第16話


アンナが新しいお茶を運んできた。


「ありがとう。下がっていいわ。買い出しに行ってきて頂戴」


「はい、お姫様」


と追い払い、そもそもこのあたりに店はなく買い出しも何もない。アンナは正しくリュシヴィエールの言うことを理解して、裏庭なりで待機していてくれるだろう。ここからの話はさすがに誰にも聞かれたくないことだった。


ピンクの少女にはもはや猫をかぶる気もないようで、組んだ足の上で頬杖をつく行儀の悪い姿勢だ。そのまま、ずずずと音を立てて出されたお茶を飲む。


(毒が入っているとは思わないものかしら)


とリュシヴィエールは思ってしまう。根っからの貴族なのだった。


「あんたさあ、火事にあったんだって? ヤバ。ばちが当たっててウケる」


少女はにやにやした。サンドラの幼いがゆえに純度の高い悪意、悪意を向ける相手がいると言うことがなにより嬉しいと全身で表現するような生き生きとした笑顔を、リュシヴィエールは思い出した。


「神様って見てるんだねえ! プ。リュシヴィエールとかさあ、モブキャラじゃん。調子乗ったんでしょ? モブのくせに! エクトルの姉だからってさあ、立場利用して努力もせずにお貴族様ですってか。キッモー! ないわー!」


「どうしてエクトルにしたの? 王太子様も天才魔法使いも、堕天した天使だっていたでしょう、攻略キャラはよりどりみどりだったはずよ」


「そのさ、貴族の喋り方やめろや。テメエ舐めてんのか!?」


「ひょっとして――うまくフラグ調整できなかったの? まあ、めんどくさいものねえ、『ヒトキミ』」


ピンクの少女は苦虫を嚙み潰したような顔をして黙った。乱暴にカップをソーサーに戻し、派手な音を響かせると、


「傷跡は治してあげる。エクトルをオトすのにおめーを治してやらなきゃいけないみたいだから。あーあ、女なんか触りたくないんだけどなーっ。ビッチがうつりそうでキモいからっ!」


「エクトルがそう言ったの? わたくしを治療しなければあなたを愛することはないと?」


「は? もう愛されてるんだけどぉ!? テメエやっぱあたしのことナメてんだろぉがあ!? あァ!?」


少女は立ち上がってリュシヴィエールを威嚇した。


リュシヴィエールは融けてなくなったあとの唇に手を当て考え込む。頬の傷口からお茶の残りが垂れないよう首を傾けながら。


「妙ね。そんな選択肢はなかったはず。王立学院に行ったらキャラクターそのものの行動をするとばかり思っていたけれど……そういうわけでもないのかしら。ともあれ、あなたとエクトルの間柄に手出しをするつもりはないわ。どうぞ弟をよろしくお願いいたします」


リュシヴィエールはにっこりした。少女はおえっと吐くふりをした。


「笑うともっとキモいねー。やばすぎ。あたしに治してもらえるの感謝しなさいよね」


「ええ、どうもありがとう」


「あたしがエクトル攻略したの、悔しいかもしんないけど諦めな! もうあの子はあたしのものなんだからさあ!」


きゃははは。と高い笑い声をあげるなり、少女は身を翻した。


「じゃ、エルを迎えにいってあーげよっと。キスしちゃおっかなあー。お邪魔しましたあー」


そうして玄関扉を閉めることもせずぴゅうっと姿を消してしまったので、リュシヴィエールは言いたいと思っていたことを胸に秘めておくことにした。


「……かわいそうに」


と本音はぽろり、口からこぼれ出て、ソファの背もたれにもたれかかり天井を見上げる。


「かわいそうなエクトル、わたくしはほんとに、この傷をなんとも思っていないのに」


両手で顔を覆ってリュシヴィエールはしばらく、動けなかった。胸が熱く、心臓はとことこ音を立てて暴れ、久しぶりに足のつま先まで血が通った感じがした。


エクトルとピンクの少女はそのまま屋敷に滞在し、少女はどうしても彼と同じ部屋で寝るのだと言い張った。リュシヴィエールは呆れを表に出さず、アンナに一番奥の窓のない部屋の寝台を整えるように言いつけた。


もちろんエクトルはそこで何が起きたかを知っている。リュシヴィエールとしては、ささやかな意趣返しだった。


翌朝になってなんと小型ドラゴンの高速便がやってきた。そのドラゴンの首輪には王家の印があった。ピンクの少女が王都から最速で大きな包みをいくつも取り寄せたのだ。


「あたしが頼めば王太子様はなーんでもやってくれるのよ」


と少女は胸を張ったが、リュシヴィエールは彼女がストーリー攻略の中で起こるイベントで得た権利を行使したのだとわかった。突発的な病に倒れた王太子の命を救うイベントで、お礼としてミミイ・フローチェは一度だけどんな願いも王家に聞いてもらえる権利を得る。貴重な権利をこんなところで使うとは、と驚き呆れる他ない。


エクトルは再び作りこんだ微笑でもってピンクの少女を褒めたたえ、愛してる、愛してると言葉をかえて何十回も囁いた。んふふふ、と少女は愛らしく笑い、エクトルの肩ごしにリュシヴィエールにふふんと勝ち誇ってみせる。そして少女が目を離した隙に今度はリュシヴィエールとエクトルが目を合わせているのだから、まるで夫婦と浮気女みたいだった。


滑稽だった、すべてが。すべてが――上滑りしていた。


思えば原作のリュシヴィエールは偉かった。本気でエクトルを憎み、彼の不俱戴天の敵として命を狙い立ちはだかったのだから。今のリュシヴィエールときたら。前世の記憶が蘇って以来、彼女はずっと臆病で中途半端だ。


エクトルを本気で愛するのなら、屋敷に入れてやればよかった。自分のちっぽけなプライドなんて放り投げて、守ろうとするところを見せてやればよかったのだ。たとえその結果……エクトルがリュシヴィエールの目の前で人を殺してしまっても。きっと受け入れ難かったろうけれど、父の意思で離れ離れにされるより、そっちの方がよかっただろう。


ドラゴンとその乗り手が届けた包みの中には、サクラと名付けられた花の花びらが大量に詰まっていた。


若い二人はそれらをどこかへ運んでいき、すぐにリュシヴィエールを裏庭に連れ出した。


そこは屋敷の敷地の中だったが、あたりを囲う鉄の柵はずいぶん前に錆びて朽ち倒れ、ほとんど外と区別できなかった。名前もわからない一本の木が生えている他、何もない。木は決して花を付けない。誰も手入れなどせず放っておかれても、一年中旺盛に葉を茂らせている。


ピンクの少女が得意げに大量のサクラの花びらをばらまき、その上に立った。魔法を使う者の能力を最大限に引き出す触媒だ。胸に手を当て、気取った新人女優のように元気いっぱいに、


「さあ、この上に立って! あたしが治してあげる!」


リュシヴィエールはエクトルを見た。彼は頷いた。リュシヴィエールは頷き返してピンク色の花びらの上にのぼった。


ピンクの少女、【癒しの歌の聖女】ミミイ・フローチェは歌い始めた。歌自体は子供でも知っている民謡で、音程はたどたどしく声は震えっぱなし、腐ってもいい歌とはいえない。けれどその魔力は本物だった。


ざわり、とサクラの花びらが動き、舞い上がった。花びら一枚一枚を中心にして、聖女の魔力が空気に拡散する。リュシヴィエールの身体に花びらが群がり、ものの数分にもみたないその瞬間――聖女の力が温かくリュシヴィエールを包み込んだ。身体じゅうの火傷あとに、開いた穴に、虫食いのような凹凸に聖なる力が染みこんでいく。


温かいお湯に浸かっているようだった――前世で経験した温泉に似ている。そういえば、今世では温泉になんてぜんぜん入れていない。温泉が沸くのはロンド王国の外、もっと外国の、火山帯の特産だ……。


この上なく尊き【癒しの歌の聖女】の力はリュシヴィエールのすべての古傷を癒し、肌の凹凸、思い出したように破れては止まらない膿を出す太腿の大きな傷も、雨のたびに痛む骨、それらすべてがかつてのような状態に戻っていった。焼け焦げてハゲた頭には渦巻く金の髪の毛が生え揃い、ふさふさと顔の周りを覆う。動かなくなっていた足の指、生涯欠けたままだったはずの爪すら元通り。


サクラの風が収まったとき、あのときのリュシヴィエールが魔法陣の真ん中に立っていた。


人払いを命じてあったものの、きっとアンナは柱の影あたりから見ているだろう。他の使用人たちがいない新年祭の期間でよかった。


――奇跡は成ったのだ。


代償のサクラの花びらはみるみるうちに茶色く干からびて、ぱさぱさと風に吹かれて飛んでいく。


リュシヴィエールの目の前にエクトルが立った。


「何度も見てきたが、これは、この力は本当に……」


囁き声は震えている。リュシヴィエールはぎくしゃくと手を伸ばし、弟である青年の身体を抱き締めた。記憶にあるのよりかなり大きく、分厚い、固い身体はしっかりと彼女を抱き留め、同じだけの力で抱き締め返す。


サクラの花びらは飛ばされていく。下草がざわめき、【暁の森】が囁き交わす。精霊の声、あるいは魔物の声。


温かい気持ちには程遠かった。永遠、じみたものがそこにある気がした。エクトルがここにいる。リュシヴィエールのすぐそばに。


もう前世だとか今世だとか、【癒しの歌の聖女】がどうの、専属護衛騎士になったら二度と家には帰れない……どうでもよかった。エクトルがここにいることを選び、ここに来た。それだけで。


ピンク色の少女、ミミイ・フローチェはいらいらと足元の土くれを蹴っ飛ばす。褒めてもらえると思っていたのに、エクトルはちっとも称賛の声をよこさないのだ。許せない。


そしてそれ以上に――治療してやったリュシヴィエールが思った以上に美人で、はっと目を見張るほどだったことが悔しく、もっともっと許せない。


貴族の美貌は本人の努力ではなく血筋のおかげだ。たまたまだ。金持ちの男が綺麗な女と結婚するから、貴族は美人の家系になる。たまたまそこに生まれたから美人になった。お金があるから綺麗な服を着て化粧もできる。だから美人な貴族の貴婦人は、ずっとずっと美人だ。ミミイは必死に努力して、苦労して、いじめてくるバカな同級生や上級生や下級生を蹴散らして、やっとヒロインになったのに。こんな理不尽! 許していいはずがない。


少女は声を上げる。全部の間違いを彼女は正さなくてはならなかった。彼女こそが【癒しの歌の聖女】、この世界のヒロインなのだから。


「ちょっと!! あたしは――」


「ああ、うん。どうもありがとう。姉上に代わって心から感謝する」


と静かな、低く聞き取りやすい乾いたエクトルの声が間近にした。えっと少女は目を見開いて上を見上げた。ぽかんとして。


晴天のように綺麗な青いエクトルの目に、銀色のふちがきらきらと浮かんでいる。ピンク色の少女はそれが好きで好きで、もっと見たかった。でも一番好きだったのは王太子キャラの目で……なんで選択肢間違えなかったのに攻略できなかったの。あいつの周りに婚約者だっていう公爵令嬢がチョロチョロしてて。ジャマすぎた。ひょっとして公爵令嬢、あいつも転生者だったんだろうか?


「許、せない……」


とピンクの少女は呟いた。身体はずるずると崩れ落ち、自分で蒔いたサクラの花びらの残骸の上にどさっと倒れた。


そういえば天才魔法使いもメイドにヘラヘラしてたし、ショタキャラもこっちに見向きもしなかった。おかしい、おかしいよ。ここはあたしのための世界のはずなのに。


なんでキャラクターのくせにみんな、人間みたいな動きしてんの? きもっ。きもっ。


「待って」


と声がかかった。誰? 少女は出元を探す。こんな凛々しい声を出せるのは、マジの大御所声優しかいないはずだ。……新キャラ? あたしを助けにきたの?


リュシヴィエールはするするとスカートをかき分けてエクトルの背中に近づいた。杖なしで歩くのは、それができるのは不思議な気がした。それほどあの状態に慣れていた。


頬の傷から息が抜けることはもうない。手足は、指は自由自在に動く。背中に流れる金の巻き毛の感触。涙が勝手に流れることのない、垂れ下がって視界をふさぐ瞼のないこの目。


「――待って、エクトル。わたくしにやらせて」


「姉上?」


エクトルは不思議そうにリュシヴィエールを振り向いた。手に持った骨のナイフはよく研がれ、使い込まれて飴色に光り、そこは今新たに流された少女の血に濡れていた。


心臓付近、胸の真ん中を突かれてなお、少女には息がある。エクトルがしくじったとは思えない。原作の設定が、という話ではなくて、この冷静な男がそうするとは思えない。


「なぜ苦しみなく終わらせてやらなかったのです。かわいそうに」


エクトルは嬉しそうに微笑した。彼はリュシヴィエールの言動に、明らかに喜んでいた。


「姉上を侮辱したからね。俺はそういう奴のこと許さないと決めているんだ」


「ナイフをお貸し」


リュシヴィエールは厳しい表情で手を差し出す。エクトルは素直に大振りのナイフを渡してやったが、


「血脂で滑るよ、気を付けて」


と彼女の後ろに回って手に手を添え、持ち方を教えるのは怠らなかった。骨でできた得物は使いづらい。金属の反応を魔法探知されづらいという利点はあれど。


リュシヴィエールは息を吸って、吐く。これだけの動作がこれほど支障なく行えたのは、いったい何年振りのことだろう?


リュシヴィエールは跪き、哀れな少女を見下ろした。少女はピンクの髪を振り乱し、ピンクの目を見開き、ピンクのドレスをぐしゃぐしゃにして地面に横たわっている。ぜいぜい、ひゅうひゅうと喉の音が大きく、恐怖に染まった顔は年相応に幼い。


愚かさは罪ではない。人はみんな愚かだ。


リュシヴィエールは前世、自殺した。もうやってられなくて。人生が、状況が、望んでいたものとはあまりに違いすぎて。


愚かだった。けれど火傷やこの現状を、その罰だったとは思わない。またこうして癒してもらえてことも、奇跡だったし感謝しているけれど、エクトルの人生を利用していたことと引き換えだとは思わない。


「た、す……け……」


「すぐに楽になるわ。弟が本当にごめんなさい……わたくしも、同罪よ。ごめんなさい」


リュシヴィエールは少女の肩を掴み、仰向けに姿勢を変えた。それだけで息切れがした。ナイフを両手で構え、大ぶりな切っ先を彼女の喉に突きつける。


体重をかけて、一気に下へ押し込んだ。がっつ、と硬い手応え、骨の切っ先が少女の首の骨に突き刺さる。だが残りの刃もまた、頸動脈を切断するに至った。


「がっふ! げぼぉ。ごぼぼぼぼっ!」


もはや意思は関係ない声が、身体が勝手に声帯を震わせた結果の音が、した。ピンクの少女は断末魔を叫び続け、手足はばたばたと不格好に踊り続ける。リュシヴィエールはその勢いに恐れおののき固まった。


「危ない!」


とエクトルが腕をひいて立ち上がらせなければ、なぎ倒されていただろう。


リュシヴィエールはしばらく息を荒げて己の血で溺れる少女を眺めたが、やがてあれほど激しかった踊りも徐々に落ち着き、呼吸は終わり、命は終わった。リュシヴィエールは再び少女の頭の上にかがみ込んだ。


「もっと素晴らしい環境で、自分の力を試せるところで十分評価されて、生きていくつもりだったのよね。わかるわ。でもそれを得ることができなかった。実力はあったのに、発揮できなかった――それはあなたのせいじゃないわ。あなたのせいじゃない。でも、そういう場所にいる人たちがずるをしたわけでもない。あなたを踏み台にしたわけでもないのよ」


ゆっくりした風が身を切るような冷たさで二人の頭を撫でていった。エクトルは息を呑んでリュシヴィエールのその金の髪を眺める。


「さようなら。治してくれてありがとう……」


リュシヴィエールは少女の手を胸の上で組み合わせ、短いが正当な祈りを捧げて死を悼んだ。


それで終わりだった。悲しみはあったしむやみに死なせてしまったという後悔もあったが、数々の侮辱への怒りもあり汚い言葉への軽蔑もあり――エクトルに触られた目がくらむほどの恨みが、あった。それらは共立していた。


「エクトル、彼女をきちんと弔って」


「……あんたを罵った女だ」


「それでもよ。そのあと、話を聞かせて」


「わかったよ、姉上」


リュシヴィエールは右手をエクトルへ差し出す。仕草は身内同士の気心知れた触れ合いの一部のようであり、求婚者へ了承を示す貴婦人のようでもあった。


エクトルはリュシヴィエールを連れて屋敷へ戻り、そのあとただちに少女の身体を言われた通りにしてやった。【暁の森】に葬られたなんて少女の親が知ったら嘆くだろうが、この件は事故として処理するとすでに決まっている。


悲劇のヒロインらしい最期を迎えられてよかったじゃないか、と彼は思った。


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