害さないが……」

 言葉が若干詰まる。そのちょっとした間が雪花のまぶたを更に強く閉じさせた。

「かけたらいいのか?」

 その答えに目をぱっと見開いて、

「うん」

 大きく頷いた。虹彩が一等星のようにキラキラと輝いている。

 謙吾に背を見せる。謙吾は手にしたネックレスのチェーンの両端をつまむ。たどたどしい。

「これどうやったら……」

 雪花が一度振り向き、つけ方を指さしながらする。もう一度謙吾に背を見せた。謙吾は大きく腕を回して、首の付け根にチェーンの両端を持って来た。雪花が髪を上げると、うなじが顕わになる。シャワーの後の石鹸の香り。謙吾の心拍数が滝昇る。指が固くなるのが、頬が熱っつくなるのが、妙な汗が出てくるのが、分かった。それはプールの一軒で正体が判明する前の、あの奇怪な容姿を見た時のような、えもいわれぬ恐ろしさから来る生理的反応とは違い、女子を意識せざるを得ない心理的な反応だった。

「できたぞ、雪花」

 髪を下ろし、ヒラリと回転する雪花。髪先が、スカートの裾が、そしてネックレスが宙を旋回した。

 謙吾は、目の前の時間が止まった感覚になった。波音も聞こえなかった。

 イルカの抱えるアクアマリンをそっと指先で撫で、謙吾の目を雪花は見つめて、

「ありがとう」

 にっこりと笑った。

 すると、

「雪花……?」

「あれ? なんで……?」

 雪花の頬を一つ涙が伝った。雪花にとってこのネックレスはチェーンが単に結わえられたという意味ばかりではなかった。これまでは拙かった糸しか間になかった関係に、別の結び目ができたと雪花には思えたのだ。

ただネックレスをつけてもらったこと。それがこんなにも感情を高揚させ、その意味に気付かせるなんて、雪花はそれまで想像すらしていなかった。

「なんか、俺の方が気を害した?」

「ううん、違うの。これは……」

 もう一つ頬を伝う涙。目と目が合った。雪花はいたたまれなさそうにその視線を砂地へ外した。ピンク色だった頬がリンゴのようになっていく。

「……謙吾くん……私……今日は、もう行くね」

 ポーチを握り、慌てて歩み出そうとした瞬間、

「ケンゴ! ユキカを連れて逃げろ!」

 防砂林から飛び出してきたサワが叫んでいた。

「謙吾さん、早く!」

 沖水まで駆け出してきた。

 その声に険しい顔になると、目の前にいた雪花が消えた。いや、消えていく姿が見えた。白のワンピースのまま海の中へ飲み込まれていく。今しがた括り付けたばかりのネックレがちぎられない丁重さのまま、一瞬の反射で視認できたのは透明の縄みたいなものに強引に引っ張られていた。あっという間に雪花ごと連れ去ってしまったのに、その一瞬は事細かくとらえられた。

「雪花!」

 謙吾は追った。海の中へダッシュの勢いで飛び込んで行った。

「待て、ケンゴ!」

「謙吾さん!」

 サワも沖水も海を目がけてダッシュ。足に受ける波の抵抗をもろともせず一気に海中へ突っ込んで行った。

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