第伍話

「大蔵ッ!」


 ロッカーの下敷きになっていた彼女を発見し駆け付けると、こちらに呼応するように微かな呻き声を上げた。


「ああ、アンタか……。あはは、お互い酷い様ね」


 ゆっくりと開けられた深紫の双眸には生気が徐々に失われていく。普段の様子から見られないような力のない微笑。そんなのを目の当たりにされたら心が沈んでしまうもの。


「待ってろ。今すぐこれをどかすからなっ!」


 どかすとは言えど、彼にはその術がない。一度手を伸ばしたがあまりの高熱ですぐに引っ込めた。それもそのはず。彼がやろうとしていることは、ぐつぐつと煮込んでいる鍋の中から素手で蟻を掴むより以上の難業だ。

 よし、と腹を括った駿之介は両手で掴み、焼かれる激痛に耐えながらも大叫喚を上げつつ、死に物狂いで持ち上げる。


「くぉぉぉおおおお! 上げろオオオオオオオ!」


 痛覚が完全に戻った今の彼にとっては、これはまるで使用後間もないアイロンに自ら強く押し付けるような生き地獄だ。指十本が焼き落されかねない――。


「もういい……」


「もういいってなんだよ! あともう少しだ。あともう少しでこいつを――」


「お願い……もう私のせいで誰かが傷付けるのは、見たくないんだよ……!」


 ハッとなり、ぐったりと膝崩れる駿之介に小さくありがとと言う大蔵。

 言うなれば、彼の努力が水に差されたわけだが、何の怒りも湧いてこなった。今、彼の胸を支配するのは諦念のみ。


「……まあ、下半身の感覚がなかったから例えアンタが成功しても生き延びられるわけがないというのもあるけど」


「そんなことあるわけ――」


「――じゃあ引っ張ってみてよ、私を。踏ん張るから」


「いい、のか?」


「どうせこれが最期になるんだし。私のワガママに付き合うだと思ってさ」


 微笑みかけてくる大蔵の言葉に不思議と一理あると思ってしまった。彼女が下敷きになるとは言え、埋もれているのは下半身だけだ。

 引っ張れるかと問われたらできるわけで――と、視線を落としたその時。


 ロッカーの下から陣地を広がりつつある鮮血の絨毯が濃紺の皇服を染み込み黒一色になりつつあるところを見たからだ。

 こいつはもう助からない――惨い現実に突き付けられた駿之介の『救いたい』という願望が木端微塵に砕かれ。糸の切れた操り人形のようにガックリと項垂れ、血塗れた床についた手が波紋を生んだ。


「うそだろ……」


 しかし当の本人に至っては彼がその顔をした理由わけが分からないとばかりに少しだけ首を動かすと、


「ああなんだ、バレたのか……。でもまっ、アンタに見送られるのも別にいっか。どうせ、もう最期だしさ。言えなかったことを、言わせて……」


 酷く傍観的で悲観的な言葉を紡いだ。


「……好きにしろ」


「あの日、見ず知らずの私を助けてくれてありがと。短い間……だったけど、楽しかった」


「……ああ」


「いつも酷いこと言って、ごめん」


「……いつものことだろうがっ」


「あと、こっちの事情に巻き込んじゃって、ごめん」


「……逝かないでくれっ」


 つい本心を口にしてしまった。叶うはずがないと分かっていたはずなのに。それまで胸の奥底に抑え込んでいた何かが堰を切って溢れ出した。


「幾らでも酷いことを言っていいから。お前の事情なんて幾らでも巻き込んでやってもいいから。だから、頼むから……死なないでくれ……」


 心が散らばっていくような――無理矢理、あらゆる動作を封じられる感覚。それに苛まれ、平常心を失っていった彼に困ったような笑顔が向けられた。


「もう、男の癖に涙を流すな。カッコ悪いな……」


 涙を拭いてくれようとした無力の手が宙に浮いた後、虚しく落ちる。地面に落下しまわないように彼の方から寄り添い代わりに握った。

 『生きてくれ』という願いを、ほんの少しでも伝わっていれば。


「うるせぇ……これは目から出る汗だ」


「あはは、もう……どんな汗なのよ、それ……」


 掌に収められた指が、小さく動く。

 それはボロボロになった身体では気楽に行うことができない、身じろぎの代わりだと感じた。終わりを予感させる、力の無さで。


「ヤバ、眠くなってきた……」


 死にゆく運命を最後まで抵抗するかのように、大蔵は重たい目蓋を何度も開けさせる。恐らく一瞬でも油断して目を閉じてしまえば、あの世に――。


「大丈夫だ。ちゃんと、最後まで話を聞くから」


 知らず知らず喉が詰まり、掴んだ手に力を込めた駿之介に彼女は微笑みを向ける。


「アンタは、とてもムカつくヤツだけど……」


 酷く疲れた顔で全身を委ねてくれて、やがて笑顔をできなくなるくらい、徐々に力を失っていって――、


「あん時、拾われたのがアンタで……本当に、よかったぁ……」 


 ――大蔵は目を閉じた。

 まるで言いたいことが言えてスッキリしたかのように、穏やかな寝顔を彼はじっと眺めていた。柔らかな表情で意識が沈んでいく、その表情を。

 烈火に包まれ、壁が崩れていく。いつ建物が崩壊してもおかしくない。

 それでも、彼は手を離さなかった。


「あの時と同じだな……」


 実は彼が人の最期を看取ったのはこれが初めてではない。彼の母が突然倒れて病院に運ばれた時、そこで末期ガンと余命宣告された。残念ながらガンが既に全身に広がってしまってもう治療の施しもなく。その日から彼の母が入院生活を始まった。

 どれだけ忙しくても彼は一日も欠かさずに病室まで足を運んだが、彼が父と呼んだ男は一度も顔を出したことがなかった。


 そんなある日、自分の夢を伝いに病室まで足を運ぶと、母の口からはごめんとしか聞こえなくなった。危篤の状態が一ヶ月以上も続いたとしても母なら生き抜けると心の奥底で信じていたのに、心電図モニターの音は酷く冷たかった。

 唐突だった。その後のことは彼自身もあまり覚えていないが、


『大丈夫、陽翔はるとならきっと見つけられるわ。かけがえのないものを――』


 母が残した最期の言葉は今でもしっかりと心の中に留めていた。



 過去の思い出から覚ますように目を開けると、やはり大蔵の少し濡れている寝顔はそこにあった。呼吸はまだ続いている。

 微かだけど、それがごく当たり前かのように、まだ続いている。


 どれだけ生命力あるんだよ、と言ってやりたいところだが。

 けれどいつもの悪口はもう、返って来ない。

 彼女と共に過ごした日々が走馬灯のように頭を駆け巡る――。


 公園で言い合った日のこと。初めて月華荘に連れ込んだ日のこと。ベランダで話し合った夜のこと。教室で笑い合った日のこと。

 そして、コンビニに忍び込んで彼女をからかった日のこと。


「なんだかんだ言って、結構生意気なヤツだったなー、お前」


 涙の滴が再び大蔵の寝顔を濡らしてしまった申し訳なさに、指でそっと拭いたが今度は血で汚れてしまった。

 彼女がもう二度と起きないと分かっていても、少しでも届けばいい――そんな叶わないことを願いながらも語り続ける。


「いつの間にか、お前と過ごす時間を当たり前のように思えた。お前と喧嘩するのも、ベランダで一緒にいるのも、傍にいることも当たり前で、心地よくて。酷いことを言われるのも当たり前になってきて……って言っとくけど、俺はMじゃないからな?」


 『Mって?』――小さく声が聞こえたような気がした。彼女のきょとんとする仕草も声色も鮮明に憶えているから脳が幻聴を作り出したのだ。

 困ったように苦笑いを浮かべたその刹那――ゆっくりと上下に動いていた胸が止まったことに気付いた。

 大蔵は、もうこの世にいない。

 本能的にそう理解した彼は今まで以上に強く強く握り締めた。


「……待ってろ。俺が必ず、必ずッ!」


 周りの灼熱にも負けないような大声と共に忌々しい黒い渦を睨み付けると、世界が止まった。

 今回ばかりは感謝しかない。やり直しの機会を与えてくれるコレに。


「――お前を今度こそ!」

 

 二度とこんな思いをしないと誓うように、無念さを永遠に魂に刻み込むように――。



 ――たすけテミセル。

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