第34話 オープンキャンパスその2

 工学部の校舎に入り、受付を済ませ、学科の紹介や模擬授業や質疑応答などを経て午前中で日程が終わった。乗船時間よりも随分長々とした二時間半に感じられた。

「本当にこれでいいのかな」

 つぶやいて、気の重さをこの一言に集約できると、謙吾は思った。

 大学の講義室は高校生までの教室とはまるで違っていた。教室の大きさも机も椅子も。授業の進め方も高校までのそれとは違う。それらが違和感を催させてもおかしくはない。けれども、謙吾が感じていたのはそういったこととは異なっていた。サイズ違いを着たというよりも、ボタンの掛け違った服を着続けているような。

 謙吾は工学部の機械システム学科を志望していた。理系に進んだのは雪花の勉強会の件もあるように数学が得意で、物理や化学、生物に地学といった理科系の科目も、なんでもござれ状態で苦手でなかったからである。二年まで通っていた高校で、理系は就職に有利という話をさんざん聞かされたせいかもしれない。文系という選択肢は毛頭なかった。たったそれだけの理由で、好きなことや研究したいこと、調べてみたいこと、あるいは興味のあることは一体なんだろうかと自問する前に、謙吾は未来を決めつけていた。

 オープンキャンパスで改めて自分とそう年齢が違わない人達が生き生きと話しているのを聞くと、嫌がおうにも自分の選択の動機を考えるトリガーになる。それはこれまでサワのテクノロジーを散々見てきて、驚嘆はするが興味が湧かないことをも思い出させた。勉強会での洋介の問をごまかすようにしか答えられなかったそのことが結局は同根であると、ここになってようやく謙吾は気づいた。

 工学部棟から出ると、雨上りのキャンパスだった。思わず空を仰いだ。雨が降ったことなど、その音さえ謙吾は気づかなかった。アスファルトは黒く変わり、窓や自転車置き場の屋根や雑草や、そこかしこが濡れていた。雪花とサワとともにどしゃ降りを受け、地面を見た時の気持ちがここにはなかった。今になってそれは好奇心だったと言い切れる。

 温度は二、三度下がったかもしれない。むしむしとして少しでも歩けば、体感として汗を出したいのだと熱がうごめきだす。

「けど、今さら変えるっていったって」

 引き金が引かれたが、弾丸はどこにも飛ばなかった。一言で止めてしまった。

 それから謙吾がぼんやりと思い出したのは、この夏の日々のことであった。

 座礁しているイルカを救ったら、そのイルカが人間の姿で現れた。

 物静かだと思っていたクラスメートは、水分や水蒸気を自在に操るような、人間ではなく、本人いわく半魚人だった。

 久しぶりの走り高跳び。

 ――そういや、雪花は夏前に志望校、私立から変えたんだっけ。勇気あんなぁ……

「謙吾さん」

 聞き慣れた声に足が止まる。理学部の校舎から沖水が丁度出てくるところだった。工学部棟と理学部の棟は人文学部棟を挟んで少し距離があった。あてどもなく歩いていたようだ。

「終わったのか?」

 平静を装う。何も見抜かれないように。

「ええ。謙吾さんの方はどうでしたか?」

「どうって言ってもな。まあ予想通りというか、こんなもんというか、ああそうですかって感じだったかな」

 不器用に苦笑いをする謙吾を、

「謙吾さん、ちょっと見て行きませんか」

 沖水は理学部の棟内に穏やかな口調で誘った。

曇りの日特有の電灯をつけるべきか、つけないべきかを迷わせる室内の明暗。夏なのに、どこか冷めているように見えた廊下を進み、彼女に促されて着いた教室。地質科学科のパネルや標本を展示していた。

 室内には高校生と案内をする大学生が二、三人いたが、謙吾と沖水には気づいていない様子だ。

 地層から採掘された一つの化石の前で二人は足を止めた。

「私には命令が来ます。大学進学もその命令の一つです。命令だからするのです。けれど、今は少し気持ちが違います。謙吾さんには奇異に思われるかもしれませんよね。私のような者が、こういう進路を希望しているというのは」

 沖水滴。人間に見えるが、その正体は半魚人。人間社会の監視のため地上に、今は謙吾宅の隣人として住んでいる。それを打ち明けられ、人間じゃなさを垣間見せられ、人間と同じ言葉をしゃべり、人間と同じように――。他の高校生と同じように、大学受験をめざし、そして、理学部地質科学科を志望していた。

「いや、マジそれは皮肉っぽく聞こえるぞ。俺はそんなことは気にしないって言ったろ。他の人から見ても、お前は一人の女子高生だろ」

「そうでしたね。けれど、いえ、だからかもしれませんね。少し気持ちが違うと言ったのも、その辺りと関係があると思います。本当は生物学を専攻するように命令を受けていたんです。一昨日志望を変更すると伝え、了承されました」

 沖水が指すパネルは島の北東部にある巨岩だった。悠然としたその姿を見て、謙吾の胸は血流の熱がともったのを感じた。

「海だった場所が今は地上となって見えています。その逆もあります。ずっと未来にも同じようなことが起こり得るでしょう。私は海の者です。これまで海と地上は別の世界だと思っていました。そういう区別が的外れな気がしてきたんです、最近。

そして、私はこの姿でこの生が絶えるまであり続けたいと思うようになったんです。生への固執などはないんです、本来は。けれど、私は…謙吾さんのおかげです」

「俺? 俺なんかしたっけ?」

「正確に言うなら謙吾さん達です。この夏の日々は私にとってこれまでにない楽しい日々と感じています。あいつがいますけれどね。それでも私はこの夏の、夏休みの日々のことは忘れません。いえ、忘れたくないんです。まだ数週間あるというのに、こんなことを言うのは変かもしれませんけれど。だから――こういう接続詞の使い方は違うかもしれませんが、世界をもっと知りたいんです。これは海からの指令でも、与えられたマニュアルでもありません。私、沖水滴が望んでいることです」

 “ドクッ、ドクッ”

 謙吾は目を開かされる思いがした。キャンパスの大きさや紹介された講義とかよりも。沖水が「楽しい」とその心象を断言した。そして「忘れたくない」と希望を鮮明に言葉にした。確かに目の前は、これまで見知っている、いつもの所作をする沖水滴がいる。けれど、こうまで明晰に彼女の本音を聞いたのは初めてだった。

「沖水、あのさ……」

 こう言いかけて、謙吾はその先を止めた。それは何かの確認なのか、質問なのか、反論なのか、同意なのか。何を言いたいのか、意識した途端、言葉が浮かばなかった。

 その困惑をスマホの着信音が妨げた。というよりもむしろ、この場合謙吾はその音に救われた気がした。洋介からのメールだった。学食への集合を促す内容だった。

「私の所にも来ました、メール。行きましょうか、謙吾さん」

「そうだな」

 理学部から出ると、謙吾はもう一度空を見上げた。

 鼠色の塊は浮いているのが不自然なくらいに重そうだった。

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