揺れる黒百合

7.

　◇レイフ視点◇

　ヨリス村への帰り道、投げ捨てた背負子は懸命に探したが見つからない。

　まあ仕方無いか。あの時は必死だったからな。この羽を売ったお金でまた新しいのを買えばいいか。

　既に資産家気取りの俺は得意げに鼻を鳴らす。すっかり遅くなってしまった。日は沈みつつある菖蒲色の空を背に、右脇に樫の枝の束を抱えながら帰りを急ぐ。

　父は夕食頃に足りなくなると言ってたな。儀式が途切れる前には早く帰らないと。

　帰路を焦る一方で、お金の使い道を夢想する。

　まずは我が家を豪華な屋敷に建て替えよう。母も手狭な台所や収納に困っていたはずだ。ユリアは花が好きだから、庭を整備して素敵な花だらけの庭園を造園しよう。ご飯だってお腹いっぱい好きなものを食べよう。ユリアの瘦せ細った腕や足に沢山の贅肉がつくまで食べよう。食べたことない柔らかい肉や甘いスイーツを飽きるまで食べ尽くそう。綺麗な服も着よう。ユリアは綺麗な顔をしてるから何だって似合うさ。王都の人間が来ている上品なフリルを遇らった服やドレスを日替わりで着こなそう。そうやって今まで貧しかった分、沢山の贅沢をしよう。

　待ってろよユリア。

「ん？」

　ヨリス村が近づいてきた。すっかり暗くなった新月の夜に、村だけが明るい。

　すごい。これが月華祭の本祭なのか。

　その華やかな非日常に、足取りも思わず弾む。

「……？」

　そのスキップに合わせて、その光量もどんどんと強くなる。

　瞬間、鼻先を擽るのは、……微かな異臭。

　……何だ？

　突如湧いた疑問に足は止まる。

　しかし、その異臭は、森を吹き抜ける清涼な夜風によって霧散する。

「って、立ち止まっている場合じゃない」

　そのクタクタの、棒となった足を一歩前へ。

　すると、再び、……悪臭。

　一歩前へ。

　……？　何だ？

　一歩前へ。

　これは、何か、焦げた匂い。

　一歩前へ。

　鼻孔をツンと付くその異臭。生物としての本能が否定する不快感。

　一歩前へ。

　……何かがおかしい。祭りの大篝火にしては、……明るすぎる。

　一歩前へ。

　得も言われぬ嫌悪感。脳だけが明確な危険信号を大音量で鳴らし出す。

「待ってよ」

　抱えた樫の枝をまき散らし、〈オレガノ〉の羽だけを握りしめ走り出す。足の痛みなど、忘れていた。

「待ってくれよ！」

　ヨリス村は煌々と畝りながら燃え上がり、灼熱にその身を沈めている。産声を上げた獣のように、周囲の酸素を呑み込みながら、猛狂う火の渦が夜空へ向かってその手を伸ばす。炎の熱と一酸化炭素が前進を阻む。それでも歩みを止める訳にはいかない。

　皆は無事なのか？

「ユリア！」

　全身を熱が刺す。

　息をする度に炎を呑む。

　針を飲み込むが如く激痛が、喉から気管へ走り抜ける。

「父さん！　母さん！　ユリア！」

　赤。

　赤。

　赤。

　白百合の装飾は無残に破壊され、村人の死体がそこら中の血の海に累々と横たわり、火に触れれば悪臭を解き放つ。

　……略奪だ。

　恐れのあまり、思わず恵みの羽を手から落とす。その羽は地面に触れた途端一瞬瞬き、その青磁色の輝きを失った。

　血塗れの通りを北へ。あの角を曲がればいつもの我が家だ。

「ユリア！」

　家が、愛する我が家が、燃えている。

　返事は無い。

　皆どこへ。

　……まだ中にいるのか？

　生唾を飲み込み、決死の覚悟で家に飛び込む。

「ユリア！」

　家中の家具や壁が崩れている。そしてその瓦礫の前には、貝殻のネックレスを握った小さな右（・）手（・）だ（・）け（・）が転がっている。

　……ユリア？

　ユリアなのか？

　そこに、……い（・）る（・）のか？

「見る……な！」

　左から、かつてリビングであった方向から掠れた声がする。父だ。

「父さん！」

　急いで駆け寄る。そこには父が俯せで横たわっていた。

　……そして近づいて気付く。父のその下半身は、……どこにも無い。

「こ……れを」

　父はすぐ横に放ってある、清めの不十分な宝剣を指差す。

「封印が……まだだ」

　そんな儀式をやっている場合ではない。

「ユリアは！？　母さんは！？」

　先に二人を助けなければ。

「もう……」

　父は血を吐く。

　もう……限界だ。

　そして俺はその先に紡がれたであろう言葉を察する。

「そんな……嘘だ！」

　目から溢れんばかりの涙が零れる。

　もう……このまま皆の元へ。一緒に。一人ではどうせ、生きて行けない。

「無事……な。レイ……フ。良か……」

　灼熱が身を焦がす。

　このまま死を望む俺の手首を父は握る。

「聞いて……れ、レイ……。赫炎が再臨……時、この……を再び救う……二人目の勇者が……。その方へ……宝剣を紡……、……れがロセイ……真の使命」

「な、何を言って――」

　それが、……伝承の続きなのか？

「……レイフ、お前に……託す」

　父は最後の気力を振り絞り、たった九歳の少年へ過酷な運命を繋ぐ。

「東の森へ……。行……き先は……剣が」

「嫌だ！　俺も一緒に！」

　しかし、父は精一杯にいつもの笑顔を見せる。

「生きろ……生きてくれ。……愛して……」

　父の瞳から光が消える。そうして父は、絶命した。

「……父さん。父さん！」

　その時、梁を支えていた大黒柱が倒壊した。この家も、もう持たない。

　時間が無い。

「生きる。……生きるよ、父さん」

　銀の宝剣を握り、家を飛び出す。

　その瞬間に大切な思い出が沢山詰まった我が家の残骸は、燃え上がりながら崩れ落ちた。

「……父さん。母さん。ユリア」

　崩れ落ち、吐き出すのは絶叫。

　悲愴が濁流のように流れ出す。

　皆、死んでしまった。

　もう二度とあの笑顔達には会うことができない。

　ただただ、ただただ、やり場の無い苦しみだけが心臓を突き刺す。

　しかしどれだけ泣き続けても現実は変わらない。

　そして、徐々に火の手が俺の周りを囲んでいく。

「……行かないと」

　もう時間が無い。

　父の最後の願い。

　……俺は生きなければ。

　哀しみを抱えたままゆっくりと、激痛に耐えながら立ち上がる。意識は朦朧とし喉は締まる。

　もう夜も深い。暦の変わる前に宝剣を戻さなければ。時間が無い。父の遺言の通り、東の森へ向かうため踵を返す。

「……何だ？」

　目の前には黒衣を羽織った人間が一人。おそらく男。顔も黒衣に包まれ見えないが、この村の人間ではない。

　……もしかしてこいつが？

　こいつが村を、俺の家族を。

　男はこちらをただ眺めている。俺のことも殺そうとしているのだろうか。

　宝剣を血塗れの右手で握りしめる。それでも、その剣身の鋭さは失われない。

　刺し違えてでもこいつを殺す。

　殺してやる。

　無言のまま宝剣を振りかざし男へ走る。それでも男は動かない。

　……死ね。

　本能のままに斬りかかる。

　だが、俺の拙い技術では、その袈裟斬りは半身になって躱された。しかしその剣身は躱されたものの、剣身が纏う切っ先の、俺の激高に呼応するかの如く刹那に瞬く白き鈍い光が男を切り裂く。

　何かを斬った感触。黒衣は裂け、その切れ目から何かが落ち、そしてそれは弾んで開く。

　新月の夜、炎の赤橙を反射するそれは騎士団、しかも最上の騎士を示す聖騎士の紋章。

　開かれた中には女性の肖像画と祝福の刻印。

　『禮命』

　こいつ、聖騎士だ。

　そして男は肖像画とその聖騎士紋章を大事そうに拾い上げ、その場を去って行く。

「逃げるな！」

　追いかけようとする。走り出そうとした瞬間、身体中の激痛が蘇る。

　もう、走れない。

「クソッ！　逃げるなよ！」

　悔しい。

　悔しい。

　悔しい。

　目の前に、皆を殺した屑がいるのに。身体が動かない。

　聖騎士の背中は、そしてゆっくりと炎の中へ消えて行った。全身の血が薄くなると共に、頭に上った血も降りて来る。

　……今の俺では聖騎士には勝てない。奴はいつか、必ず殺す。

　だが、今は叶わない。

　しかし、ならば何時なら叶うのだろうか。俺は凡人だ。祝福者ではない。人類のほんの一握りだけが上り詰める祝福された聖騎士に、果たして敵う日が来るのだろうか。血溜まりに映るその表情は、諦観の色へ沈みそうになる。

　それでも、この大切な家族を忘れたくはない。この無念は晴らしたい。

　禮命の聖騎士。

　それを追えばきっと辿り着く。

　諦めたって前には進めない。

　今、俺に出来ること。それは父が命を賭して残した意思を紡ぐこと。

　時間が無い。

　東の森へ。

　そして、おそらくそこには、赫焉の魔女の社がある。

「行ってきます」

　燃え盛る我が家に呟く。

　それでも、それでも、いつもの笑顔と返事が、返ってくることは無かった。