第参章

新しい日常に幸多からんことを

第壱話

卯月 壱拾陸日



(また戻ってきたのか、ここに)


 これから担任となる教師の説明に相槌を打ちながら教室に向かっている駿之介は内心で溜息を吐いても、横顔は余裕のあるそれと似だ。 

 あれ程恐れ慄いていた学校の廊下を、ようやく内装にも目を向けられるようになったが、指先の震えは完全になかったわけではない。

 しかし前回と比べれば、大分回復したと言えよう。


(トラウマを植え付けるのは人間、癒すのも同じ人間だとは本当、皮肉なものだな)


 相槌を打ち続けるも自分の思考に心中で一笑に付す。学校が怖くなくなったのかと問い掛けると、反対の返答が戻ってくるであろう。

 現実世界むこうで刻み込まれたトラウマを前に恐怖を感じない人間なんているはずもない。かと言って克服した人間もほんの一握りだ。

 大丈夫。今回は仲間が付いている。


 

 いつぞやの時と同様に担任と一緒に教壇の上に立つ。けれど時間稼ぎなんて無益な行動を省いてすぐに目線を真ん中の席へ着地させた。碧い眼と合ったその瞬間、彼女は微笑を内包させ指立ててサムズアップしてきて、気恥ずかしそうに笑い返す。

 密かに心の安定剤として使われたことが本人にバレてしまったが、それでもありがとうと目礼で伝い、深呼吸一つ挟んでから名乗る。


「初めまして。ええと、家庭の事情で引っ越してきた、萱野駿之介です。よろしくお願いします」


 前回と同様の、型通りの無難な挨拶。クラスメイトの反応が薄くて転校生にとって致命的ではあるが、本人にとって救いである。

 あちこちからヒソヒソ話が聞こえてくるが構わず窓際の一番後ろの席に向かう。途中で光風によっと声を掛けられてこちらも倣って返し、席につく。


「はい。それでは──」


 担任の話が右の耳から左の耳へと通り抜けている間に、自身のコンディションを確認。

 膝も笑い出していない上に冷や汗一つもかいていない。普段通りだ。

 しかし手の震えの存在が確認できた以上、まだトラウマかこを過去にしていない。けれど裏を返せば、まだまだ成長する余地があるということだ。

 

 この歳になってもまだ成長するのか――そんな自嘲的な感想に苦笑い一つ。

 ふと空を仰ぐと、春風に踊らされても四片の花弁の軽やかに舞い上がる姿に、彼は目を細めた。







※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※








「ほう。なんだ転校生、とうとう学校に来る気になったのか」


 数学教師の挑発な色の濃い発言に駿之介は思わず間抜けた声を出してしまいそうになった。まっさらなノートから顔を上げると緩い空気が忽如として張り詰めたものに変貌したのだ。驚かないわけがない。

 クイッと上げられた眼鏡の向こう側の、怒気が孕んでいる碧眼に当惑しながらも対応するように立ち上がり、営業スマイルを作る。


「すみません、思っていたよりも体調が芳しくなかったので……」


 申し訳なさの意を示すべく姿勢を低くすると、嘲笑が耳に入り思わず慎重な面持ちに変えた。バレぬように目だけを動かして周囲の反応を窺う。

 俯く皇国人。共和国人の嗤笑。悔しそうに拳を握り締める光風。チラチラとこちらを見る、心配と気まずさが複雑に化合した夏目の顔。

 黒板の例題。教卓の上に広げられた出席簿。

 

 なるほど、と彼は心中で一つの解を得た。

 これが差別というものか――そうと理解した駿之介は次第に狙いを見定めるように、視線を教師にロックオン。


(どうやら、ここから先は慎重に言葉を選ばなきゃいけないようだ)


 彼なりに抑え込もうとしている憤りが黒い眼から漏れ出ている。教師の吊り上げた口角――それは、久しく反抗的な生徒こうこくじんが現れて嬉々としている証拠。


「やれやれ、個人の体調管理すらなっていないとは……流石野蛮族の皇国人だ。恐れ入ったよ」


 どうしようもないなとばかりに首を振る教師にお構いなしに睨み付ける駿之介。教師としてあるまじき差別発言に対して義憤を覚えたのは勿論のこと。だけど、それよりも──。


(皆、諦めてるんだ。何もかも)


 諦念が染み渡る皇国人の顔を見ていると、やるせない気持ちが憤怒の燃料として追加される。共和国人の冷笑に拳を握り締め。残りの共和国人の無関心ぶりに腹が立つ。

 何よりもクラスの皇国人と共和国人の比率は七対三だ。彼らが一致団結して訴えたら簡単に通れそうなはずなのに、現に禿げ教師が何事もなかったかのように教壇に立っている。

 見ているだけで煮えくり返った腹はムカついてくるが、いずれにせよ現状を対処するのが先決だ。同時に事を荒立てたくないので注文してもいない完璧なパーフェクトスマイルというおまけを足しておく。


「お恥ずかしながら、どうやらまだ新しい環境に慣れていないらしくて……」


「やれやれ、野蛮人の癖に、そんな貧弱な身体を持っているとは……。貴様の苦労が目に見えるようだ」


「いいえ、先生に比べたらそれ程苦労はしておりませんが」


「ほう? 貴様のような猿頭でも共和国人の苦労を理解できるのか? どうやら貴様は猿であっても特別な猿のようだな」


「お褒めに預かり光栄ですが――」


 わざと間を置いて機会を伺う。

 不快感しかない笑いが一際大きくなるわ、悔しがる生徒も続出するわ、禿げ教師が悪人みたくクククと片手で両目を覆って笑い声を抑えているわで周りの反応は上々。

 絶望が空気を支配する中で駿之介は――ニヒルに笑った。


「――ご自身の間違いにも気付かない程、どうやら先生もお疲れのようですね」


「……なに?」


 笑い声に終止符を打ち、一瞬で貫くような張り詰めた空気に転じた。けれどこの状況は彼にとって諸刃の剣だ。注目されることで震え上がってしまう彼にとっては。

 息詰まりと感じながらも密かに太腿の肉を抓め。身震いがバレないように強く深く指を食い込ませながらも毅然とした態度を貫く。


「例題の計算、間違ってますよ」


「……む。い、今直そうとしたところだ。大人の揚げ足を取るじゃない、猿風情が」


 指摘した箇所を直すではなく、慌てて例題ごと消す数学教師の背がこちらに向けられて、今まで詰まっていた息がやっと吐き出せるようになって内心で胸を撫で下ろす。

 意識していないと呼吸が上手くできない――そんな息苦しさからやっと解放されたのに、腰掛けるも手の震えが止まらない。


 これでいい。少しでも彼らに恩を報いたのなら。

 一件落着だ──ホッとしているところで「ああ、そうだ」の挑発めいた声音が再び空気を引き締めた。


「指摘してくれるなら、ついでに85ページの問3を解いてみせろ」


 まさかのリベンジマッチ申請に駿之介は思わず鼻白む。今のは明らかに授業を進める流れだったのに禿げ教師の仕返してやるという魂胆が丸見えで呆れて言葉も出ない。

 それに教科書を見ずにスラスラと問題を書いているところと勝ち誇った笑顔から鑑みるに、激ムズ問題を解かせる気満々のようだ。


(まあ、ご丁寧に問題まで書いてくださるとは。サービス精神旺盛とはきっと、こういうことだろうな)


 脳裏に浮かんだ的外れな感想に一笑を付してから駿之介は「分かりました」と受けて立ち、黒板まで歩いていく。無論、途中で特効薬である夏目の顔をチラ見することも忘れずに。

 教壇に立ち少し数式を眺めていると、いきなりフハハハと如何にもそれらしい笑いが隣から聞こえた。


「もし皇国人サルの貴様が解けたら、喜んでカツラを被ってあげようじゃないか!」


 高らかに宣言する禿げ教師。それに悪ノリで口笛で盛り上がる数人の共和国人。彼らの中では皇国人イビリはたかがエンターテイメントの一環でしかないだろう。

 他人の気持ちに対してだけ想像力の欠如するイジメっ子の思想を持つ彼らにとっては。

 だけど視線怖がりの彼でも多少茶化されるぐらいで腰を引くような男ではない。


「――その言質、取りましたよ」

「なんだと」


 熟考の末、白墨を手に取りすかさず解答していく。そんな彼の様子を全員が唖然としている中、いつの間にか彼が粉受けに戻した。


「できました」


「……正解だ」


 黒板を見つめている禿げ教師は呆然としたまま。次第にヒソヒソ話が大きくなったがここぞばかりに彼は止めを刺すことに。


「では、約束通りにお願いしますね」


「う、うむ……」


 渋々と了承した禿げ教師を見て腹の底でほくそ笑む気分でいるが、表に出すわけにはいかず、代わりにニッコリと笑う。

 本当は「崇高なる共和国人様が約束を反故するなんて下劣な行為をするはずもありませんよねえ?」と煽りたかったが。それはまたの機会に取っておくことにした。

 さて、最後の仕上がりだ。


 教壇を下りたところで立ち止まり、「あ、そうだ」と振り返る。


「色の指定、しても構わないですよねえ?」

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