25.
◇レイフ視点◇
仮眠から目を覚ますと、ライラは湯浴みを済ませ、暖炉の前でヘアオイルを施した髪を自然乾燥させながら、椅子に腰掛け熱心にブラシで梳かしていた。
ゆったりとした薄いレース生地の白いナイトドレスに薄紫のショールを羽織り、濡髪で伏し目のライラはとても妖艶だ。
うつ伏せのまま、朧げにその姿へ見惚れていると、ライラは視線に気づいてこちらを見やり、穏やかに微笑む。
「おはよう。王子様」
その声はどこか演劇のように艶やかな声色だ。
「おはよう。お姫様」
俺も劇団員のような口振りで応える。するとライラは満足そうに微笑み、また紫紺の髪を梳かしはじめた。
窓へ目線を向けると、陽は沈みつつあり、夜がもうすぐ顔を覗かせようとしている。
……アリシア、心配してるだろうな。昨晩も会う約束を守れないでいる。もしかしたら二人分の夕食を作ってしまっているかもしれない。もうアリシアの屋敷行けないことを、ちゃんと伝えなければ。
「少し、外に出てくるよ」
髪を梳かすライラの仕草がピタリと止まる。
「……どこにも行かないって、約束したわよね?」
「いや違うんだ! アリシアにもう行けないってことをちゃんと話さないといけない。それを話したらすぐ戻るから」
「……そう。ならいいわ。すぐに戻ってきなさいね」
ライラは低い声で応え、また髪を梳きはじめた。俺がドアノブに手を掛けた瞬間。
「待って」
えも言われぬ圧力を感じ、背筋が凍る。
「……やっぱり私も行くわ。貴方一人だと情に流されそうだし。髪も乾いたから待ちなさい」
「……はい」
俺は慄き、掠れる声で返事をする。
「そうね。……私のレイフがお世話になったんだもの。アリシアにはちゃんと
凄まじいオーラを放つ微笑み。同時にライラの祝福が溢れに溢れ、同心円上に床は凍てつき、吐く息は白く凍る。暖炉の火は氷に侵食され、その赤橙を一瞬で失う。天井から吊るされたロココ調の華やかな真鍮フレームが目を引く、小さなシャンデリアだけが光を灯す。
「……白髪とって」
「今?」
「今よ。戦う準備が必要なの」
戦う?
そんなに〈シレネ〉を警戒しているのか?
近辺には居ない事を確認しているはずだが。しかも白髪と戦闘準備に何の関係が?
俺は疑問を感じつつも、そのライラのオーラに気後れし、その問い掛けは喉の奥へと飲み込まれた。凍てつく床は踏む度にパリパリと音を鳴らす。椅子に腰掛けたライラの背中へ。仄かな官能を必死に隠しながら、その紫紺の髪へ触れる。髪がサラサラと絹糸のように流れるにつれ、凍てつく床と空気は徐々に平穏を取り戻す。俺が毛繕いをする度に、ライラの過去の努力の証達はそれぞれ床へ。
そして俺はその触れ合う時間を惜しみながら、最後に乱れた髪をブラシで梳かす。
「終わったよ」
「ちゃんと綺麗?」
背を向けたまま、ライラは尋ねる。
「ああ、綺麗だよ」
「……ありがとう」
いつの間にか、えも言えぬ圧力は溶けて消えていた。
「着替えるから、あっち向いてて」
「廊下で待ってるよ」
そう言って部屋の外へ。しばらくするとフリルを抑えた、サルビアブルーの上品なイブニングドレスとハイヒールに着替えたライラが出てきた。耳へは凝った意匠と小さなダイヤのピアスがキラリと光り揺れている。薄い桜色のリップはライラの艶かしさをより際立たせている。髪は下ろしたまま、繊維の揃ったその紫紺は、キラキラと灯りを反射する。
あまりの美しさに圧倒される。荷物が多かったのはこのためか。
「……綺麗だ」
「良いでしょ。母の形見なの」
ライラは耳に揺れるピアスを指差す。
「いや、そうじゃなくて、……君が綺麗だ」
「……うん」
ライラの顔は火を噴く。しかし、俺は疑問を口にする。
「髪、上げないのか? てか、それで走れるのか?」
「? なんで? 近くに〈シレネ〉は居ないでしょ?」
「ん? 戦う準備をするって」
「ああ。……どうやら敵は
頭上のクエスチョンは拭えぬまま、先行くライラの後を追った。宿を出てすぐ、ライラは突然、俺の両頬をその掌で押し潰す。
「いい? フラフラしたら、アリシア殺すから」
ライラの瞳は怪しく光り、その微笑みには女王たる気品が帯びる。
「……ふぁい」
俺は上手く開かない口のまま、仰せのままにと忠誠を誓った。
◇アリシア視点◇
日が暮れてから時間が経つ。
今日もレイフさんは来てくれないのでしょうか。
昨日は居ても立っても居られず、つい宿まで押しかけてしまった。宿の主人を問い詰めたら、二人はまだ帰ってきていないと言っていた。
……ライラさんとどこか遊びに行っていたのでしょうか。
せっかく作った二人分の夜ご飯は冷めつつある。
「……重い女だと思われたのかなぁ」
独り呟く。すると玄関の扉をコンコンと叩く音。考えるより先に身体が走り出す。今まで私を支えていた食卓の椅子は勢いよく倒れる。
レイフさん!
ああ、扉までのこの時間ですらもどかしい。
「レイフさん! 遅いです!」
しかし、扉を開けた先に立っていたのは弦月を背負い、紫紺の髪を優美に靡かせた女神様。
なんとなしに、私はバツが悪そうに引き攣る表情を必死に隠す。
「こんばんは。レイフじゃなくてごめんなさいね」
悦に入った微笑を浮かべたライラさん。
「……こんばんは。どうされたんですか? ライラさん」
失意を取り繕い笑顔で返す。
「なんてことはないの。すぐに帰るわ。ただレイフが貴方の家にもう来られないって事を伝えに来ただけよ」
そうしてライラさんは銀貨の数枚入った、上品な小袋を私へ握らせる。
「……なんですか? これ」
「私のレイフがお世話になったから、そのお礼よ。話はそれだけ。じゃあね」
ライラさんは扉を閉めようとする。私はそれを必死に抑える。
「待って下さい! 要りませんこんなの! レイフさんはどこですか?」
「アリシ――」
「貴方は黙ってて」
レイフさんの声をライラさんは遮る。視界の端で、レイフさんは情けなく小さく丸まる。しかしレイフさんの声を確認した私は、閉まり掛けた扉を勢いよく開き駆け出し、そしてレイフさんの胸へ飛び込む。
「レイフさん! そんな急に、酷いです……」
そして私は顔を埋めたまま、メソメソと泣いたふり。
……傍にいて欲しい。
レイフさんは罪悪感に苛まれながら、私の肩へそっと手を乗せてくれる。
「……ライラ。ちゃんと説明がしたい。少し時間をくれないか?」
私がこっそり振り向くと、ライラさんは微笑みのまま、しかし眉はピクピクと、その表情を引き攣らせる。
そして諦めたように溜息を一つ。
「お腹空いたから早くしてね。あと、私も同席するから」
◇三人称視点◇
ライラも渋々アリシアの屋敷へ足を踏み入れる。そして二人は居間のソファに、ローテーブルを挟んで対面で腰掛ける。アリシアは人数分の紅茶を用意してから席に着く。暖炉の火がパキパキと音を立てて盛大に燃え上がる。レイフは何故か座らせてもらえず、ライラの斜め後ろに立たされていた。
「私、レイフさんとお話がしたいんですが?」
「必要な説明をするだけよ」
ライラは腕と足を組んで、しかし外向きの笑顔をニコニコと貼り付けながら威圧する。それでもアリシアの表情は朗らかな笑顔。そこに怯えは無い。
「私はですね、ライラさんとレイフさんって合わないんじゃないか? って思うんです」
「……そんな話をしに来たんじゃないの」
ライラは笑顔のまま低い声。しかしアリシアは無視して続ける。
「この前だってレイフさんは、ライラさんに追い出されて宿へ入れずにいたんですよ? なんて可哀想!」
「……それは誤解があったのよ。もう解決した話よ」
「それにライラさんって自分の不機嫌を隠さないじゃないですか? それって傍にいる人にとってはすごく居心地が悪いと思うんですよね。一緒に居て気疲れしちゃうっていうか。レイフさんって優しいから特に心配で」
そしてアリシアはライラの奥のレイフに微笑む。対照的に女王はギラリと青年を睨みつける。
「なので、宿が一つしか無くて大変でしょうから、レイフさんは私の家で預かりますってお話です。ライラさんにとっても部屋を広く使えるし、悪い話じゃないですよね?」
アリシアの声は段々と自信を帯びて高くなる。伴いその笑顔の朗らかさは、春の如く咲き誇る。
「……だから、その話はもう解決したの。レイフはね、甘えん坊なの。赤ちゃんなの。私と同じ部屋で、私の傍で眠りたいんですって。ね? レイフ?」
ライラは外向きの笑顔のままレイフに同意を求める。
「は、はい」
レイフは首をブンブンと縦に振り肯定する。
「……言わされてるように見えますけど」
「それは貴方の妄想よ」
ライラは遂に勝ち誇る。一瞬押されていたようにも思えたが、焦点となる当人の首根っこを掴んでいる以上、やはりライラが有利だ。
「……お二人は先日出会ったばかりなんですよね? それなのに寝室を共にするなんて、ライラさんってクソビッチなんですね。色んな男性とご関係が?」
アリシアは今日一の満面の笑顔。あの可憐な口元から出る発言にレイフは口をぽかんと開ける。
「そんなの今回が初めてよ。私は宿の関係で仕方無くそうなっただけ。それよりも自分から能動的に男を家に連れ込むなんて、アリシアさんこそ、相当発展的な方なのね」
ライラは怯まず、返す刀で反撃。
「私はレイフさんが初めてです。それに部屋だって別ですよ。そのおっぱいだって男に揉まれまくって大きくなられたのでしょう?」
「私はそんな安くないの。触らせた事なんてないわ。私の話聞いてたのかしら? 貧乳って脳味噌も小さいのね。ちょっと可哀想」
「貧乳じゃありません! 美乳です!」
アリシアは赤面し、レイフの目を見て必死に立ち上がりながら訂正する。レイフは気不味く目線を逸らす。
……確かに貧乳ではなかったな、と寄り添うアリシアの感触を思い出す。一拍置いて、何かを悟ったライラの怒り狂った視線に気付き、緩んだ頬を必死に正す。
しかし話が逸れてきた。アリシアの事情を説明しなくては、レイフは話の方向性を修正する。
「ライラ、聞いてくれ。アリシアの父親は北西の鉱山に囚われているかもしれないんだ」
「……なにそれ?」
「どうやら――」
「アリシア。あなたの口から説明して」
レイフの説明を遮り、ライラはアリシアの言葉を促す。レイフの口を経由した発言では、アリシアの嘘如何への照査は働かない。話者が誰であるか、そこが大切なのだ。その瞳は試すように揺らめく。アリシアの表情から笑顔は消え、ソファへ座り直し、俯きながら話し始める。
「二ヶ月前、丁度〈シレネ〉が暴れ始めた頃です。父が採掘の仕事から帰って来なくなっちゃって。村長に聞いても、ちゃんと健康だ、忙しくて帰れないだけだ、って。でもこの前変な噂を聞いちゃって、鉱山の現場で悪いことさせられてるんじゃないかって」
「……それで?」
ライラは詳細を促す。
「そんな時、村の人じゃない、お二人がいらっしゃって、チャンスだと思いました。私は一人で
「……廃村に行けって話したのも貴方って聞いたけど」
「私、占いが出来るんです。それで元イケト村に吉兆が出たので」
「一匹もいなかったわ」
「そうなんですね。居ると思ったのですが、残念です」
アリシアは責任を感じたように俯き、背中を丸める。
「アリシアのせいじゃないさ。また明日のも――」
ライラの引き攣った視線に気づき、レイフの言葉は止まる。そしてライラは一つ嘆息。
「来て良かったわ。色々と状況が読めてきた」
良かった。ライラの誤解は解けたみたいだ。レイフが安堵に包まれたその時。
「貴方、真っ黒ね。私、嘘って嫌いなの」
ライラは刺すような視線でアリシアを睨む。
……待ってくれ。どういうことだ。ライラは嘘が見える。今、アリシアが話した説明には嘘があるのか?
レイフの脳内へ暗雲が立ち込める。
「な! ……嘘じゃありません!」
アリシアは激高。ローテーブルを叩いて立ち上がる。カップの紅茶も縁から溢れる。しかしそれは動揺を隠すための振る舞いのよう。
「嘘よ」
「っ!」
アリシアは言葉を失くす。そしてその表情の血の気は引いていく。
「アリシア……。本当の事を話してくれないか?」
レイフはアリシアを刺激しないよう、努めて穏やかに言葉を促す。
「……レイフさんも私の事、信じてくれないんですか?」
その顔は失意に沈む。
「信じたいんだ。だから、本当の事を話して欲しい」
「……結局、ライラさんの味方なんですね」
「そうじゃない。俺は君を助けたいんだ」
「貴方、私の味方じゃないの?」
ライラ言葉が鋭く刺さる。ちょっと今は止めてくれと、青年は困惑する。それでもアリシアは俯いて、黙ったまま。
「……言ったでしょ? 色々と状況が読めてきたって」
重い沈黙をライラが破る。
「アリシア、貴方の嘘は三つ。村長との会話、噂話、そして占いね」
被告人は無言のまま。裁判官は続ける。
「貴方はこの村と、村長とグルね。私達の任務が失敗するように仕向けていたんでしょう。お世話係なんて謎の人員を用意したのもそのため。そしてレイフを利用した。どんな甘い言葉か、どんなあざとい振る舞いだったかは知らないけど、彼単純だから、さぞ騙しやすかったでしょうね」
それでもアリシアは無言のまま。しかし握る拳には力が込もる。
「元イケト村を〈シレネ〉に襲わせたのも貴方達ね」
「な!」
ライラは確信を持った声。……そんな話、信じたくはない。だが、アリシアの否定の声は上がらない。
「報奨金が安かったのはそもそも任務に来てほしくなかっただけ。それでも被害者面はしなくちゃ怪しまれるから、注文書だけは提出したと。それもここの管轄の西武地方騎士団では無く、安上がりな民間の傭兵でもなく、役務単価の高く報奨金が割に合わない中央騎士団だけにね」
ライラは興味を失ったような表情で続ける。
「前日にレイフの行き先を聞いてたのも、占いと称して目的地を誘導したのも、〈シレネ〉を逃がすため。噂話を聞いたなんて嘘。貴方、主犯格じゃない」
俯いたアリシアの握る手の上にはポタポタと水滴が。表情は窺えない。そしてライラの推理は止めを刺す。
「こんな真似をしている理由はそうね、衰退した村の復興ってとこかしら。少量のエレオナイトしか採れなくなって久しいこの地域には、十分な金を稼ぐ手段が無いわ。少ないパイを奪い合っていては、いずれ共倒れ。だから貴方達カノリア村の人間は、夢を求め他所から移住してきたイケト村の住人が邪魔だった。だから殺した。資金繰りの厳しくなった企業にとって、無駄な人件費が一番の敵だから。そして騎士団に解決されたら、また移住者がやって来るかもしれないわね。だからこの近辺は危険だという噂を維持するために、私達の仕事を妨害した。こんなところかしら? 金を失った組織の行く先なんて、大体想像がつくわ」
これがカノリア村の、アリシアの真実なのか。アリシア、どうか否定してくれと、レイフは願う。
……しかし被告はただ、俯いて涙を流すだけ。レイフはそっとアリシアの傍に寄る。
「アリシア。大丈夫。アリシア、俺は君の優しさを知っているよ」
「何が大丈夫よ。こいつらは人殺しよ」
レイフは構わず、努めて穏やかな声で続ける。青年はアリシアの温かさを知っている。今のはあくまで状況証拠から導かれたライラの推理に過ぎない。ライラは恐ろしく頭がキレるから、大筋はあっているのだろう。ただ証拠があるわけではない。それにアリシアの振る舞いや温かさの全てが演技とは、青年はとても思えない。
「アリシア。君の話が聞きたい」
レイフは中腰になって、ソファに座ったアリシアを慰める。するとアリシアは突然立ち上がり、レイフの胸へ飛び込む。
「私! 殺してなんかない! そんな計画何も知らない!」
アリシアは嗚咽交じりに叫ぶ。ライラの顔を見ると、顔を引き攣らせながらも、その言葉には反応しない。……良かった。嘘では無いらしいと、レイフは安堵する。そしてアリシアをそっと抱き寄せる。
「私は! ただ、レイフさん達の行き先を探って来いって。そして任務が失敗したら父を帰してくれるって! ……村長が言うから」
ライラは無反応。アリシアは今、本当のことを話してくれている。ならアリシアは主犯格でもないし、ましてや人殺しでもない。レイフは相槌を打ちながらアリシアの言葉を促す。
「それで私のやったことは朝、レイフさんが出発した後、村長にその行き先を言っただけ! 殺しなんてしてない!」
そしてアリシアは慟哭。レイフは彼女の背中を優しく擦る。
「うん。分かってるよ。大丈夫」
それでもアリシアの涙は止まらない。
「俺ね、思うんだ。こういう時、騙したアリシアを悪者扱いする人がいるだろう。俺は違うと思うんだ」
「いや悪者でしょ」
レイフはライラの言葉を聞こえないふりして続ける。
「でも悪いのは村長や、この村の主犯格の連中だよ。アリシア、君は父を人質に取られた被害者だ。その状態で村長に命令されたんだろう? 父の安否を心配すれば断れないのは当然さ。だから俺は、君を恨んだりしない。恨んだりしないさ。約束通り、君の父は俺が助けるよ」
俺の服を掴むアリシアの手の力はギュっと強くなる。そして少しずつ呼吸を取り戻す。
「……レイフさんは、どうして私にそんなに優しくしてくれるんですか?」
「なんてことはないさ。困った俺に、先に手を差し伸べてくれたのは、紛れもないアリシア、君だよ」
レイフの抱き締める手にも優しく、しかし強い力が込もる。
「だからそれは行き先を探るためよ」
ライラの冷静な指摘は耳に入らない。今は彼女を慰めるのが優先だ。彼女は唯の、力無き被害者なのだから。
「レイフさん。……こうしているとレイフさんの匂いがしますね」
そうしてアリシアは少し背伸びし、その頭をレイフの首元へ擦り付ける。
「え! ……ごめん、臭いかな」
そう言えば昨日から入浴をしていない。一日中歩き回って汗も掻いているはずだ。
「ううん。レイフさんの匂い、落ち着きます」
スースーと深呼吸を繰り返すアリシアへ安堵するレイフ。すると。
「レイフさん……」
アリシアは潤んだ瞳でレイフを見上げる。その可憐さにレイフがたじろいだ瞬間、アリシアはレイフの首へ手を回し引き寄せ、唇がレイフのそれと重なる。
「な!」
後ろではライラの怒りを帯びた驚愕。レイフは呆気に取られていると、アリシアは再びレイフの胸に顔を埋める。
「慰めてくれたお礼です。レイフさん。……もうちょっとこのまま」
そして一拍置いて何が起こったのか理解し、狼狽するレイフからは見えないように、アリシアは勝ち誇った表情でライラを見つめ舌を出す。
「殺す」
その瞬間、床も空気も背筋も凍てつき、悪寒が走る。暖炉の赤橙は消え、天井や壁掛けのワセリンガラスのシャンデリアの灯りは煙へと姿を変え、部屋は夜の闇に沈む。
「ま、待ってくれ! 今のは違う!」
泣き止んだアリシアを振り解き、レイフは取り乱すライラに駆け寄る。
「何が違うのよ!」
反論の言葉は出ない。レイフは仕方無しに暴れるライラを抱き締める。その背中でアリシアは落ち着いて席に座り、嬉しそうにライラを見つめながら紅茶を啜る。その表情は、先程までの涙を忘れさせるかのような優雅さだ。
「私! 言ったもん! 貴方がフラフラしたらあの女を殺すって! 放しなさいクズ男!」
「ごめん。ごめんって。本当にごめん」
「自分よりブスな女に盗られるのが一番ムカつく!」
そのクズ男は語彙を失う。ライラから溢れる刺すような氷の冷気に耐えながら、ただただ抱き締める。
ライラはレイフの胸に顔を埋め、その背を抱き締め返す。
「私とあの女、どっちが可愛い?」
「ライラだよ」
母からのスパルタ教育を受けた青年は、ここの問答を間違えはしない。
するとライラは顔を上げ射抜くような視線で繰り返す。
「もう一回」
「ライラの方が美人だよ」
「…………」
言葉こそ無いものの、その口元は僅かに緩む。そこに嘘が無い事を確認し満足したのか、再び女王の美貌はクズ男の胸の中へ帰還する。徐々に冷気は柔らかく、そして消えていく。
「クズ男。すぐ約束を破るのね。貴方という人間がだんだん分かって来たわ」
「ごめん。ごめんね」
「あの女を抱いた手で今度は私を抱くわけ?」
「ごめん。本当にごめん」
「……クズ男、最低」
「うん。そうだね。……ごめん」
そしてレイフは、今度はライラの背中を擦る。ライラの抱き締める手には少し痛いくらいの力が込もる。
しばらくそのままでいるとライラはようやく口を開く。
「……私とあの女、どっちが大切なわけ?」
「ライラが一番大切だよ。この世界の何よりも」
アリシアは唇をぎゅっと結ぶ。しかし、空気はようやく温かさを取り戻す。
「もう、あの女と口を聞いちゃ駄目よ。視界に入れるのも駄目。いいわね?」
「え! それは……」
「酷い! レイフさん、私の事無視しちゃうんですか?」
後ろからアリシアのやけに甘えた声が聞こえる。
「いいわね?」
「……善処します」
「いいわね?」
「……はい」
ライラのもの言わせぬ圧力に、つい返事をする。
「酷い。レイフさん酷いです」
アリシアのわざとらしい悲哀に満ちた声。クズ男は罪悪感に苛まれる。
「ならいいわ」
ライラはクズ男から離れ、席に座り直すと話し始める。
「レイフ、貴方は私だけを見てなさい。いいわね」
「……はい」
仰せのままに、レイフはライラの隣に座り、その端麗な横顔をじっと見つめる。
「……そういう意味じゃないわよ。馬鹿ね。目を瞑ってなさい」
ライラは頬を紅潮させ、胸元まで伸びた紫紺の髪を自ら撫でながらルールチェンジ。クズ男は従順に瞳を閉じる。コホンと咳払いし、ライラは仕切り直す。
「ここからが本題よ」
ライラはアリシアに向き直り、紅茶を口にする。
「まず、ベンノはどうやって〈シレネ〉を操っているわけ?」
「それは、分かりません。私、本当に何も知らないんです」
ライラはアリシアをじっと見つめる。これは嘘では無い。
「まあいいわ。
あの銀の宝剣のように、魔具の全てが王都へ封印されているわけではない。日の当たらない裏社会では、美術品として高額な取引がされているらしい。
「魔力を調達した手段は分からないけど、〈オレガノ〉の羽か、そういった伝説級の代物に触れていることは確かね」
青年が七年前に掴んだあの羽。少し嫌なことを思い出し、唇を真一文字に結ぶ。
「そんな魔具や魔力を用意できる、国中に張り巡らせた根深いネットワークと大量の人員を抱えた何か巨大な組織が、ベンノのバックにいる可能性が高いわ」
そしてライラは再び紅茶を口にする。
「そんな組織があるのか?」
レイフは尋ねる。東の辺境で暮らしてきた少年には、そんな話に覚えがない。
「あるじゃない。一つだけ」
そしてライラは一つ星の騎士紋章取り出し、トントンと人差し指で叩く。
「……騎士団か」
その音に目を見開いたレイフの顔は青褪める。確かに国中に広がる巨大な組織と言えば、騎士団以外には存在しない。
……であればこれは、騎士団が仕掛けたことなのか?
一体何の為に?
「そんな……。それじゃあ、勝ち目が無い。父はどうなるんですか?」
アリシアは縋るような目でライラを見つめる。
「あくまで仮定の一つよ。証拠があるわけじゃないわ。ただあの腐った騎士団であれば、金の為にベンノへ、国庫行きの代物を横流しするような奴が居ても不思議じゃないわ」
ライラは肩をすくめて溜息。騎士団の人間を全く信用していないのだろう。
「近辺の〈シレネ〉を無視して、アリシアの父だけでも探しに行けないか?」
「一日で見つかればいいわ。でも広い鉱山地帯の中を探し回るのは時間が掛かる。依頼された周辺の討伐を無視して、いきなり鉱山に行くのは不審がられるわ。まずはこの一帯を狩り尽くすのが優先ね。ベンノにバレたらそれこそ貴方の父は危ないわ。何よりその腐った騎士とその連中が、悪事を公表される前に私達を消しに来るかもね」
筋が通っている。しかし〈シレネ〉は見つけられない。……どうすれば。
「なら任務失敗を装えば? それならアリシアの父が帰ってくるんだろう?」
「あんな連中が約束なんて守ると思う? 勝手に父親を連れて行ったのに?」
確かにそうだ。ライラが正しい。そんな確証はどこにもない。
「……ごめんなさい。もういいです」
アリシアは再び俯く。
「関係無いお二人を騙して、しかもこんな危険な事に巻き込んでしまって……。申し訳無いです」
そしてアリシアは顔を上げる。その顔は心配させぬよう精一杯の笑顔だが、その奥の自棄と自嘲は隠せない。
「私は是非そうしたいわ」
ライラはアリシアのことなど興味無さげにそう呟く。
「ライラ……」
レイフのもの言いたげな表情に、ライラは溜息。そしてライラはレイフの首根っこを掴み、自身の太腿の上へ引き寄せ乗せる。そうして犬をあやすかのように膝枕し、頭を撫で始める。レイフは赤面しながらも、もう為されるがまま。
「でもね、貴方を見捨てると、私のこのワンちゃんが、一生後悔を引きずる事になりそうなの。それだと貴方がずっとワンちゃんの記憶の中に残り続けるでしょう? それはムカつく」
そして遂に、アリシアへ勝ち誇った表情で微笑む。
「馬鹿ね。アリシア、貴方このまま泣き寝入りするつもり? 有り得ない。そんなの私の美学に反するわ。相手が誰であろうと、負けていい理由なんて存在しないの」
「……え?」
アリシアの瞳に小さな光が優しく灯る。
「アリシア、貴方が本当に騙した事を悪いと思っているのなら、私達に協力しなさい。舐めた真似した腐った巨悪、ぶっ殺すわよ!」
「な、何をすれば?」
アリシアはもどかしそうに答えを急かす。
「簡単よ。私達の行き先を聞いて〈シレネ〉を逃すなら、それを逆手に取ればいいじゃない」
「嘘の情報を流すわけか」
レイフは膝枕されたまま平静に答える。
「まあ! 正解よ、ワンちゃん。いい子ね」
ライラは嬉しそうにレイフの顎を優しく擽る。レイフは恥辱に耐えつつ目を瞑る。
「……つまり私が村長に偽の行き先を伝えて、〈シレネ〉の逃がし先を聞き出したら、それをお二人に伝えればいいんですね!?」
アリシアは興奮を隠せず立ち上がる。
「その通り。アリシア、貴方は二重スパイとして協力しなさい! 私たちに付けば決して損はさせないわ」
ライラは決め台詞。アリシアへ人差し指を堂々と指差す。
「分かりました! 私に出来る事であれば何でもやります!」
「交渉成立ね」
ライラはレイフを横へ退かし立ち上がり、アリシアと固く握手を交わす。二人の壁は遂に崩壊した。そしてライラは座り直し、強引にレイフを再び膝枕する。もはやレイフに抵抗する気力は無い。
「アリシア、私お腹が空いたわ。多めにご飯を作っているんでしょう?」
「はい! 今すぐ温めますね!」
アリシアはパタパタと厨房へ向かう。そして二人きりになるとライラは微笑み。レイフを見つめる。
「わかった?」
「何がだよ」
嫌な予感が掠めるものの、青年は信じきれない現実から目を背ける。
「アリシアから好きって言われたの?」
「言われてないよ」
「そう、なら似たような事は?」
「……夫婦みたいですね、とかは」
「ふふ」
ライラは予想通りといった愉悦のまま続ける。
「じゃあ、ボディタッチはされた?」
ライラに嘘は通じない。青年はしぶしぶ、真実を話す。
「…………腕にくっつかれたりはしたよ」
「ふふふ。ありきたりね」
ライラは身体を丸め、膝元のレイフの耳元へ顔を近づける。
「女っていうのはね、目的のためなら皆、女優になれるのよ。どんな甘い言葉で誑かされたかは知らないけれど、それは、全部、……
甘い、甘い、甘い囁き。
しかしその妖艶は、青年の過去の思想へ鋭い刃を突き立てる。
告白されたらどうしよう。傷つけないようにどう断ろう。
そんな図々しい杞憂は、女性の掌の上で踊りに踊らされた、青年の自意識過剰で傲慢な自惚れに過ぎなかった。
「――っうぅ~~!! ……死にたぃ」
「ふふ。随分と尊大な妄想に耽っていたようね」
両の掌で顔を覆い、羞恥と苦悶に踠く、叫びたくなるようなむず痒さに堪えるレイフを見やり、女王は可愛らしい愛玩生物を窘めるように続ける。
「男に都合の良い、夢のような女なんて存在しないのよ。ああいう清楚に見せかけた女が、一番計算高くて、腹黒いの」
垂れた紫紺の髪が、青年の頬をサワサワと擽る。上体を起こすとライラは満足そうな表情で、頭へポンと手を置き、そのまま撫でる。
「レイフさん! ライラさん! 食卓について下さい!」
奥の食卓からアリシアの朗らかな声。
「ほら、行くわよ。
女王は膝から坊やを下ろし、先へ行く。青年は自身の黒歴史を何とか振り払り、少し遅れて食卓に着く。
それでも、それでもなお、三人は夕食を囲みながら、確かに温かな地の固まりを感じていた。きっとこの三人でなら、目の前の逆境は乗り越えられるはずだ。そんなキラキラと煌めく確信が、三人の周りをくるりくるりと旋回した。
食事を終え、洗い物をしようと、ふと二人きりになった瞬間、アリシアはレイフにヒソヒソと囁く。そのやはり甘い声はレイフの耳を官能に擽る。
「レイフさん。明日は私の誕生日なのでお祝いして下さい。明日の夜は二人きりになれませんか?」
「え! ……それは」
お祝いはしてあげたいが、二人きりはどうなのだろうか。レイフが狼狽していると。
「嘘ね。……てかレイフ、貴方もすぐ断りなさい」
ライラの鋭く低い声。音は聞こえなくとも、嘘であれば、ライラには文字としてその目に映る。
「嘘じゃないです。ライラさんこそ、変な嘘吐かないで下さい」
アリシアは頬を膨らませ、否定する。
「アリシア、ライラは嘘を吐かないんだ」
レイフは洗い物を進めながら、そう応える。
「どうしてそんなことを言い切れるんですか? 私にはライラさんはそこそこ嘘をついているように見えますけど」
アリシアは甘やかな上目遣いでレイフに詰め寄り、肩へ凭れ掛かる。触れ合う肌の感触が思春期の青年の妄想を加速させる。
「レイフ、今すぐ王都に帰るわよ」
雲一つ無い満天の星の下、固まった地は、すぐさま雨で泥濘るんだ。
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