第18話
ロンド王国クロワ侯爵領キャメリア。幸せそのもののような夫婦円満、子沢山の家庭を築いていた人格者のクロワ侯爵はじめ、侯爵一家六人が全員惨殺されたのは、アルトゥステア歴七百十八年三月十五日のことだった。
何人かの使用人も喉を切り裂かれて殺されたが、侯爵一家、とくに侯爵本人の遺体は損傷が激しく、恨みを持つ人物の犯行であろうと囁かれた。また、侯爵邸は数年前に火事に遭い新築されたばかりだったが、またもや放火され全焼。使用人たちは焼け出された。
別宅にて過去の怪我の療養をしていた侯爵の長女と、召使い一名が行方不明。別宅も同じく放火され焼け落ちた。
奇しくも三月十五日は王立学院の卒業式、式典とパーティーに参加していた侯爵夫人の連れ子の長男だけが生き残った。
「これで家名は遺されたよ。姉上はそういうの気にするだろう?」
目覚めたリュシヴィエールはそう告げるエクトルの頬を張った。一面を飾る殺人事件の記事もおどろおどろしい、新聞が絨毯の上に散乱する。部屋の隅でアンナがぴゃっと首をすくめた。見出しが躍る、下手人は不明。下手人は不明。
――ケーデコア王国首都ウィルガ。第九区、東ミンラール町三十七番地。それが新しい住所だった。
エクトルはここで偽名を使い、一平民の技師として大企業グルガ・リィンの兵器工場に潜入する。リュシヴィエールの役どころはその妻だ。アンナはメイド。
コンコン、とノックの音がして、平凡だが四部屋もあって十分広いアパートの一室へティレルがひょっこりと顔を出した。彼の役どころはエクトルの父親だ。アンナがぺこりとお辞儀をするのに片手を上げ、彼はリュシヴィエールに笑いかけた。
「起きたか。よく寝てたなあ」
あの頃とまったく変わらない平々凡々の、特徴がないことが特徴のような笑顔。作り物の。美貌を除けばエクトルがよく浮かべるそれにあまりにそっくりな。
「……寝かされていたのよ。わたくしが寝たかったのじゃ、ない」
リュシヴィエールはソファベッドの上で膝を抱えた。アンナがその背中にてきぱきとエクトルの上着をかけ、赤毛の先っぽを翻えして忙しく立ち働く。彼女は初めて会った頃よりずいぶん成長した。
ティレルはハハハと笑うと、まだ頬を撫でているエクトルにいくつかの資料を手渡した。暗号入りの本と手紙。
――彼らはこれからここで、ロンド王国のために密偵として働くのだ。王太子の子飼い、もっとも信頼される密偵のうちの一人として。
新しい国、新しい町。みるみるうちに馴染んでいく他の面々と違って、リュシヴィエールはふさぎ込んでいた。エクトルに初めて何かを無理強いされたことが、いいや、リュシヴィエールの意思とは関係なしにことを進められたことが、ショックだったのだ。
他の人たちは、そういうことをする。けれどエクトルはしない。
――それが彼女の根底に根付いた価値観だったから。
結局のところリュシヴィエールはどこかで、エクトルを赤ん坊のように思っていたのだと思う。本当に嫌がればやめてくれると信じていたし、意識を奪って外国に連れてこられるだなんて考えたこともなかった。
ずるずるとケーデコア語の教本に目を通し、文法の例文を眺め出すまでひと月がかかった。日々の買い出しなどでカタコトに値段交渉するアンナの方が上達が早く、日中は女二人で家にいることも多いから、教えてもらったりする。
ティレルは『仕事を探している中年の移民男性』の役割にあっという間に馴染んで、街をぶらぶらしたり商店に声をかけたり、怪しまれない情報収集に精を出す。
何もしていないのはリュシヴィエールだけだった。しぶしぶ、彼女は立ち上がることにした。まずはアンナを手伝って家事をして、それから図書館だの公園だのを歩いてみたり。近所の婦人たちと挨拶や簡単な雑談のたびに、言葉づかいが貴族が見る高尚な演劇のようだと笑われる。出自を隠すのに言葉の壁が役立ってくれるといいのだが。
「今日、リシャールさんは?」
と隣室の主婦に優しく声をかけられて、
「今日、残業、です」
くらいは返せるようになった。
アルトゥステア歴七百十八年八月。春は過去に過ぎ、夏も盛り。ロンド王国とケーデコア王国は暦も同じだし、言語も近い。そのうちこの暮らしにも馴染めるだろうと思われた。
――リシャール・アクアッシュ。それがエクトルの新しい名前だった。
エクトルはこれからたくさんの新しい名前を得、それらを使い分けて生きる。リュシヴィエールもそうなるのだろうか? 彼はすでに腹を括ってしまった。密偵として生きて死ぬのだと。王太子へ忠誠を捧げるのだと。
名前を捨てる。家の名を、生まれ持った身分とそれに伴う権利と義務を、すべて捨てる、縁を切る、なかったことにしたと思い込んで生きていく……。リュシヴィエールには、まだ難しい。貴族令嬢として生まれ、いずれ貴婦人になるべく育てられた人間には。
クロワ侯爵家の名前が顔も知らぬ父の後妻の、そのまた父と血の繋がらぬ連れ子に引き継がれるということさえ、いまだ呑み込めていないのに。
一度、ティレルにぽつりとそれを漏らしたことがある。
「俺が忠誠を誓うのはクロワ侯爵に対してでした。彼はもういません。血筋も家名も俺には関係ない」
とティレルは明朗に笑った。
「なら俺は、俺が一番気に入っている坊主を見守ってやろうと思ったんですよ」
横で聞いていたアンナの言い分はいくらか直情的である。
「坊ちゃんが――ああ、ごめんなさい。旦那様がお姫様を抱いて屋敷を去ろうとなさったとき、荷物まとめて追いすがったんです。置いてかないでって。ぜったいお姫様のお役に立ちますって。あたしを一人前の人間として扱ってくれたのは、おじいちゃんとお姫様だけでした。ティレルさんの言う侯爵様は、あたしにとってのお姫様です。ぜったいお傍を離れません。たとえ旦那様のご命令だって、ええ、聞くもんですか!」
ぐっと拳を握る、純粋な顔が頼もしい。
それぞれが己の信条に従って、人生を決めていた。それが人間だった。
心が追いつかない、は言い訳である。言い訳というものは思いついた端から数が増える。家が、父母が、生まれが、エクトルの存在が、前世が、火傷が。けれど。
リュシヴィエールはもう流れるがままに生きていくのはいやだった。辺境の【暁の森】のかたわらで老いていくことしかできないと諦めていた。けれど、本当はずっと、エクトルの傍にいたかった。
ある日の夜、それはアルトゥステア歴七百十八年八月十九日。ケーデコア王国でこの日は祝日だった。
アパートの前は大通りで、反対側のバルコニーは裏通りに面していた。このあたりのアパートは道のはるか遠くまで棟が続いていることも多い。それは【暁の森】の傍のあの家の、延々と部屋が続くつくりにどこか似ていた。
隣室はパーティーでも開いているのかどんちゃん騒ぎで忙しく、一本向こうの路地からは早くも酔客のダミ声の歌が聞こえてくる。アンナは男の子に誘われてデートに行き、ティレルは酒場に繰り出していた。
バルコニーの簡素なベンチに座って、エクトルは酒のグラスを傾けている。リュシヴィエールが肴と自分用のグラスを持ってそちらへ歩を向けると、頑丈な背中がびくっと緊張するのが分かった。リュシヴィエールはこれまでの数か月、彼と事務的な会話しか交わしていなかった。
大きな身体で飛び上がりかけるのがなんだかおかしくて、わざと、
「リシャール」
と呼び掛けた。
エクトルは思ったより情けない顔で振り返る。
「それで呼ぶの?」
リュシヴィエールは久しぶりにころころと笑った。
「わたくしも……私も名前を変えようかしら。リュシヴィエール、は平民の名前として大仰だわ」
「……変える必要なんかない。リュシヴィエールはあんたに似合っている。あんたの名前はそれしか考えられない」
エクトルは酒瓶の中身をリュシヴィエールのグラスに注ぐ。軽い乾杯はしたものの、口を付ける気になれずそのまま両手でグラスを温めた。
「それじゃあ、リュシー。そうね、それにしましょう」
「ああ、いいな。縮めて。リュシヴィエールはリュシヴィエールで残しておけばいい」
彼女が頷くと、エクトルは――ぽろりと口からこぼれるように、それを口にした。
「クロワ侯爵邸に火をかけた魔法使いは、父上が差し向けたものだ」
これ以上自分の中だけで抱えていることができなかった、という独白に、リュシヴィエールには思われた。
「あの人はそこまで愚かだった。俺たちの両親は……どっちも貴族として、人間として考えられないくらい、バカでクズだった……!」
エクトルの頭を抱き寄せて、リュシヴィエールはいっそ赤ん坊に戻れと念じた。縮んでくれさえすれば、永遠に腕の中で守ってあげる。
「次を見つけたから、古い子供はいらなくなったんだ……」
「ええ」
「普通は思いついてもやらない、そうだろう? 俺はともかく、あんたは間違いなく血を分けた子供だった。それなのに」
「憐れみ合うのは、もうやめましょう」
リュシヴィエールの青い目と、エクトルの青く銀のふちの浮かんだ目が視線をぶつけあう。
「これまで何も自分で掴めてこなかったから。これからは掴めるようにならなくちゃ。きっとそれができなかったから、二人ともあんなんだったのよ。……ね?」
それでも殺す必要はなかった、と思う。リュシヴィエールにとって、愚かに生まれたことは罪ではない。
「死がすべて洗い流したわ。もう振り回される必要はないの」
「どうしたら、あんたみたいになれるかな。俺はいつまでも、力があっても、あるからこそ、そこには行けない気がするよ」
エクトルは目を細め、甘いため息をつく。こつんと額をリュシヴィエールの額にぶつけて、間近にばちばちと、星でも発していそうな青い目が潤む。
「キスしていい?」
「だめ」
「ケチ。これでも?」
エクトルは懐から小さな指輪を取り出した。銀でできた貴婦人用の指輪だった――ロンド王国王家の印のついた、おそらくは国王の妾が渡される立場の証明印。
リュシヴィエールはすんでのところで叫ぶところだった。彼女の心はいまだに貴族のままである。
「そんな危ないもの、しまっておいて」
「血の繋がりがない証明だろ。俺とあんたの」
「どこで手に入れたの?」
「王立学院で殿下にいただいた。世が世ならきみは弟なんだよ、とおっしゃって」
エクトルは照れたようにはにかんだ。
「嬉しかったなあ……!」
リュシヴィエールには判別がつかない。母は私生児を産んだのか? それとも?
エクトルが本当に王の子であるなら、これからの人生はよりややこしい、苦難に満ちたものになるだろう。
王太子殿下を疑うわけではないが、憚りながら格下の者を自分に心酔させるすべを心得ているのが貴族であり、王族はその最たるものである。リュシヴィエールはエクトルに辛い思いをしてほしくないが、彼はもはや彼女が制御できる年齢でもない。
――そして何より。エクトルが知らないところで死んでいるかもしれない、という恐怖に、次は耐えられそうにない。
リュシヴィエールはぐーっとグラスを飲み干した。おい、とエクトルの慌てる声がする。彼は素早く指輪をしまった。
「姉う……姉さん。リュシー。酒には慣れてないだろ」
「飲みたい気分なの。放っておいて」
空には満天の星。上機嫌な町の声。隣にエクトルがいる。徐々に酔いが回ってきた。
とりとめのない話が生まれ、結論も出ないまま流れていく。
炎はここまで届かない。下町には魔法灯もなければお仕着せの使用人もおらず、行き詰った人生はすでに脱ぎ捨てた衣服のように足もとにわだかまるばかり。
大切なものもそうではないものも、故郷に置いてきた。
空を仰ぐリュシヴィエールの目の前で、流れ星がひとつ、落ちた。わああっと人々が歓声をあげた。
「願い事は、エクトル?」
「願い事?」
「流れ星には願掛けをするものなのよ」
「へえ。じゃあ――」
「じゃあ?」
「俺は永遠にあんたと一緒にいる、と誓おう。星じゃなく俺自身に。そのためにならどんな犠牲も厭わない」
「困った子」
リュシヴィエールは笑い、エクトルも声を合わせて笑った。二人の手が絡み合ってぴったり繋がれる。隣室の騒ぎは最高潮に達したようで、陽気な音楽まで流れ出してくる。
「愛してるわ、エル」
「俺も愛してる、リュシー」
笑い合って指を絡め合った。この距離が精一杯だ。今はまだ……。
温かい風が吹いた。ロンド王国では感じたことがないほど穏やかで、海の匂いを含んだ風だった。彼の銀のまっすぐな髪が、彼女の金の渦巻く髪が、宵闇にきらきらと舞い上がり、絡み合う。
終わりはまだ遠く、人生は続く。
互いが互いを求める限り、きっと二人は永遠に一緒にいられるだろう。
【完】
虐げられモブ令嬢ですが、義弟は死なせません! 重田いの @omitani
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