第31話 謙吾宅で昼食になる

 食後、沖水が率先してキッチンに立ち、アイスコーヒーを仕上げた。

「美味い」

 全員が称賛したそれは、インスタントで作ったとは思えないくらい上質で、あまり冷たすぎずに爽快さを感じられる逸品となっていた。

 ――沖水、よもや何かしらの術を使ったのでは?

 謙吾は水の玉を指先に浮かべる沖水を思い出す。

 ――海洋深層水とかじゃねえよな

「美味いぜ、沖水嬢」

 評価の後の「沖水嬢」が気に入らなかったのか、沖水は眉をピクリと動かしてから指を鳴らした。洋介はカフェオレを所望し冷蔵庫から牛乳を取ろうとキッチンに入っていた。流し台を横切った瞬間、蛇口から放水車の勢いの水が洋介を直撃し、謙吾宅のシャワーを借りることになった。

「謙吾さん、安心してください。後で拭かせますから」

 作為の張本人が謙吾に耳打ちする。

「それは洋介に? サワに?」

「謙吾さんがお気に召す方で」

「じゃ、洋介で」

 労働者確定である。

「なあ、謙吾はじいさんとばあさんがいない時は何作ったことある?」

 シャワーから上がって来ると、色黒男子は床を拭きながら訊いた。

「簡単なもんだ」

「ああ、ケンゴの料理は男子にしてはきちんとできている」

 サワの同意に動揺する雪花は、

「え、サワさん食べたことあるの?」

 高速で頭をサワに向けて問う。今スターティングブロックがあったら、オリンピックの一〇〇メートル選手の誰よりも速い反応を示していただろう。

「ああ、差し入れをもらったことがある。近所のよしみとかでな」

「謙吾くん、サワさんにどんなの作ったの?」

 今度は謙吾へ高速首振り。

「いや、その……シーフードドリアもどきを」

「しーふーど?」

「あ、ああ。冷蔵庫にあったもんでな。エビとかイカとかホタテをご飯に乗っけて、クリームシチューの残りをかけて、チーズ乗せて、チンしただけ」

 サワ来島の初日の夜。雪花を夕食に誘っていたが、とりあえず人間の食らしきものを紹介しておくのも必要かと謙吾なりに気を配ったのだ。

「そうなんだ」

 先程までの勢いはどこへやら急激にしぼんだ風船は、肩に触れると重力の作用を惜しみなく受けて地に伏してしまいそうである。

「雪花……?」

「わ、私にも……」

 心配げな謙吾の声に、急上昇のカーブを描いて雪花は顔を上げた。その顔があまりにも謙吾の真正面間近だったため、顔だけでなく血圧も急上昇。

「おい、どうした? 顔紅いぞ」

 決定打となるパンチをくらい、再び視線は謙吾宅の床とご対面。

「な、なんでもな……」

 白いタオルを投げようとする雪花は、

「そう言えばさ、ユキが名前を呼び捨てにするっていうのだけじゃ、釣り合わないみたいなこと言ってたわよね。だったら、今日のお返しでもしたら?」

 友人にブン取られてしまった。

「今度、飯作れってか? でも、男の素人料理だぜ」

「そんなのかまわないんじゃない? それにそんなに下手ってわけじゃないでしょ。いろいろ作れるみたいじゃない」

「そりゃできるけどな」

「お互いが名前で呼び合う、そしてご飯の作りあい。これで賭けが均等になるってもんじゃない?」

 真澄を論破するほどの反意を謙吾は持っていない。論理的ではないと証明するというよりも、本当にそうかとはどこかに思いつつも。

「雪花、それでいいか? 今度俺が飯作って」

「は、はい!」

「で、なんかご要望とかある?」

「謙吾くんがよく作る、得意なものがあれば、それを!」

「得意ではないが、パスタはいろいろ種類作るかな」

「じゃあ、今度私に作ってくれませんか?」

「ああ、いいぜ。そういえば食堂でも冷製パスタ頼んでいたよな。パスタ好きか?」

 謙吾のそれを聞くと、それまで挙動がアットランダムになっていた雪花は平静を取り戻した。その表情は謙吾には、本当にいい顔をして笑っているように見えた。

「うん、好きなの。ありがとう」

「お礼なんて、なんで?」

「ううん、何でもない。なんとなく」

 雪花の感謝は他でもない。謙吾が雪花の食事したことをよく覚えていてくれたことが共通の思い出のように感じられたからである。

「ところで、龍宮君さ」

 不思議そうな表情で問うてきたのは真澄だった。

「料理もそこそこするようだし、ユキの好きなジャンルも知れたことなんだけど」

「ああ、まあ、そうだな」

 棒読みのようにして聞いてくる真澄の意図が計りかねて、あいまいな返答になる。

「龍宮君の好きな食べ物って何?」

「!」

 声にもならずに目を見開いたのは雪花であり、どんぐり眼を横の真澄に注いでいる。

「いや、世の中にはカレーが嫌いな人もいるから、あなたの要望も聞かずに作ってよかったのかなと」

「いまさら? もう食い終わってんじゃん」

「ええ、いまさら」

 横目で見ると、まだ雪花は目をひん剥いている。

「カレーは嫌いじゃない。っていうか……」

 頬を爪で柔に掻きながら、視点が泳いでいる。

「チキンカレー」

「はい?」

 目の大きさは正常に戻ったが、そのベクトルは声の強さに変換されたようで、雪花が身を乗り出さんばかりに膝立ちになっている。

「そう。チキンカレーね。どっちもどっちってことね」

 あきれるように妙に納得気な表情になる真澄。

「は? なんのことだよ」

「いえ、じゃあ、今日のユキのチキンカレーの味はどうだった? 例えば採点するとしたら何点とか」

 真澄がとある箇所を強調するので、膝立ちから大人しく正座し直す雪花だが、

「それはちょっと……突然なんじゃないかな……」

 独り言なのか、真澄への抵抗なのか。

「点数をつけられるほど俺の舌は肥えちゃいないからな。でも、ちょっと濃い目で、野菜小さめなのは俺好みだった」

 今度は真澄がえらい勢いで雪花を凝視する。

「あんた、まさか本当にストーキングとかしてないでしょうね?」

「してない、してない」

「だとしたら、本当にあなたの生霊が夜な夜なで歩き回って龍宮君の周辺で……」

「して……ない……たぶん」

「なんで、断言できないのよ」

「いや、ほらそこは。自重を抑えられない無意識が暴走することもあるかと」

「おい、何二人して小声でしゃべってんだ?」

「いえ、何でもないわ。てことはユキのチキンカレーは龍宮君には好評だったと」

「ああ、まあ」

「まあ? どこか気に入らない所でも?」

「いや、だから俺は舌肥えちゃいないし、そうは要求できないんだけどもな」

「いいじゃない。減るもんじゃなし。いまいちだったところを率直に辛辣におっしゃってごらんなさい」

「なんで清白がえらそうになってんだよ……てか、まあ……隠し味かな」

「隠し味?」

「ああ、ケチャップが入っていると、もろ俺好みだったかなと」

「いや、隠し味云々言ってる段階で、舌肥えてるわよ。あなた。ま、だ、そうよ。ユキ。チキンカレーにはケチャップを隠し味にして欲しいんだそうよ」

「……はい」

 雪花は床と対面したまま。

「そろそろさ、勉強始めないか?」

「はい、お願いします」

 雪花はうつむいて答えるしかできなかった。

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