第32話 勉強会

 その後、勉強を開始。

 のはずだったのだが、リビングに集い、真剣なのは二人だけであり、後のメンバーは自由気ままに好き勝手なことをしている。洋介は体幹トレーニングをし始め、真澄は謙吾宅にあった新聞を読み、沖水は休憩用の水出しコーヒーを作成中。

「これはさすがに難しいか」

 問題集の、とある設問に雪花は頭を抱えていた。

「どれだ?」

 そこへサワが顔をのぞかせた。

「オオ、こういうのか。ちょっと待っておれ」

 言うと、玄関を閉める音がリビングまで聞こえた。ほどなくして戻ってきた彼女の手には、そろばんと何本かのケーブルが握られていた。

「何すんだよ、それで?」

「ケンゴよ、ちょっとテレビを借りるぞ」

 サワはそろばんの枠に開けた穴にケーブルを差し込み、テレビとつなぎ、

「ケンゴよ、コサワをとってくれ」

 新出単語の登場である。謙吾が意味不明の声を上げると、

「コサワだ。テーブルの上になるだろ」

 テーブルの上を見る。ノートや問題集やグラスや……サワご愛用のスマホ型ツールがある。

 ――飛び道具みたいなもんをぞんざいに放っておくなよ

「……お前、名前付けてんのか?」

 険しい顔をしながら抓むようにして持ち上げ、サワに渡した。

「あ? 何か変か? 私が作り出し、私とはいかないまでも秀でたこれをコサワと呼んで憚られるのか?」

「いや、憚れはせんが……恥ずかしくないのか?」

「まったく」

 コサワと呼ばれたスマホ型ツールをケーブルでつないでいった。

「ケンゴが街に出ろというから、歩き回っていたら、ある店の番頭が使っていたのだ」

 ここに来て、謙吾にふつふつとわく疑問。サワの収入源である。人間への変身技術を持つくらいである。偽造くらいはできそうだが、仮にそうだとしたら見過ごしていいものだろうか。けれど、サワが他にも地上へ来ている者がいるとか言っていた。ならば、その方々はまともな仕事をし、それを孝行な子供が親元に仕送りしたようにしてできた資金が、サワに還流されたと考えられなくもないが、事実は謙吾の及ぶところではない。

「よしできた。これを見ると良い」

 テレビを点け、片手に問題冊子を携え、それをチラ見しながら、もう片方の手でサワはそろばんの玉をはじいていく。すると、画面には設問と同じ図形が浮かぶ。更に球をはじくと、線分や断面図も現れた。立体画像として推移が分かるようになっていた。

「外国スゲエな。パソコンの教材ソフトよりも分かりやすくね?」

 洋介の言葉に誘われるように、理系女子真澄も珍しく食い入るように凝視している。

 画面を見ながら、雪花はそれまでの数式の一部を横線で消したり、謙吾から教えられた計算式のやり直しをしたりした。謙吾がその画像に音声を添える。それをオウム返しのように、

「余弦定理を使ってコサインを求めて……それから、証明の方は……」

 小声になりながらペンを走らせる。そして、

「できた! これで合ってる?」

 ノートを謙吾に見せる。肩がわずかに触れ

「ごめん」

 肩をすぼめて謝る雪花に、

「大丈夫。合ってるよ」

 満点採点を下した。

「なあ、サワ嬢。それってどうなってんの?」

「こないだ、青い真ん丸のタヌキみたいなロボットが出るアニメを見てな。あれはなかなかに面白かったな。しかし、タイムマシン? とか言うものが出ていたが、あれは無理だろ。それは置いておいてな、その番組の発想を参考に作ってみたんだ。この計算機器は素晴らしいな、使い勝手が良い。あのきーぼーどーとかいうのは使いこなすのが至難だろう」

「そろばんなんて、今ほとんどやんないぜ」

「それは残念だな。もっと使った方が良い」

 などと言っている人達を見ながら、謙吾はふと気づいた。

 サワが現れた時。沖水が巨大化したり、水の球を自在に操ったりしているのを見た時。久しぶりの走り高跳びで自己新記録を出した時のように、心がシグナルを奏でていないことに。

「謙吾、サワ嬢の、すげえな」

「……ああ、そうだな」

 洋介への反応が濁っていた。サワの技術力は率直にすごいという気持ちになる。が、ただそうやって感心するだけであった。それ以外の、工学部を目指す者として興味がそそられるような気も、その構造を知りたいという欲求も沸きはしなかった。

 そして、それはあることを思い出させた。

 午前の講習が終わり、一人で廊下にいたところへ和泉が通りかかった。

「龍宮。模試取りに来いっつったろ」

 白衣のポケットに手を突っ込んだまま歩いている姿は実に教師っぽくない。

「結果、分かってるから」

「ほれ」

 整然とたたまれた四辺形の紙がそのポケットから取り出された。

「折ったけど気にすんな」

「気にしませんよ」

 広げられた紙には、国立津潟大学が第一志望校の欄に書かれているだけであった。第二志望や私立大学志望は空欄のままで。

 工学部機械システム学科A判定。

 結果を喜ぶことも、ほっとすることもなく、それを折れ線に沿って再び折り、ポケットに入れた。謙吾にとって、それはただのAという記号でしかなく、そこから感情が喚起されることなどなかった。

「おい、波野に数学教えてやったらどうだ? 得意なんだろ」

「午後に勉強会することになりました」

「そうか。お前古文の成績が安定せんようだから、波野に訊いてみたらどうだ。あいつ得意だぞ」

「そうします。じゃ、俺はこれで」

 歩きだす謙吾。擦れ違い際に和泉はこう言った。

「龍宮。心の動きに鈍感な奴は、いざものごとを考え始めると、その考えがまとまらんことが多い」

 謙吾は無言で立ち去ろうとする。

「なあ、龍宮。あれ見えるか?」

 “あれ”が何なのか確かめるために立ち止まった。和泉は廊下の壁を指さしていた。掲示板に留められていた世界地図。

「はい、もう飽きるくらいに見た地図です。メルカトル図法の」

「もう飽きちまったのか、本当に? 世界は見飽きるようなものなのか? なあ、龍宮。お前は地図を見てるだけで十分なのか? 地図を自分で描きたいとは思わんか?」

 さっきの言葉以上に質問の意図が分からなかった。

「お前が今住んでいるこの島は、その地図では小さな点だ。けれど、お前が経験しているのは小さな点じゃないだろ」

 謙吾は何も言えなかった。

「目に見えないと心は分からないか?」

続けられる和泉の問いかけに謙吾が言えたことは

「さようなら」

 明瞭ではない、返答保留の、ただの別れの挨拶だけだった。

「龍宮、ある批評家の言葉だ。『知りたいのは社会ではなく、世界である』。お前はどうだ?」

 去り際、背中におぶさって来た言葉が今になって心拍数を上げさせていた。

 ――俺は本当に向いているのか、進路……

 サワの技術に騒ぐ三人の背後で、どうにも言えない淀みのようなものが胸の中に芽生えるのを感じていた。

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