14.

 ◇レイフ視点◇


 翌日、一番に向かったのは騎士団庁舎に隣接する、騎士専用の図書館。俺達ヒヨッコが貰った鍵では第六号舎しか入れない。職位が上がれば一つずつ鍵が与えられ、聖騎士になれば第一号舎へ入館できるとのことだ。その第六号舎の奥の奥、忘れられたかのような小さな資料室を見つける。恐らく何年も人が出入りしておらず、ろくな手入れを受けていない。図書館の本や設備はあれ程丁寧に整備されていたにも関わらず。埃とカビの匂いがツンッと鼻を突き刺す。資料を漁れば、なんとか欲しい情報の断片が手に入る。

 現在の聖騎士は七人。

 騎士団長グスタフ・レードルンド。

 鷲の騎士隊隊長イングヴァル・ソレンソン。

 梟の騎士隊隊長ヨーラン・セーデルマン。

 八年前の戦争における功績で不文律を突破した北部地方騎士団団長ブルーノ・エングブロム。

 隠居した名誉顧問ではあるが、近衛騎士団団長オスキャル・フォーリーン。

 同じく顧問の、通称鳩と呼ばれる事務方トップのオットー・ヘルナル。

 現在行方を暗ませている伝説の聖騎士アクセル・ユングステット。

 この資料と公開情報を照らせば、この内、七年前聖騎士だった者は伝説を除いた六人。この中に禮命の聖騎士がいる。

 新しい情報も手に入ったものの、確信を突くそれは見つからなかった。七年前、ヨリス村周辺へ向かった任務の履歴も洗ったが、大規模な事件への参加履歴しか見つけられない。

 それでも情報は情報だ。

 こんな写しを大量に持っている不自然な姿を見られる前に、一旦家へ隠しに戻ろう。情報の整理が必要だ。


 ◇レイフ視点◇


 図書館から戻る途中、回廊から見渡せる中庭ではニワトコの蕾が綻びつつある。

 厳しい寒さを乗り越え、遂に春の訪れが足音となって前進する。

 ふと、あの頃の家族の笑顔が想い浮かぶ。

 そして、あの日のヨリス村も。

 ……復讐は必ず果たす。

「レイフさん」

 物思いに耽っていると、突然後ろから鈴を転がすような声を掛けられながら、肩をポンと叩かれた。驚きつつ振り向くと、上品で官能的な、しかしバニラのような甘い香り。

 そして、氷の女王。

 ライラ・レーヴェンアドレール。

 先日の叙任式で筆記首席の表彰を受けていた。マテウスの話では、間違いなく聖騎士ヨーランの派閥、梟の騎士隊へ入隊するらしい。

 そのフリルを抑えた気品なロングスカートの、黒を基調にマルベリーを差し込む騎士装束は、背中の春とは似つかわない対照的な冷気を帯びる。そよ風に靡く、艶々とした紫紺の長髪と、鋭利な聡慧と愛くるしさを両立させる、菫色の瞳を携えた大きな猫目。

 ……本当に、綺麗な顔をしているな。

「何の用だ?」

 油断すると吸い込まれそうになる意識を必死に奪還し、訝しげに答える。

「貴方、昨日の懇親会に来なかったでしょう。探したのよ」

「……何の用だ?」

 結論だけを急かす。女王は嘆息。

「貴方はどこの派閥に入るつもりなの?」

 要旨を要求したものの、自己紹介も無く、第一声が出世競争の話。彼女の人となりは分からないが、結局はマテウスと同じ、強い野心があるのだろうということだけは理解した。

 何故だか、少し落胆してしまった。いや、勝手にこちらが期待してしまっただけなのだが……。

 なんとなくだがこの女とは馬が合わないだろうと確信する。

「別に。俺はどの派閥にも入るつもりはない」

「あら、そんなこと言う人初めてだわ。理由を教えて」

「あんたには関係無い」

 下手な嘘を吐いてもマテウスのように疑われるだけだ。それにこの女と話していたって捜査は進まない。さっさと戻ろう。

「変ね」

 ライラの表情が強張る。

「チームでなければ大きな戦果を上げられないわ。それに貴方の叙任式での宣誓と矛盾するのでなくて?」

 何でどいつもこいつも、いきなりこんな突っかかってくるんだ。俺が派閥に入ろうが入らまいが、どうだっていいだろうが。

 相手にせず帰りたいが、変に怪しまれるのも面倒だ。こいつは強い影響力を有する派閥第二位の梟の騎士隊。余計な噂を流されるのは俺の寿命を縮めるのに等しい。アルドレット行き、とやらは避けたい。馴れ合うつもりは無いが疑惑はここで払拭しなければ。

「叙任式は決められた言葉を並べただけだ。別に何もおかしくない」

「言えてなかったけれどね?」

 女王は淡々とした表情で場の空気を制し、会話の主導権を握ろうとする。

 多分もう、皆にバレていたのだろうな。叫びたくなる程の慚愧を必死に飲み込む。

「なら貴方の目的は何?」

「金だよ金。金目的の奴なんて腐るほどいるだ――」

「嘘ね」

 俺が喋り切る前にライラは遮る。別に嘘ではない。俺自身これ以上教育を受けられる金も無いし、貧困から抜け出すために騎士団へ入り、その命を賭け金に生活費を稼ぐ奴が多いのは事実だ。

「……は? 嘘じゃないさ。俺は小さい頃に両親を亡くしている。このご時世よくある話だろ」

「貴方が貧乏人なのは見れば分かるわ。でも入団の目的はそれじゃないでしょ?」

 ……言い方どうにかならないのか?

 しかしどういうことだ?

 もしかしてもう目的が復讐であることを見抜かれた?

 いや、そんな訳はない。昨日初対面だぞ。いくらなんでもそんなことは有り得ない。

 目的は分からないが鎌を掛けているのか?

 ただそれにしては、その眼差しは確信を帯びている。

 ……不用意な噓を吐くのは危険かもしれない。疑惑の払拭は諦め、会話を切り上げることが優先か?

「信じないならそれでいいさ。これ以上用は無いだろ。じゃあな」

 悔しいが相手は格上のようだ。これ以上は危ない。早く戻ろう。踵を返して大広間への扉へ手をかけた瞬間。

「殺したい人がいるわよね?」

「――ッ!」

 何故だ!

 何故バレた!

 驚いて振り向き、思わずライラのその眼差しを睨み返す。

「怖い顔。当たりのようね」

 ライラは勝ち誇った顔。しかし、その菫色の瞳は底が知れない。

 ……やられた。何をやってるんだ俺は。馬鹿すぎる。確信めいた表情は演技で、やはり鎌を掛けられていたのか。

 まずい。

 ここで巻き返さなければ通報され、アルドレット行きだ。

 俺は何も為せず終わるのか?

 ……否、禮命は、必ずその代償を支払わなければならない。そうでなければ死んでも死にきれない。

 腹を括れレイフ。

 ここが正念場だ。

「……そうさ。七年前、俺の両親と妹、家族を殺した犯人を探している。どこか逃げ回っているその屑を殺したい」

「それで?」

「そのために騎士団の情報網が必要だ。騎士としての正義を執行する」

 真実を織り交ぜた回答。嘘という嘘は無い。様々な制限があるものの、止むを得ない状況の下であれば、騎士は罪人を斬ることが許されている。犯人が身内であるということ、騎士団を裏切ろうとしていることだけを隠し通せれば望みは繋がる。

「うーん。貴方のこと少し分かったわ。でも後半が少し嘘なのね」

 何故だ!

 そんな的確に分かるものか!

 ……こいつは何かを知っているのか?

「嘘じゃない。信じないならもう訊くな」

 発露しそうになる焦燥と激昂を必死に隠しながら、努めて抑えた声で応える。

 まずい。

 まずい。

 まずい。

 こいつに俺の嘘は絶対に通用しない。話の方向性を変えなければ。

「だいたい、俺の目的を訊いて何の意味がある。お前の目的は何なんだ?」

「私の目的は聖騎士になること。そして騎士一族として名を上げたレーヴェンアドレール家の家名を復興することよ」

「家名? 何だ? 没落でもしたのか?」

 乾いた声で何気なく相槌を打つ。

「そうよ。八年前の戦争のせいでね。騎士だった父上が配属された北部は戦争の最前線だったから。そこで父上が亡くなったの。今は私が当主よ」

 八年前の戦争とは、十年前に北の民主国が宣戦布告も無しに突如領土を侵犯し、侵攻して来た領土戦争の事だ。結果としては我々王国が勝利したが、王国側だけで九四〇〇〇人の死者を出した、悼むべき戦争だった。

 ……驚いた。まさか本当に……。

 しかしライラから溢れ出るその気品は、微塵もそのような気の毒な事実を感じさせない。

 ライラは構いなく続ける。

「だから私には力が必要なの。そのためにはこの騎士団で上り詰めて聖騎士になる必要があるわ」

「……ごめん。悪いことを訊いてしまった」

「いいわ。私も貴方の訊かれたくないことを訊いたんだから。お相子よ」

 気不味そうなライラ。

 ……なんだ?

 急に萎らしくなったな。いや、それはそれで怖い。

「私、嘘って嫌いなの」

 溜息をひとつ。

 表情を切り替え、ライラはまた刺すような眼差しをこちらへ向ける。

「私の目的は答えたわ。次は貴方の番よ。話を掏り替えないで」

 見抜かれていたか。舌戦については相手の方が一枚も二枚の上手だ。嘘は絶対に通じない。

 ……観念するしかないか。駄目ならもう……殺すしかない。

 そして何故か、何故かは分からないが、この人には嘘を、……吐きたくはない。

 この感情の所以は分からぬまま、俺は長い逡巡の後に口を開く。

「さっき話した犯人についてだが」

 ライラの表情は変わらない。

「そいつは間違いなくこの中央騎士団の中にいる。俺はその屑を殺したい」

 もう、どうにでもなれ。

 一拍の間。

「アハハ!」

 ライラは俺の答えに一瞬面食らった後、突然笑い出した。

「貴方は可笑しいわ! 普通そんなこと、初対面の人間に話さないでしょ!」

「お前がしつこく訊くからだろうが!」

 苛立たしい。絶対にこいつとは馬が合わない。

 しばらく笑った後、ライラは続ける。

「あー可笑しいわ。信じられない。私が通報したらどうするつもり?」

「そうなる前にお前を殺す」

 言葉とは裏腹に焦燥と激昂は消えていた。

「でも嘘じゃないようね。ありがとう」

 初めて見せるその笑顔。また一瞬にして心を奪われる。さっきまで殺そうとしていた相手になんとも情けない。

「……いいさ。それでどうする? 結局何が目的だ? 通報するのか?」

 何故か分からないがライラは通報しない。そう、確信していた。

「通報はしないわ。ただ貴方のことを知りたかっただけよ」

 何だそれは?

 何のために?

 ……まあいい。今後絡むことも無いだろう。このまま話を続けるメリットは無い。

「なら話は終わりだな。じゃあな」

 大広間への扉へ手を掛ける。

「待って!」

 ライラは俺の右手の袖を掴んで引き留める。

「何だ? もう用は無いだろう」

「ここからが本題よ」

 いつの間にかライラの刺すような眼差しは消え、瞳にはどこか安穏が漂っていた。

「私とバディを組みましょう」

「……は? なんて?」

「だーかーら! 私とバディを組みましょうって!」

「何で?」

 意味が分からない。だいたい何だその喋り方は。

 さっきまでの気品は薄れ、今目の前にいるのは年相応の唯の少女。

「貴方を気に入ったの! レイフ!」

「いやいやいや。意味が分からない。お前は聖騎士ヨーラン派閥の梟の騎士隊へ入隊するんだろ? そこで優秀な人間と組めばいいだろう。お前ならいくらでも声が掛かるだろ」

「……? 何の話? 私そんなこと言ったかしら?」

「いや、言ってはないが。……ごめん、決めつけて。じゃあ聖騎士イングヴァル派閥の鷲の騎士隊に入るのか?」

 それは現在の中央の最大派閥。現騎士団長の聖騎士グスタフも鷲の騎士隊出身らしい。

「? 私、派閥には入らないわよ?」

「は!? お前さっき俺にそんな奴いないって言っただろうが!」

「うん。普通はね」

 話についていけず、開いた口が塞がらない。ただなんとなくだが、ライラはこちらが素なのかもしれない。

「……説明をくれ」

 嘆息しながらドアノブから手を放す。もうここまできたらトコトン付き合おう。

「まず貴方のメリットを説明するわ」

 ライラは得意げに話始める。俺は身振りでどうぞと促す。

「貴方の復讐は、このままじゃ一生成し遂げられないわ」

 俺は黙ってライラの話を訊き続ける。

「貴方は今、図書館の資料室から七年前の事件に関係の有りそうな人物の出撃履歴を書き写して来た。後でそこから大体のアリバイを推測して、凡その当たりを付けるつもりなのでしょう? でもそんな資料を持ち歩いているのが見つかれば間違いなく理由を尋ねられるわ。そうなった場合どんな言い訳をしたって怪しまれる。だから貴方は一旦自宅へ資料を隠しに戻る途中。そうよね?」

 俺は頷いて肯定する。恐ろしい洞察力。平静を装っているものの、冷汗が止まらない。先程の笑顔で油断したが、俺の正念場はまだ終わっていなかったようだ。

「それで? 良い資料は見つかった? 少しでも犯人像は見えてきた? アリバイは精査できた?」

「これから帰って情報を整理するとこだ」

「嘘ね。私、嘘が嫌いって言ったわよね?」

 ライラの目に一瞬鋭さが宿る。

「……大した情報は見つからなかったさ」

「素直でよろしい」

 ライラの瞳にパッと安穏が生き返る。

「それは当然ね。私たち下っ端の入室権で入れる第六号舎には大した情報を置いてないわ。上級騎士、特に聖騎士級となればその出撃履歴や計画は機密情報なのよ」

 俺は犯人が聖騎士と話した記憶はない。

 俺のどこからそれを読み取った?

 これも鎌を掛けているのか?

 表情から見抜かれぬよう、無表情のままライラの話の続きを待つ。

「彼らの七年前の詳細な出撃履歴を知りたければ、上位の入室権が欲しければ、貴方は同等の地位を手に入れる、もしくは上級騎士の協力者が必要ね。前者は時間が掛かり過ぎる。少なくとも二十年は掛かるわね。その間、犯人に逃げられるかもしれない。一方後者も無理。間違いなく理由を訊かれるし、余りにもリスキー過ぎる。だいたい派閥にも入らず、そんな協力者を用意できないわ」

 そしてライラは決め台詞。振りかぶって言葉を紡ぐ。

「貴方、詰んでるわ。復讐は、成されない」

「……なるほど。話が見えてきた」

「物分かりはいいようね」

 ライラはニコっと微笑む。その笑顔は俺の心臓を何度も突き刺す。自分で自分が嫌になる。

「でも安心なさい。私が聖騎士に成って貴方に協力してあげるわ。その代わり貴方は私が聖騎士に上り詰められるように協力しなさい」

 ライラは掌を差し出して握手を求める。その口元は自信に満ち溢れている。

 なるほど。話に矛盾は見当たらない。

 だが俺は握手に応じない。腕を組んだまま質問する。

「確認させてくれ。聖騎士を目指すなら派閥に入ったほうが確実だろう。お前が俺と組む理由はなんだ?」

「不確実性で言えばそのとおりね。例えば同期首席のマテウスは既に鷲の騎士隊に入隊したらしいわ。彼は間違いなく上級騎士、もしかすれば聖騎士にまで辿り着くのでしょうね」

「では何故?」

「マテウスは確かに実績を積み重ね出世するでしょうが、それはチームで動いてこそ。手柄を総取り出来ないわ。であれば確実ではあるもののスピードが遅い。それじゃあ意味無いわ。私には時間が無いの」

「時間が無い?」

「資金が尽きそうなの。それでも没落したレーヴェンアドレール家に残ってくれた使用人達を私は路頭に迷わせない。それは下級騎士では叶わないわ。だから最短で聖騎士になる必要があるの」

 最短で聖騎士、か。そんな絵空事を現実へと昇華したのは、この歴史上で一人だけ。

「アクセルか」

「そう。伝説の聖騎士アクセルは唯一派閥に入らず、六年前、たった三年で聖騎士まで上り詰めた騎士。その齢は二十一歳。それは偏に無数の単騎出撃による手柄の総取りに因るものよ。前例は有る。決して夢物語ではないわ」

 一向に片付かない戦後裁判と組織のバランスを崩しかねない昇格により、戦争の終結から大幅なタイムラグが生じてしまったが、六年前、当時既に行方を暗ませてしまった当人不在の聖叙任式は余りに有名だ。おかげで聖騎士アクセルの聖騎士紋章は、未だ王城に保管されているという。この時点で聖騎士アクセルは『禮命』ではない、つまり容疑者から外れることになる。

「ならお前も俺と組まず単騎出撃すればいいだろう」

「貴方バカなの? 下級騎士は単独で任務を受注出来ないわ。戦死する危険性が高いからね。伝説だってデビュー戦は二人で出撃したのよ。そんなことも知らないの?」

 ライラは心底可哀そうなものを見る表情。

 ……知らなかった。周りとの関係を否定し続けた付けが回ってきたようだ。

「話を続けるわよ。私達で任務をこなし、貴方は手柄を全て私に献上する。私は第二のアクセルとなり家名を復興させる。そして貴方は復讐成就のための最高の協力者を手に入れる。私達は互恵の関係に成れるはずよ」

「派閥に入らない理由は理解した。だが俺と組む理由の説明が無い」

 ライラは溜息を吐く。しかし何故か表情は嬉々たるものだ。

「貴方って、決断力が無いのね」

「慎重な性格なんだ」

「貴方を選んだ理由はね、友達がいないからよ」

「い! ……ないけど。それがなんだ」

 ライラは愉しむ様に続ける。

「貴方は良いわ。剣戟主席で強さは折紙付き。中央騎士団に所属する実力者は皆、出世を目論んでいるわ。一方、貴方は騎士団内での地位に全く興味が無い。だから手柄を横取りされても、復讐に近づくためには厭わないわ。そうでしょう?」

「まあ……それはそうだな」

「そして何よりも貴方は家族を殺した騎士団を憎んでいる。嬉しい。……私もね、騎士団が大嫌いなの」

 ……そうか。ライラもまた、騎士団の戦争で父を亡くしている。

「以上が私の説明よ。覚悟は決まったかしら?」

 ライラは差し出した掌を上げたまま、答えを求める。

「嘘は無いんだな?」

「まあ! その上疑り深いのね」

「慎重な性格なんだ」

 そしてライラは飛び切りの笑顔で三度目のその呪いを紡ぐ。

「私、嘘って嫌いなの!」

 その笑顔はいつでも新鮮に俺の心を突き刺す。もう論理は意味を成さない。どうせ、俺はこの苦しいほどの愛しい笑顔に、抗うことは叶わないのだろう。

 一つ溜息。

「……君のその、香水の名前を教えてくれ」

「……? ヘリオトロープよ」

 ヘリオトロープ。

 その名を覚えておこう。きっとこれから君の傍で、その香りへ支配される日々になるのだから。そんな安らかな予感が胸を走る。

「協力しよう」

 騎士団は裏切りの世界だ。本当に信用した訳ではない。もしこの女が俺の復讐の障害となるならば、いつでも斬る。

 俺は遂に、その差し出された掌を握る。

 考えとは裏腹に、俺のその手にはどうやら信頼が宿っていたらしい。

 ……もう、後戻りは出来ない。

「おめでとう! 正しい決断よ! 私の名はライラ・レーヴェンアドレール」

「レイフ・ロセインだ」

「よろしくね、レイフ。これで私たちは五分のバディよ」

 繋いだ手から伝わるのは、ライラの春のような温もり。

 氷の女王なんてものは幻影なのかもしれない。

 大切なのは今、この目に映る真実だけ。

 叶うなら、この手をもう二度と離したくはない、なんて願う四月の頭。

 中庭を吹き抜ける春の柔らかい風が、二人の頬を優しく撫でた。

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