第2話 お別れ
そうして養父が愛用していた医術書を屋敷へ持っていくため荷物に加えようとしたとき、奇病に関する手がかりが載っていないかと何気なくページを開いたら、メモ書きが挟んであることに気がついた。
そこには奇病に関する情報が、一筆一筆、丁寧な文字で書いてあった。
書いてあったのは症状と治療法だけ。
原因までは書かれていなかったが、ヴィルの病が治せるならそれだけで充分だ。
平凡な医師であった養父が、どうして奇病の治療法を知っていたのか。
本人に訊ねたいけれど、養父は私が小さい頃に寿命で亡くなっていた。
養父が亡くなってから、私は何度かこの医術書を開いたことがあるけれど、メモ書きを見つけたのはそのときが初めてだった。
数千ページもある分厚い本のあいだに挟んであったメモは薄い紙だったので、中々気づかないものかもしれない。
けれど、ぱっと開いたところに求めていた情報が挟んであったのは、あまりに偶然過ぎて奇妙だった。
ともあれ、このメモ書きのおかげで病を治せるかもしれない、という希望を見出して私は屋敷へ行く決心がついた。
世間は私がヴィルを治したと思っているが、実際のところ私はメモに書いてあった情報を提供しただけで、診察は医師のイーサン先生が、調薬は彼の孫息子である薬師のノアがしていた。
私はヴィルを介抱する、陛下が仰った通りの雑用係に過ぎなかった。
それでも、ヴィルは私を先生と呼ぶ。
私は最初にすべて話した。
オフィーリア様の立場を確立するためにヴィルを治すことで功績を立てたいこと、治療法を編み出したのは私ではなく養父であること、私自身に医療分野の経験はないこと。
買い被られては困るので、そう正直に話した。
医療に関して大した知識を持たない平民が、功績を立てたいので踏み台にさせてくれ、と言っているようなものだ。
ヴィルは気分を害するだろうと思っていたけれど、彼は私の目論見を咎めることはしなかった。
そうか、と納得した素振りを見せて、ぽつぽつとこう語った。
「母は僕を生んだときに亡くなったんだ。
僕は、父から大事な人を奪ったことになる。父は母以外の女性を娶らなかったから、兄弟はいない。跡取りは僕ひとりだけだ。
僕は母を殺したも同然なのに、父は僕に愛情を注いでくれた。
その気持ちに報いるためにも、ここで死ぬわけにはいかない。父が築いてきた地位を継ぐために生きなくてはいけない。
だから、この病を治してくれるなら、先生がどんな目的であっても構わない」
最初、私に対して冷たい態度を取っていたヴィルと打ち解けたきっかけは、この会話だった。
どんな幼少期を過ごして、どんな気持ちで生きてきたか。お互いに身の上話をしたら、ぼんやりとしていた人物像が見えてきて親しみを覚えた。
ヴィルは王太子と交流があるほど位の高い人なのに、偉ぶった態度を取らない。
それに屋敷には身分を指摘する人がいないので、私はふたつ年下の彼に対して、くだけた口調で話すようになった。
こうして同じ屋敷で毎朝顔を合わせる生活していたら、自然と距離が近づいた。
けれど、それはよくないことだ。
私はヴィルといい仲になることはできない。身分が釣り合わない上に、ヴィルには婚約者がいる。それも、相手は王女だ。
ヴィルの好意には何となく気づいているけれど、王家の婚約には敵わない。
私とヴィルが不適切な関係を結んだ場合、オフィーリア様に弊害を及ぼすかもしれない。それは絶対に避けなければいけないことだ。
ヴィルが平民といい仲にあると噂が立てば、ローレンス家だって王家から罰を受けるだろう。
それはヴィルもわかっているはずだった。
***
ヴィルは窓を見やった。
日差しが強い外では、若葉を生やした木々が連なって木陰をつくっている。室内から見ると、書庫の青と緑のガラスが相まって涼しげな景色だった。
ヴィルは感慨深そうに、静かな声で言った。
「この屋敷にいる間、安静にしている他することがなかったから退屈だった。だけど、先生がいてくれたから苦痛ではなかったんだ」
「それは、よかった」
昨年の秋にこの屋敷へ来て、それから半年が経った。
あっという間だった。今日で私の役目は終わりだ。
これからは、お互いに元の生活へ戻る。
私は王妃の傍仕えとして、彼はローレンス家の跡継ぎ、そして王女の婚約者として。
「……僕はあのまま、治らないでもよかった」
ヴィルは誰に言うでもなく呟いた。
私は聞こえないふりをして、何も返さなかった。
治らなくていいはずがない。
昨年の秋、ヴィルは確固とした意思で「跡継ぎとして生きなくてはいけない」と私に言った。その意思を揺さぶったのは恋情だろう。恋なんて、一時的な激情だ。いつかは冷める。何かを失ってからでは遅い。
私は、彼に私を選んだせいで後悔してほしくない。
迎えの馬車は、昼前に来る予定だった。時計を見ると、頃合いだった。
「もう一度、荷物の確認をしてくるよ」
そう言って私は書庫を出た。
廊下では、使用人が箒を手にしたまま楽しそうに笑っている。
療養先の屋敷は林の中にあって、窓から見えるのは、今は青い木々や湖などの自然ばかりだった。
私は人生の半分以上を、王宮の下働きとして過ごしてきた。そこで貴婦人の目に眩しいドレスや、派手な造りをした建造物の並びをよく目にした。
そういう人工的なものに見慣れていたから、自然の只中にある屋敷で生活しているあいだは非現実的のようだった。
貴族のヴィルや、昔からローレンス家に仕えているイーサン先生とノアたちが、私に対して身分の隔たりを気にせず接してくれるから、自分が平民の使用人であることをしばらくのあいだ忘れていた。
今から現実に戻ると思うと、少しばかり寂しい気がする。
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