32.
◇レイフ視点◇
死の淵から生還し、一夜明けた俺に襲い掛かってきたのはアドレナリンの消失。アリシアの言った通り、指一本動かせない程の激痛。振り返れば、こんな身体でよくもカノリア村まで戻って来られたものだ。馬車の振動でさえ心臓が止まりそうな俺を見て、体調が回復するまでの間、カノリア村に滞在することをライラは決めた。
そして再び夜も更け。
「はい、バブちゃん。あーん」
湯浴みを済ませナイトドレスに着替えたライラは、長時間茹でて柔らかくなったコキエットをスプーンに乗せ、愉悦に満ちた表情で開口を要求する。
「…………」
俺は自身の矜持に誓って口は開かない。
「どうちたんでちゅか? 食べないと元気になれないでちゅよ?」
「……その喋り方止めてくれ」
「だって自分一人じゃご飯もまともに食べられないんでちゅよね? バブちゃん以外の何者でもないでちゅよね?」
「……」
およそ、その語尾とは結び付かない弁舌。バブちゃんとして扱うなら正論で叩きのめすな、と心の中で反論しつつも、俺は諦め結んだ唇をプライドと共にそっと緩める。まあ、一人で何も出来ないというのは紛れも無い事実なのだから。ようやく俺は少し遅めの夕食の有り付く。君は快楽に流されるまま、俺の口にスプーンを突っ込む。身体が回復するまではずっとこれなのだろうかと羞恥に踠いている内に、ライラの左手に抱えた皿は綺麗に空となる。君は満足気に食器を片付けると、ややあって清潔なタオルと包帯、そして湯気立つお湯を持ち出す。
「ほら、バブちゃん。身体拭いてあげまちゅね。包帯も変えましょうね」
君は何ともまあ上機嫌。
「…………嫌だ」
「どうちてでちゅか?」
「……嫌。このままでいい」
「何でよ」
急に素の、少し低音なライラの声に思わず身を竦む。
「見せたくない」
気圧され、つい本音を口走る。まあ、元より嘘など通じない。君は無言のまま話の続きを促すだけ。
「背中に火傷跡があって。……見せたくないんだ」
それでも不服といった表情。
「この包帯を巻く時、アリシアには見せたんでしょう?」
「アリシアはまあ、……いい。本当に重傷だったし、仕方無い」
君は口をへの字に曲げ、少し、面差しへ寂しさを滲ませる。
「でも、君は違う」
何故違うのかは、自分でも分からない。
「君に醜いと、……思われたくない」
苦しくて、顔を上げられない。
俺の話を聞き終えたライラは深い、深い、深い溜息。
「本当にムカつく」
君はボソっと一人呟く。
「貴方って、本当に、本当に、……私の気持ちを分かってないわ」
すると君は俺に巻き付いた幾重の包帯を強引に引き剥がし始める。
「止めてくれ!」
昨夜と違い、抵抗しようにも力が入らない。必死に声を荒げるも君は止まらない。
「お願いだ! 止めてくれ!」
そして遂に、露わになるのは七年前の火の海を忘れさせぬ、その背に刻まれた黒ずむ醜悪なケロイド。
「見ないでくれ……」
嫌だ。
……嫌だ。
君にだけは……。
「引き攣れとかは大丈夫なの? 痛みは無い?」
存外、第一声は悲鳴でもなく、侮蔑でもなく、ただただ只管に穏やかな顧慮の声。
「……うん」
「そう。良かったわね。なら何も不安に思う事なんて無いじゃない」
君は表情を一切曇らせず、安らかな微笑みのまま。
「……醜いだろう。……君にだけは、見られたくなかった」
身体の芯から力が抜ける。こんな醜い俺を見れば、君の心は離れてしまうだろう。でも、そんなのは当たり前で、それを咎める正当性などは、どこにも有るはずのない。
「ふふ。バカね」
しかし君は、俺の汗と垢に塗れ、悍ましく醜怪なその深達性Ⅲ度の火傷跡に、そっと口附。
俺は吃驚し振り返る。
「何を……」
「何も醜くなんてないわ。レイフ、これは貴方が必死に戦った、家族を助けるために火へ飛び込んだ証でしょう。その勇気、堂々と誇りなさい」
ただただ安穏な表情と声に、不意に目頭が熱くなり、思わず顔を逸らす。
すると君は、その酸鼻な火傷痕に躊躇うこと無く、後ろから俺を柔らかく抱き締める。
「辛かったわね」
「…………うん」
「レイフって本当にバカなんだから。こんな事で私が貴方を嫌うはずが無いでしょう」
そして君は抱擁を解くと、濡らしたタオルをお湯の入った器の上で絞る。
「ほら、身体拭いてあげるから」
君は嫌な表情を一切見せず、柔らかな手付きで醜い俺を慰める。
この痛々しい背中の傷跡は消えないけれど、心だけは救われた気がした。
――あれから二週間。
感じなくても良い罪悪感を抱えているのか、ライラの献身的な看病により、包帯でグルグル巻きであるものの、松葉杖を使えば何とか一人で歩けるようにまで回復した。
アリシアが何度もお見舞いに来てくれたのだが、ライラはそれを全てシャットアウトしてしまった。
宿の主人は、その間の滞在費を金の無い俺達から巻き上げるような無情な老婆で無かったことが幸いだ。まあそれでも、討伐その日までの宿泊代はきっちり支払わされたのだから、そこは商魂逞しいと言えよう。
抵抗の甲斐虚しく、ご飯をライラの手から食べさせられたり、身体を隅々まで拭かれたりと、なんとも羞恥に支配されたこの二週間の記憶には鍵を掛けて蓋することに決めたのだ。
まあ、それで君がこの妙に艶々とした上機嫌を取り戻せたのであれば、それに勝るものは無い。
何より、腫れ上がったライラの右頬が傷跡残らず綺麗に治ったのは好運であった。
そして今宵は一泊し、明日の朝にカノリア村を出発だ。あの日からの様々な調整が一段落し、今晩は村が盛大に讃えてくれた。皆、抑圧から解放されたのだろう。大声で歌いながら酒を飲んでいる。
「バブちゃんは飲んじゃダメでちゅよ?」
結局というか、予想通りというか、ライラは二週間ずっとこの喋り口調。
ただまあ、あんなにも健気な看病をしてもらった分、文句を付けるというのは難しい。
「頼むから止めてくれ」
それでも自身の尊厳を取り戻すべく、ダメ元であったとしても、グラスの赤ワインを飲み干しご機嫌なライラへ懇願してみる。
禁酒なのは怪我に障るためだ。決して赤ちゃんプレイが板に付いた訳ではない。まあ、元々お酒は強くないため特に問題は無いが。酒豪のライラは赤ワインを一瓶開け、お代わりのお酒を探しに行く。
すると。
「レイフさん。……少しいいですか?」
アリシアは後ろから耳元で囁く。俺の返事を待たぬまま、彼女は行ってしまう。仕方無く、先を行くアリシアの後を付いて行く。
すると宴会場から少し離れた、人目の無い庭園の背の高いボックスウッドの垣根の影で立ち止まる。
マーガレットの白い花とダリアの蕾が視界を優美に彩る。空には綺麗な二十六夜の月が雲の隙間から顔を覗かせる。
「レイフさん。父のこと、助けてくださって、本当にありがとうございました。……もし父が死んでしまっていたら、私、独りぼっちになるとこでした」
「うん。約束しただろう。君の父は必ず助けるって」
「はい。レイフさんは本当に恩人です。来て下さったのが、レイフさんで良かった」
アリシアは瞼を伏せ、唇を結んで逡巡した後、再び口を開く。
「ここに呼んだのは、私、レイフさんに謝りたくて」
そして彼女は俯いたまま、両手で顔を覆ってしまう。
「騙しちゃってごめんなさい。レイフさんは私たちを助けに来てくれたのに、本当にごめんなさい」
「言っただろう。君は被害者だ。恨んじゃいないさ」
「……レイフさんは本当に優しい」
そして再びの沈黙。アリシアは頬を紅潮させて、遂に意を決す。
「……好きです。……私、レイフさんが好き」
掠れるような、懸命に絞り出したような声。
「レイフさんが好き!」
心からの叫び。そして俺の胸へ飛び込む。
でもそれは、その言葉は、……俺を欺くための振る舞いだったはずだ。
一体、……どういう積もりなのか。
「……ごめんなさい。騙してたくせに、気持ち悪いですよね」
振り絞るようなその声は震えている。
俺の心中を察したのか、それとも自身の言動の矛盾に苦しんでいるのか、俺の言葉を待たずにアリシアは自己を卑下してしまう。
「気持ち悪くなんかないさ。……ありがとう。嬉しいよ」
自己嫌悪に落ちる君を勇気づけようと、俺の口から吐き出されるのは少し気障な励ましの言葉。
俺は胸の中のアリシアをそのまま、しかし抱きしめたりはしない。
そこが境界線。
……抱きしめてはいけない。
「君が家に招いてくれた日は、本当に嬉しかったよ。例えそれが妨害の為であろうとも」
線を引く。
父親が助かった今、君は幸せになれる人だ。
「そこまでの指示は受けてません! 好きでもない男を家に泊めたり、同衾したりなんてしません!」
同衾!?
いや、そんな記憶は無い。
「家で話したこと、想ったこと、全部本当です! 本当に楽しかった……」
アリシアは俺の胸に顔を埋めて、想いを吐き出す。
「あと、顔が好き! めっちゃ好き! 初めて会ったその日から!」
……抱きしめてはいけない。
受け入れてはいけない。
いずれ犯罪者となる俺には、君を幸せにする、その責任が取れない。
境界線が、そこにはある。
「嬉しいよ。ありがとう。……でも」
「いや! ……それ以上は……聞きたくないです」
アリシアは不意を付いて、唇を奪おうとする。
しかし、それを俺は人差し指で制止する。
境界線。
その一歩先へ踏む出すことは、……君にとって失礼だ。
するとアリシアは何かを諦めたように、再び俺の胸へ戻る。
「……ライラさんですか?」
「俺たちはそんな関係じゃないよ」
「じゃあ、今はフリーなんですね?」
「俺は、そういう人は作らないんだ」
「何で? どうしてですか?」
「責任を持てない。俺の傍にいても、幸せにしてあげられない」
「傲慢。幸せにしてあげるって何様ですか? そんなのは、私が決める事です。私が幸せなんです。……傍にいたい」
傲慢。
耳が痛い。
反論の余地の無い、紛れも無い正論。
「うん。そうだね。……ごめん」
抱きしめたいその気持ちを精一杯に振り切って、アリシアの肩を持ち、優しくそっと引き剥がす。
その目は涙に濡れている。
……ごめん。君が悪い訳じゃない。俺のせいなんだ。
「アリシア、君は綺麗だから、俺なんかよりもすぐに良い人が見つかるさ」
その涙をそっと拭う。するとアリシアは俺の手を振り切って、再び俺の胸の中へ。
「明日、出発ですか?」
「うん。明日の朝に馬車を予約してある」
「……もう会えないのでしょうか」
「どうして? 馬車なら七時間で王都まで着く。遊びにおいで」
「じゃあ、私が遊びに行ったら、デートしてくれますか?」
「え!? そ、……それは……」
「私、観覧車に乗ってみたいです」
「……まあ、それくらいなら」
「約束ですよ?」
「う……うん」
するとアリシアはようやく俺の胸から離れる。その目は涙の流れぬものの、赤く腫れている。
……この涙は?
本当に嘘なのか?
嘘なのだろうか?
……これまでのアリシアの振る舞いを『嘘』と断言したライラの発言こそが、……嘘なのではないか?
それとも、俺の願望が、ライラの助言を嘘と思い込みたいだけなのだろうか?
「ふふ。……さようなら、レイフさん」
そして、踵を返し去っていくアリシア。追いかけてしまいそうになり、それでも踏み止まる。
さようなら、か。
……何が真実で、何が嘘なのか。
それを確かめる術は……存在しない。
嘘を見抜く天眼など、望めば手に入るものではない。
俺はその背中を、ただ言葉を飲み込んで、見送る。
「はは。……格好付けて何やってんだ俺は。童貞、卒業できたかもなぁ」
激しい自己嫌悪。溜息交じりに小さく呟く。
「とりあえずキープ? 最低ね。きっちり断りなさいよ」
驚き振り向くと、そこにはバニラのような甘い香り。
ヘリオトロープのオーデコロン。
つまりはそう、……ライラの姿。腕を組んで仁王立ち。
筆舌に尽くし難い気不味さを覚える。
「……どこから聞いてたの?」
「最初から。コソコソ抜けていくから付いてきたの。貴方がフラフラしないように。まあ、キスを制したのは偉かったわね」
「別に俺はライラの所有物じゃないだろ」
「私たちはバディよ。貴方はもう私のものだわ」
「はは。どんな理論だよ」
ライラの暴論に、少し心は軽くなる。
「貴方、童貞なの?」
油断した心臓を、鋭利な言葉のナイフが深く突き刺す。
独り言も聞かれていたのか!?
「………………悪いかよ」
「だってアリシアの家に泊まったじゃない」
「? だからなんだよ。そういうのは愛し合って結婚した男女が初めての夜に……」
何を言わせるんだ!
顔が熱い。自身の顔が紅潮しているのが感じ取れる。
「王都に来る前は? 女を誑かしてたんでしょう?」
「してねぇよ!」
俺をどんな人間だと思ってるんだ。
「……貴方童貞なの? ちゃんとYes or Noで答えなさい」
「うるせぇ」
「答えなさい」
揺るがぬ君の強い意志に、一つ溜息。
「………………Yes」
ライラの見透かすような天眼。余計なお世話だ。そんなことを知って何になる。
「まあ!」
その顔は。
「まあ!」
みるみると。
「まあ! まあ! まあ!」
歓びの色に染まっていく。
「貴方、決断力が無く、疑い深く、その上意気地無しなのね!」
「あ゛!?」
「ダサっ!」
「あ゛あ゛!?」
「その年で童貞なんて恥ずかしくないわけ?」
「あ゛あ゛あ゛!!!」
青筋が立ち、顔は引き攣る。
男の。
決して侵害してはいけないprideへ。
君は今。
踏み込んだ。
「もう! 早く言ってよね! 落ち込んで損しちゃった!」
後手を組み上目遣いで飛び切りの笑顔。そのままライラは、庭園に佇む鉛白の美しいフォリーの中へ。そして柱へ凭れ掛かる。まるで絵画のような情景に目を奪われる。君は嘗て無い程の上機嫌だ。
愛おしい。
あまりに愛くるしい。
結局、俺の心臓は破裂し絶命。復讐は果たされぬまま、道は断たれた。
……しかし何より、人の童貞でこんなにもご機嫌になるとはなんたる邪悪。
馬が合わないどころじゃない。
やっぱりこの女とは組めない。
この任務から帰還したら、すぐにバディは解消しよう。
絶対に。
……。
……いや。
……まあ。
……その。
……うん。
…………問題は、この絶大な力を手放して良いのだろうか、という点だ。
莫大な魔力を有するものの、魔法の奇跡を上手く再現出来ないライラ。
最上の魔女の魔法を振るうものの、一切の魔力をその身へ宿さぬ俺。
正反対でデコボコな俺達は、しかし互いの欠点を補い合えば、上代の
更に問題はもう一つ。
俺達が秘密を共有する者達だという点だ。
俺はライラが魔女である事。
ライラは俺が、魔女との契約者である事。
王と騎士へ権力が集約されるこの王国で、絶対の禁忌を犯した俺達は、互いに互いの心臓を握り合っている。
であれば、共犯者である俺達はそれぞれを裏切れない。
俺達は運命共同体。
ならば、大変不本意ではあるのだが、まあ、バディの解消など叶わぬのだろうな。
……それでも、建前とは裏腹に、その咲き誇るマーガレットより朗らかな笑顔は、やがて怒りを溶かしてゆく。
自分自身に意味の無い言い訳を積み重ねる矮小な自身に、思わず苦笑する。
こんな陳腐な損得勘定なんて後付けに過ぎない。
ああ。
なんだかんだ言っても、結局俺は、君の傍に……居たいのだろうな。
ただ、それだけ。
「じゃあ大人なライラさんは、それはそれは経験豊富でいらっしゃるんですね?」
少し芝居がかった声で切り返す。
「わ、私!? ……あ、当たり前じゃない! こんなに美人なんだから!」
そのしどろもどろと目を泳がせながら、精一杯の虚勢を張る君を見て、俺は何故か安堵した。
……ライラ。君は、嘘が嫌いじゃなかったのかい?
君は本当に矛盾した人間だ。
人の嘘は許さないけれど、そのくせ自身の嘘は許す君。
口が悪くて他人と壁を作るけれど、そのくせ独占欲が強く甘えん坊な君。
加虐的で悪戯好きではあるけれど、そのくせ温かな体温と母性を孕む君。
強い意志と責任を内包するけれど、そのくせ心は弱くて傷つきやすい君。
そして何より。
聡明で戦略家にも関わらず、君の行動指針はいつだって誰かの幸せ。
君は滅茶苦茶。
けれど、けれど愛おしい矛盾を抱えている。
……それもこれも、魔女の魔女たる暴虐所以なのだろうか。
それでもまあ、仕方無い。
俺は、このヘリオトロープの香りと最後まで傍に居ようと、あの日の回廊で、そう誓ったのた。
後戻りなど叶わないと確信した上で。
まあそれが、まさかこんな、伝承上の魔女様とは夢にも思わなかったわけだが。
運命の齎す気紛れに思わず苦笑が零れる。
……?
…………ん?
……魔女?
モヤモヤとした、フワフワとした、直感の輪郭が、ふと浮かび上がる。
…………魔女?
魔女ということは、魔法を使えるというわけだ。
いや当り前なのだが。
……ライラの氷と、そして嘘を見抜き、自身の魔力を転送するそれらの力は、魔女の魔女たる魔法の奇跡。
しかし、その奇跡は、本当に
ライラは聡明で戦略家。
全てのカードを、その切り札を初手で詳らかにはしないだろう。
…………。
……。
瞬間。
轟音を伴う稲妻が脳内を駆け巡り、直感の輪郭を鮮明に形作る。
描き出されたその軌跡は、ユリアの抗い難い上目遣い。
どんな御伽噺でも定番の、魔女を魔女たらしめる
しかもこっちは妄想ではない。
……そうか。
そういうことだったのか。
「まあでも、ライラが魔女で安心したよ」
自信に満ちた足取りで、俺は君の待つ古びたフォリーへ入場する。
この遣る瀬無い、行先を持たないこの想いには、トゲトゲな答えを確かめても栓は無い。
それでも、夜空に輝く星屑のように、不幸のどん底であったとしても、そこには確かに幸運は存在する。
「どうして?」
「おかしいと思ったんだ。復讐を誓ったはずの俺が、こんな簡単に恋に落ちるのかって」
逃がしはしない。
決着を着けよう。
この舌戦、……必ず勝つ。
俺は君の耳すぐ脇から柱へ右手を押し付け、寄り掛かる君が逃げられぬよう包み込む。君の吐息が鼻先を触れ、視界は君で埋め尽くされる。
「な、何よ」
君の頬は桜色へ。
そして、ライラが魔女と知ったその瞬間から、今ようやく辿り着いた推理を、その確信を披露する。
「君の靡く紫紺の髪も、君の瞬きする菫色の瞳も、君の白く柔らかいその肌も、俺の心を鷲摑んで離さない!」
「ふぇっ!」
その顔は。
「重ねた君の唇に、本当はもう一度むしゃぶりつきたくて堪らない!!」
「ふぇっ! えっ! ぇぇ……」
みるみると。
「君が笑顔に揺れる度に、いつだって俺の心臓は、嬉しさで張り裂けそうだ!!!」
「ぅわぁぁ……。うぅぅ……」
火を噴くような赤紅へ染まっていく。
これでもまだ、溢れる感情のほんの僅かな一欠片。
「……ぁ、あのね、レイフ。…………その、……そのね、私も……。その……」
何かを言い掛けた君は、しかし俯いて黙り込んでしまう。
まずい。
人間の嘘を見抜くには、その瞳の揺らぎを見逃してはならない。俺はその右手で、君の灼熱を帯びる頬を少し強引に、しかし包むように持ち上げる。
「あっ……」
君が溢すのは僅かな嬌声。その菫色の潤んだ瞳が反射するのは覚悟を決めた俺自身と、今宵の二人を祝福すべく、カノリアの銀河を散りばめたような燦爛の星躔。
「一目見たその日から、俺がこんなにも君を想って苦しいのは! 君を好きで好きで堪らないのは!」
「……うん」
息を吸い込む。
「魔女の魔法、魅了の魔法のせいなんだろう!?」
「………………は?」
一瞬にして君の顔は冷気を纏う無表情へ転身する。これは、図星を突いたのではないだろうか。
「どんな御伽噺の中だって、魔女の魅了は定番だ。君は俺を意のままに操るために、魔女の魔法を掛けたんだろう?」
「…………」
いちいち君の笑顔に心臓が爆発していては、日常生活すらままならない。
「俺は君を裏切ったりはしない。早く魔法を解いてくれ!」
君は突如、ようやく癒えつつある俺の左脇腹へ体重移動の完璧な遠慮の無いパンチを捻り込む。
「う゛っ!!!」
激痛が全身を駆け巡り、左に抱えた松葉杖を思わず手放し蹲る。
「……こ、この女……マジで――」
「魔女の呪いを解けるのは、真実の愛だけよ」
知っている。
それも御伽話でよくある話だ。
……やはり、これは魔女の呪いだったのか。通りで強力な訳だ。
君は遂に、その口を滑らせた。
腹落ちする俺を他所目に、そして君は俺を振り切って逃げ出す。
「もお~~~!!!!!」
何かに悶え悔しがる君。
この呪いの解除には至らなかったものの、この感情の由来を知っていれば、この先正しい決断を選べるはずだ。
つまり俺は、この激痛と引き換えに、初めて君に舌戦で勝利したという証ではないだろうか。
なんと、誇らしい。
「……バカ。そんな魔法――、レーヴェ――没落なんてしな――」
君は独りボソボソと、聞き取れない何かを呟く。
俺は先を行く背中を追う。宴会場には戻らず、帰路に着く間、君はこちらへ一切の表情を見せなかった。
◇三人称視点◇
たった一つ。
たった一つの勘違い。
青年はこの感情の由来を、魔女の魅了と確信していた。
それは罪悪感。復讐のその道へ脇目を振ってはいけない、それ以外に現を抜かしてはいけない、そうでなければ、故郷へ置いて来たカタリーナへ合わせる顔が無い。
それは恐怖。この恋が成就してしまったら、殺人を、復讐を躊躇ってしまうのではないだろうか。
それらの無意識と、そして夜空の星々を愛する青年の奥底に眠る生来のロマンチシズムから産まれた確信。
そして何より、素直になれない、少し見栄っ張りな少女の心柄。
たった一つ。
たった一つのボタンの掛け違い。
これが彼ら二人の関係をなんとも遅々たるものへと導いてしまうのだが、すぐ傍に転がる真実の愛に二人が気付くのは、まだまだ先の、物語。
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