揺れる黒百合

6.

　◇三人称視点◇

「あれ。……もしかして足りない？」

　宝剣を清め続け早五時間。宝剣は炎の中でも不思議と熱を持つことも無く、燦然とその美しさを誇示している。

　これも魔法の力なのだろうか。

　しかし、目の前の現象に少年がそんな興味を持とうとも、この国において魔法の研究は禁忌。こんな簡単な儀式でさえ門外不出の技術とされている。やはり魔女の支配する暗黒時代に勝利した沿革を有する王国では、魔女と魔法は忌諱される。

　そして少年は困り顔の父に顔を向ける。

「足りないの？」

「うーん。このペースで焼べ続けたら、夕食頃には樫の薪が無くなってしまうかもしれない」

　父はなんとも情けない顔だ。前日までの準備に、計算違いがあったのだろう。全く父らしい。

「じゃあ俺が拾いに行ってくるよ。また南の森でいいんでしょ？」

「ああそれでいい。すまないな。頼むよ」

　そのどこか憎めない父を他所に、少年は出発の準備を進める。向かうは先日も採集した南の樫の森だ。

「あらレイフ。どこか行くの？」

　母はユリアとシーツを洗濯しながら少年に気付く。

「うん。樫の木が足りないんだ。南の森に行ってくるよ」

「ならちょっと待ってて」

　そう言って母は家に戻り、目当ての物を見つけると、パタパタと走りながらこちらへ寄ってくる。

「はい、お守り。近くだからって忘れちゃダメよ」

　母は魔除けのお守りを息子の首へ掛ける。ここら辺は、王国の遥か北西に位置すると謳われる原初の穢蕊の子宮（マトリカリア）から遠く、滅多に穢蕊（えしべ）が出没しない。居ても臆病にすぐ逃げていくものや、ただ咲いているもの、人間などお構い無しに草木を喰むものばかりだ。その子宮（マトリカリア）とはこの世界に穢蕊（えしべ）の絨毯を敷いた元凶、全ての悪夢の源と現代まで伝えられている。

　それでも、母の心配性の根源が自身への愛であることを、少年は理解していた。

「ありがとう。行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。レイフ」

「お兄ちゃん！　行ってらっしゃい！」

　母と貝殻のネックレスを大切そうに首から下げたユリアが暖かく見送ってくれる。いつかこの愛に報いることが出来たなら。眩いほどの昼下がりの陽射しの中で、少年は密やかな感謝を募らせた。

　◇三人称視点◇

　南の樫の森には三十分程で到着した。少年は手早く乾燥した樫の枝を拾い集める。

「まあこんなもんか」

　木材でいっぱいになった背負子を見つめて呟く。後は家に戻って薪割りするだけだ。少年が踵を返そうとしたその時、地面には大きな鳥の影。驚いて振り返り天を見上げれば、白銀に輝く六翼を雄大に広げ、上空を堂々と翔ける壮観な姿がそこにはあった。

「……〈オレガノ〉？」

　〈オレガノ〉とは、この王国に伝わる伝承上の上代の穢蕊（えしべ）の一体。原初の穢蕊（えしべ）がその身体の腐り落ちて、子宮（マトリカリア）だけを現世へ残す前に出産した、他とは異なるその見目麗しい子供達だけが上代を冠することを許される。〈オレガノ〉は、普段は遥か上空を休むことなく羽搏いているが、大地が枯れ果てようとする時、恵みの羽を落とし大地へその命を分けるという。

　その羽が地面へ触れる前に掴むことが出来たなら、宿る魔力を逃がさずに魔具の動力源として自由に使うことが出来るらしい。

　かつてその恵みを手に入れたある男は、その羽を酔狂な貴族へ売り払い、巨万の富を得たという。

「……本当にそうなのか？」

　確信は無い。しかし少年は走る。ダメで元々なのだ。もし伝承が真実ならば、皆に良い生活をさせてあげられる。少年は沢山の無性の愛を与えてくれた家族へ、何かを返したい。

　走れレイフ。

　走れ。

「もう！」

　そして少年はせっかく拾った樫の枝と背負子を放り投げ、森の奥へ奥へと、ただひたすらに走って行く。

「クソッ！」

　走り、走り、走り続ける。

　――もうどれだけの時間が過ぎたのだろうか。どれだけ走っても、追いかけても、その瑞鳥は恵みを与えはしない。足の速い少年であっても、その距離は徐々に広がり、映る姿は小さくなってゆく。もう息が出来ない。肺も、心臓も身体の全てが悲鳴を上げる。もう苦しい。止めてしまいたい。それでも少年は走り続ける。この走り続けた先にユリアの、そして家族の笑顔がある。

　走れレイフ。

　走れ。

「お願い」

　祈る少年。しかし乳酸が蓄積し、少しずつ上がらなくなってきた足に、太い地を這う大樹の根が引っ掛かり、少年は正面から身体を放り投げたように躓く。激痛が走る。もう身体は起き上がらない。心は諦め切れないものの、もはや身体は言うことを聞いてくれない。

　現実は非常だ。

「……なんでだよ。お願いだよ！　女神様！」

　少年は叫ぶ。しかしその声は無情にも森を吹き抜ける風に掻き消される。少年の目から悔しさが溢れ出そうとしたその時、大いなる霊鳥は突如、その白銀の六翼を激しく羽ばたかせた。

　……光が見える。〈オレガノ〉の真下へ、光る何かが零れ落ちる。……もしかしたらあれが。

「……まだだ」

　少年は一縷の望みを掛け、もう一度立ち上がる。光の落ちる速度はかなり遅い。今ならまだ間に合うかもしれない。

　全身の激痛を引き摺りながら、もう一度だけ走る。

　走れレイフ。

　走れ。

「……待ってろよ」

　肩で息をする。肺が張り裂ける。喉が締まり息も絶える。それでも走る。全ては家族の笑顔のため。

　徐々にその光の輪郭がはっきりしてくる。もう少しだ。

「やっぱり。羽だ」

　走り続けた少年はようやく恵みの真下へ辿り着いた。

　光が眩しい。伝承は実在したのだ。

「綺麗だ」

　その羽は風に吹かれ、右へ、左へ揺れ惑う。絶対に落としてはいけない。少年はその都度狼狽えながら、恵みの真下をキープする。

　ふわりふわりとゆっくり落ちる。そしてついに。伝承は、少年の両の掌へ吸い込まれた。白銀の翼からは想像できない、青磁色の美しい羽だ。少年の手に収まった途端、その光は少しずつ落ち着きを取り戻す。少年は歓びのあまり言葉を失う。

　そしてその達成感と安堵から、羽が地面に触れぬよう慎重に地面に倒れ込んだ。得も言われぬ達成感が少年を包む。

　……ずいぶん遠くまで来てしまった。しばらく休息したら、また枝を拾いなおして早く帰ろう。家族の喜ぶ顔を想像しながら、少年は、誇らしげに一時の憩うに身を任せた。