第肆話

 固いアスファルトの感触を顔面で味わい、彼は自分がうつ伏せに倒れたのだと気付く。全身に力が入らず、手先の感覚は既になく上に酷い耳鳴りが暫く続いた。

 一体何が起こったんだ。

 起き上がろうとも虚しくよろめくだけで終わり、背中がまるで鉄板に調理されたかのように異様に熱い。勝手に薄れていく意識を逃がすまいとしがみつき、幾つもの悲鳴や苦痛の叫びが耳鳴りの音を突き破って聞こえ始めた。

 ぼんやりとした視界の中、逃げていく数え切れない程の靴が映る。


 一体何から逃げてるんだ。

 けれど答えが見つけられる前に誰かに手首を触れられた。


「――まだ生きてる……! おい誰か! 手を貸してくれ」


 こちらに駆け寄る何人に「せーの」との掛け声で担がれる際、「うわ酷え」といった同情の声から「見てあのサル。背中ごと真っ黒になっててウケる」といった嘲笑の声まで聞こえてくる。

 苛立ちが心中で立ち込めても、


(うるせ、こっちは見世物じゃねえんだ。あっち行ってろ)


 反抗しようとした矢先に喉から出るのは精々呻き声だけで対抗の仕様もない。

 やがてうつ伏せ状態のまま別のところに運ばれた。こちらの傷具合に気を遣うのは非常に有難いが現状把握もしないで瞑目するわけにはいかない。


「お、おい、そこの……」


 不明瞭な視界の端に映る金色の頭を呼び止める駿之介は瞬時に後悔した。共和国人を呼んでもきっと無視されるに違いない。

 けれどそんな皇国人であれば誰もが持つ偏見的な常識とは裏腹に、その人が応じてくれた。


「キミ! まだ起きてるのか!」


「い、今、状況は……?」


「何も喋るな。時期に救急車も来る。到着するまでそのまま意識を持つんだ!」


「ひ、一つ頼みが……」


「だから喋るな!」


「か、肩を……貸してくれ……お願いだ」


 周囲のざわめきに埋もれてしまうようなか細い声の頼みに男性は黙り込み、既に消えかけた希望が駿之介の中で拍車をかけて再びフェードアウトし始めた。実際彼には駿之介を助ける義理なんぞあるはずがない。

 肩を貸してくれなくてもいい、せめて情報だけでも教えてもらわないと。しかし、


「背中酷いぞ。それでも立つのか」


 悲観的な思考とは裏腹に心配の声が返ってくる。


「あ、ああ……大丈夫だ……。こ、こう見えてあんま痛くないしな……」

 

 キミがそう言うのなら、と男はしゃがみ込んで立たせようと肩を貸してくれた。すまない、と言った直後、ズキリと背中に痛みが走る。


「やっぱり横になった方が……」


「だ、大丈夫だ。これぐらい大したことは――」


 虚勢を張ろうとしたところで眼前の光景に絶句した。


「クソ、そろそろ消防車や救急車が来てもおかしくないのに、一体どうなってるんだ! 何故サイレンの一つも聞かないんだっ!」

 

 猛火に舐め尽くされているコンビニからは煙が噴き出し、火花を散らしていた。

 遅かれ早かれ建物は崩壊するのだろう。赫々と燃え盛る炎を見つめていると、朦朧としていた黒眼が徐々に大きく見開いていく――。


(大蔵がまだ中にっ!)


 切羽した感情に突き動かされるように邪魔になった肩を突き放し、倒れまいと踏ん張る。だが彼の足元は覚束ない上に彼自身も一人の負傷者だ。しかも、背中一面焼かれた重傷の。

 小賢しい彼なら周囲の反応で理解していたのだろう。

 酷い怪我をしたんだから無茶はしない方がいい。大人しくしてループが起こるまでやり過ごすべきだ。そんな正論が頭の中を巡り続ける。

 うん、正しい。どれも正しい。余りにも正解過ぎて吐き気がするけど――だからと言って大蔵なかまを見捨てるような選択肢は、彼が取るわけにはいかない。


「おいキミ、一体どういうつ――」


「離せッ! 大蔵が、友達がッ、まだ中にいるんだッ!!」


 肩を掴んだ手を引き剥がし、地を蹴り上げた。

 走る。走る。走る。

 身を焦がす焦燥に駆られて足を速め。躓きそうになりつつもふらつく足を踏みしめてコンビニに向かって一直線。体の中でアドレナリンが煮沸しているからか、たった数メートルなのに時の流れが遅く感じている。

 

 丁度いい――駿之介の顔から不敵な笑みが零れ出す。どうなってもいい。アドレナリン効果が切れるまで何としても大蔵を探し出さなければ――!

 両腕を交差させて顔面ガードをしながら、烈火に呑み込まれつつある建物の中に飛び込んだ――。








※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※








 

「大蔵! 大蔵ー! いたら返事してくれ大蔵アアアーー!!」


 火の手の回っているところを避けつつ大蔵の名を呼ぶも途中で咳き込んだりして再び叫んだ。黒煙で視界が悪くおまけにどこもかしこも火の手が上がっている。

 もしかして大蔵はもう――そんな絶望的な予感が脳裏によぎった時に獣の遠吠えに似た絶叫が耳に刺した。振り向いた視線の先に、


「だ、誰か! 火を消してくれえええ!!」


 男性が身悶えつつもごろごろと転がりながら地面に擦り付けて必死に火を消そうとするその姿。


「だ、誰か、助け――」


 そこで、ピタリと動きが止まった男。もう死んだのだと瞬時に理解した。しかし彼が死して尚地獄の底まで追い込んでやるとばかりに、燃え続ける。


「……あ……あ……あ……ッ!」


 先程の威勢はどこへやら、恐怖で歪んだ顔でよろよろと後退る駿之介。けれど次第に踵が何か柔らかいものにぶつかり、反射的に振り返ってしまっては悲鳴を上げる。

 どうやら倒れ込んでいた女性の手にぶつかってしまったようだが、今の彼にとってそれはどうでも良くなった。無我夢中になった余りに無意識に見えなくったものが、今視界に埋め尽くしていたからだ。


 火傷でもがく人、壁に凭れかかって意識不明の人、棚の下敷きになった人、全身が焼かれて動けなくなった人。

 屍に囲まれている――意識し始めたら辺りに充満していたむわっとした血の臭いと人肉が焦げたの臭いが鼻腔を刺激し、身体の芯から吐き気が込み上げてくる。


 吐くな、と心の中で吼えてなんとか堪えたのは良かったものの、心中で炙っていた焦燥感は未だに健在。最後に彼女を見たのはドリンクコーナーではあるが、向かっている途中に瓦礫が落下したため行けなくなってしまった。


(クソ、悠長に探している場合ではないのに……!)


 火の手がまだ回っていない廊下を辿るとバックルームの前に立ちはだかる炎の壁に着く。あり得ない方向に曲がっていた扉の隙間を見るに大人一人が通れる大きさになっているのが不幸中の幸いだと言えよう。

 まさか大蔵が中にいるのか――そんな淡い希望が一度芽生え始めると答案まで突き詰めないと気が進まない。

 一か八か、と顔面を守るように両腕を掲げ、己の命を顧みず走り出す――!


「間に合ええええええ!」


 雄叫びと共に飛び込んだ駿之介。向こう側に着地した瞬間、姿勢が崩れそうになり。倒れまいと踏ん張ると鋭い痛みが全身に走った。

 それでも、彼は足を止めるわけにはいかない。

 一刻も早く大蔵を探さなくては――! 

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