揺れる黒百合

5.

　◇三人称視点◇

　澄んだ朝の空気の匂い。

　ヒバリの朗らかな鳴き声に目を覚ます。少しまだ肌寒い。大地が目を覚ますのにはもう少し時間がかかる。

　家に帰った記憶が無い。どうやら寝落ちした少年を、誰かが家に連れて帰ってくれたようだ。

　少年はまだ重い瞼を擦りながら、隣で眠る小さな天使を起こさないようにベッドからそっと這い出す。今日の少年には仕事があるのだ。

「おはよう、レイフ」

　キビキビと朝食の準備を進める母へおはようと返す。思えば母がダラダラと怠慢を過ごしている時間を見たことが無いかもしれない。

「お父さんは？」

「日が出る前に社へ向かったわよ。もうそろそろ帰ってくるんじゃないかしら」

　社。それは魔女様とやらを封印している霊堂とのこと。その封印は社への道を隠し、封印を執行した者にしか辿り着かせない呪いを齎しているらしい。昨夜父から教わった話だ。父は社へ封印の鍵となる銀の宝剣を取りに向かったのだ。その宝剣を樫の薪を焼べた炎で清め、古めかしい儀式の後に、深夜に再び刺し戻す。これで封印の更新は完了なのだそうだ。特に難しいことは無い。少年の今日の仕事は炎の番のお手伝いだ。

「ただいま」

　噂をすれば父が帰ってきた。その手には宝剣が握られている。まるで十年放置されていたとは思えない輝き。黒く燻むことも無く、鍛えた日の姿のまま凛と佇んでいる。少年が宝剣に見惚れていると父が説明を足してくれた。

「この銀の宝剣はな、幾年もの月を超えても、決して朽ちることのない魔法が施されているんだ。本来純銀は柔らかい金属だが、この銀の宝剣は折れず、刃毀れせず、その美しさと切れ味を失うことは無い。まあ魔具の一種だな」

　魔法。

　今は滅んだ魔女の力。かつてその絶対的な力と残虐性でこの国の頂点へ君臨していたが、約四百年前、正義の勇者アレクシス・ヒルドレーナとその配下によって滅ぼされた。

　その後、勇者は現ヒルドレーナ王国の初代国王となり、その配下はこの国で強い権限を握る騎士団の源流となった。

　そして魔具とは、彼女ら魔女が自身の魔力を注ぎ込み、時には武器として、時には生活を豊かにする調度品として創造した骨董品である。骨董品と呼ばれる所以は、魔女が姿を消し誰も動力源となる魔力を与える者がおらず、もはや動かすことが叶わないためである。しかし、それらは今や人心を惑わす異端者の呪いの遺物として、全て王都の国庫へ厳重に保管されているという。

　この宝剣もいずれ、その輝きと力を失う日が来るのだろうか。

「持ってごらん、レイフ」

　父は剣の柄を息子へ向ける。少年は恐る恐るその柄を両手で掴む。

「軽い！　……何これ？　中は空洞なの？」

　玩具の剣と知り、少年はひどく落胆した。それはそうだ。真に魔具であるならば、これも女神ヒルドレーナへ背く禁忌として、例外無く王城の地下へ封印されているはずだ。

「ハハハ！　違うさ。この剣はな、持ち主を選ぶんだ。それ以外の者には無限の重量に感じるらしい」

　……絶対眉唾だ。少年の疑いの目を察したのか母が助け船を出す。

「本当よ。私は重くて持てなかったもの」

「ええ……」

　半信半疑ではあるが、母が言うなら嘘では無いのだろう。

「良かった。これならレイフも、封印の儀を継げる」

　父のいつもの笑顔。まあ、そう言われると悪い気はしない。選ばれし者。事実そんな大仰な話ではないが、九歳の少年にとっては心をくすぐる耳触りの良い言葉だ。

　……もしも騎士となって大金を稼げれば、ユリアに十分なご飯を食べさせてあげられるだろか。少年はそんな淡い希望を胸に抱く。

「さあ勇者レイフ。朝食の準備が出来たわよ。席に座って」

　母は恍惚に沈む息子の表情を見逃さず、大げさに褒め称えながら、勇者へ朝食を促す。

「ユリアは？」

　父は尋ねる。

「まだ眠っているわ。昨日初めて夜更かししたんだもの。朝食は取っておくからまだ寝かせてあげましょう」

　今日は忙しくなる。すっかり気分の良くなった少年は、茶色がかった硬いパンを急いで飲み込み、儀式の準備へ取り掛かった。