第26話 謙吾VS雪花の走り高跳びバトル開始
雪花からの試技。
ヒグラシの声、残ったままの熱気、生ぬるい風、高跳び部門以外の種目の練習中の息遣いや声援とは別次元の時間が流れる。
雪花は微動だにしない。呼吸を静かに整え、深い息を吐き、それから長い息を吸った直後、助走開始。リズミカルなテンポがグランドに刻まれる。左側に身体を内傾し、小気味の良い三歩からの左足で踏切。雪花の身体が伸びるように空へ向かう。頭、肩、背中、腰が順々にバーをすり抜けていく。背面跳びの後半、下肢がバーに引っかからないように弾けるように跳ね上げる。太腿、ふくらはぎが順にバーをなぞるようにしてクリアしていく。
マットに背中から落ちる。瞬時に身を起こしてバーがどうなっているのかを見やった。雪花にはわずかばかりの感触があった。ふくらはぎの皮膚にバーがかする感触が。バーは上下に揺れている。
――落ちないで
その願いが届いたのか。バーの上下運動は徐々に収まっていた。
波野雪花、一六七センチクリア、自己新記録。
雪花の表情がそれを確信した瞬間柔和な笑みに変わる。彼女にとっては二重の喜びであった。後輩達からも称賛と拍手が起こる。
「次、龍宮謙吾選手」
「ああ」
謙吾は短く答え、助走位置に着く。
謙吾の試技は一八六センチ。男子高校生の高跳び選手ならば、どうってことはないレベルになってないと全国大会へは進めない高さだ。それはぽっと出の一般生徒がそう易々と飛べる高さではない、ということはここにいる陸上部員達の誰もが分かっていることで、しかも自分の部の先輩が自己新記録を跳躍したとあっては、跳躍部門の雰囲気自体が雪花称賛、つまりは謙吾失敗の形勢に傾いていた。
「た……」
――龍宮くん、がんばって
そう言いかけて、雪花はためらった。というよりも、言えなかった。助走開始位置の謙吾の目、オーラと呼べそうな気迫は四月から知っている彼のものとは著しく異なって感じられたからである。それは設定されたあの高さを超えるのが当然であり、なおかつ義務であることを課せられた責任を背負った選手が持つ緊張感と集中力を醸し出していた。
右足をゆっくりと後ろに下げ、目を閉じて、静かなそして深い呼吸を謙吾はした。
目を開くと同時に、助走スタート。
「え?」
謙吾の助走を見て、雪花は思わずこぼした。さっきまでとは対照的な、まるで重力がそこにないような、月面で飛び跳ねているような助走。身体のどこにも力みのない左足での踏切。
そして、
「!」
雪花は人生で初めて息を呑むということを経験した。スローモーションに見えた謙吾のクリアリング。
次の瞬間。
ドス。
謙吾がマットに落ちる音で、雪花は我に返った。バーは揺れもしていなかった。そこを人が通過したことなどまるでないかのように。風が吹いても揺れることがあるというのに。
「いやあ、ご両人クリアですな。な、謙吾。俺とつるんでいると、このような素晴らしい身体能力が育成されるだろ」
マットから降りる謙吾にゆっくりと歩み寄る通常モードの洋介は、
「罰ゲームどうすッかね」
などとおちゃらけている。
「まだ言ってんのか。どっちでもいいだろ」
「いや、どっちでもいい雰囲気じゃねぇよ」
洋介が指先で示す。謙吾が辺りを見ると、下級生達が歓声を交えて拍手をしていた。
「な、なんじゃ?」
謙吾の戸惑いに、
「お前さんの跳躍見た感想なんじゃねぇの?」
おどけたような洋介。
「雪花嬢。で、謙吾の跳躍はどうだったよ」
雪花を見る。いつの間にか再び忘我になっている様子で、視線が明後日を見ている。
「雪花嬢!」
「はい、え? 何?」
「謙吾の跳躍、感想は?」
「えっと……」
言葉を探した。初めて見た謙吾の跳躍。その感想。助走スピードやリズムがどうとか、クリアの時のしなやかさがどうとかといった語句が不要なくらいだった。いや、そう表現するとかえって、謙吾の跳躍を台無しにしかねないとさえ思った。その証拠に謙吾の跳躍を見た後輩達が、感嘆として拍手をしているではないか、それくらいに人を釘付けにする跳躍だった。
「天使が翼を広げて羽ばたいて行くみたい」
静かになる一辺。一人だけがバカ受けを始めた。洋介である。
「天使。チョーいいね。な、謙吾。いや、ケンゴエルかな」
「おめぇな、いい加減にしろ」
過剰評価をされたと思っている当の本人は赤面して爆笑の友人の胸倉を掴んでいる。
「でもよ、どうすんだよ、賭け」
「だから、もういいだろ」
掴んでいた力を緩める。
すると、
「互いが一つずつ相手に言っていけば?」
二人の対決を知って間近に来ていた真澄があらぬ提案をする。
「マスミの提案に乗ればいいだろ」
「そうですね、謙吾さんの跳躍見事でした。波野さんも。お互いの健闘を労えばよろしいのでは?」
真澄に便乗し、サワも沖水も謙吾の意見をどっかに置いて、そうせざるをない雰囲気を作っていく。
「ま、何にすっかは帰りに決めるってことでさ」
洋介は謙吾に肩組みをして、またしても指を差した。体育館の外壁にある時計。ややもして終了時間となる頃となっていた。
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