第36話 帰路の甲板

 出航までフェリー乗り場近くのショッピング街で時間をつぶし、一六時発のカーフェリーの二等船室内では、島内の流通を嘆く話題になり、女子達は洋服を買ったと話し、洋介は発売されたばかりのバスケットシューズを、沖水は風鈴やグラスやら雑貨を袋から出して見せ、サワは購入したエビカツバーガー十数個を順々に食べる様となった。各人好みを満喫する中、一人何も買わなかった謙吾は、ただ友人達のその様子を無言で見ているだけだった。

 出航して一時間程経った頃のことである。

 午前中の雨が嘘のように思わせるほど鮮やかな空。熱を帯びた空。

 船は若干揺れを伴っていたのは、午前中の雨だけでなく、夏の海上にしては風があるためだった。船酔いの防止にはさっさと寝てしまうに越したことはないのだが、船室で休息を取る一同から離れて謙吾は一人、フェリーの最上階にある甲板のベンチに腰を下ろしていた。むしむしとした雨上がりを吹き飛ばす、海水を含んだ強めの風が肌にまとわりつくと、ざらざらとした感じが残る。その肌間は爽快とは真逆でこんな時でなければ不快で長時間いたくはないはずだ。彼はそれでも風にでも当たっていたかった。

 オープンキャンパスを思い出しながら、自分の中にある溶けきらない躊躇いに似た迷い。それを曲がりなりにもとらえてみなければならない、そう思ってしまうのは理系の性かとでも納得するしかなかった。とらえて流してしまうのも一つの手で、まずは消化不良な感覚をどうにかしたかったのだ。もしここで気分が悪くなるとしたら、それは船酔いではなく、この気持ちや感覚が原因であろう。

 そこへ、

「邪魔じゃない?」

 雪花だった。うかがう様子に心配の色はなかった。いつものように柔和な声。

真澄と二人でジュースを買いに船室を出た時、階上を進む謙吾の姿を見たのだった。

「行ってきな。私は先に戻ってるから」

 真澄はそう言って雪花からペットボトルを取ると、そそくさと船室の方に歩いて行ってしまった。

「どうかしたの?」

「少しな。考えることがあって。進路のこととか」

「謙吾くんはA判定なんだよね、ずっと」

「そうなんだけどな……」

 歯切れが悪い。こんな謙吾は珍しいと雪花には見えた。雪花は謙吾と接近できているこの夏の日々を思いのほか堪能し、また少なからぬ驚きで過ごしていた。

 サワと沖水が口論している時に、叱ることがあった。あんな風に語調を荒くすることがあるなんて知らなかった。

 部活の練習で対決をした。あんなに鋭い目つきになって、そしてあんなにぞくっとするような軽やかな跳躍をするなんて知らなかった。

 さらには、これまでになかった語末の濁り。

「けど……?」

「このまま進んでいいのかとか、これって本当に自分で選んだことだろうかとか、今さらになってな。雪花は今日どうだった?」

「そうだな。大変そうなのは分かってたし」

「先生にはならんのか?」

「どうだろ。もしかしたら、教職取るかもしれないけど、今はスポーツと健康を学びたいって思いの方が強いかな。模試の判定は芳しくないけど」

「数学ならいつでも教えるぞ。教えられる範囲だけど。その代わりに古文頼む。最近よく分からんようになってきた」

「うん、ありがとう。私で良ければ協力するよ」

 沈黙になった。フェリーのエンジン音が海鳥の声も波音も鼓動もかき消してしまう。

「あのさ、謙吾くん……」

 うつむいた姿勢で雪花が何か言いたげだった。

 言葉が渦巻いていた。不安が謙吾との間に割り込もうとしていた。サワのこと、沖水のこと、そして……今自分にどういう感情を抱いているか。投げかけるにしては、それは決定的な質問だった。そこまで聞いてしまえば、それが意味する所は明瞭である。自分の気持ちを察することもしてもらえなかったとしても、言葉がそれを表してしまったら、もう後には引けない。今日のランチの時に話しに出たCDはどうやって貸そうか。いや、明日から普通の顔をして会えるだろうか。そんな不安が、いよいよと居座りを決め込もうとしていた。だから言葉が出ない。臆病が雪花を背後から抱きしめ、耳元で甘言をささやいた。

「そろそろ戻らない?」

 先送りでしかないとしても、雪花にはまだ決心がついていなかった。

「そうだな」

 言って、ベンチから腰を引きはがした時である。サワが息を切らして甲板へ駆けあがってきた。

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