第15話


少女の名前はミミイ・フローチェ。男爵令嬢だが母親はメイドで、正妻が死んだので父である男爵が屋敷に引き取った。魔法の才能を見出され王立学院に通うことになり、数々の貴公子と恋愛を経て最終的に一人を選び、【癒しの歌の聖女】となる――。


原作で見た展開通りに彼女の物語は進んでいた、らしい。『ヒトキミ』のラストは全ルートで王立学院の卒業式だ。


今はアルトゥステア歴七百十八年、一月五日。卒業式の日取りは忘れもしない、――三月十五日。


エクトルがヒロインと幸せになること。リュシヴィエールはそれを望んでいたはずだった、きっと『ヒトキミ』の通りのラストを迎えれば、エクトルの心は癒され救われると信じていた。【癒しの歌の聖女】のたった一人の騎士になる人生だって、きっといいものに決まってるわ。あの壮麗な白い鎧はさぞかしエクトルに似合うことでしょう。


けれど――どうしたことだろう。向かいのソファに腰かけて、きゃらきゃら笑う天真爛漫で純粋無垢な少女。彼女のピンク色が、笑顔が、声が、足をぱたぱたさせるその音さえ、リュシヴィエールは憎たらしくてたまらないのだった。


それは彼女の横、未婚の男女にしては近すぎる距離に近づいて慈しむような顔をするエクトルの存在も、関係しているのだった。


(どうしてエクトルは――ああ、こうなることはわかっていたはずだったのに。織り込み済みの未来じゃない。これでエクトルは暗殺者の責務から騎士となって解放されるし、そのとき負った心の傷も彼女に癒してもらえるのよ)


納得いかない、と心が叫ぶ。


リュシヴィエールは何もできなかった。エクトルの苦しみ、悲しみ、母親に拒絶され他人に育てられ、実の父親に政略の手駒にされ、人殺しとなった。それらすべての負に対して、半分とはいえ血の繋がった姉なのになんの支えにもなれなかった。自分のことで精一杯すぎて。火傷の痛みや容貌の喪失の痛みに向き合うばかり、むしろエクトルの手を借りて自分の宥めるばかりだった。


それなのに、目の前のチャラけた小娘こそが彼に愛されるのだという。愛されてしかるべきはずっと一緒にいたリュシヴィエールではないのか――とさえ考えてしまう。


(ああ)


リュシヴィエールは茶菓子を摘まんだ。アンナが丹精込めて習得したレシピ、新年の占いクッキーだ。硬く焼き上がった生地の中に金のイヤリングが入っていれば、その年一年は幸運に恵まれる。


(わたくしの望んでいたのはこういうことだったのね)


リュシヴィエールはクッキーを噛み砕く。中には何もなかった。


ミミイは目の前の火傷あとだらけの女が何をどう思ったかは興味がないようで、エクトルにしなだれかかり、楽しそうに空中に魔法陣を描いている。


彼女は不気味だった。今となっては綺麗さっぱり存在ごと消えてしまったかのような母と異父妹に似ていた。ふわふわぽやぽやして、何も考えていないように見えるが何より自分の利益に敏感なのである。そして何かを足蹴にしていなければ生きていけないところが、ある。きっとそうだ。だって。今もエクトルの胸板に手を這わせながらちらりとリュシヴィエールを見、頭巾や肩掛けに隠された身体の線を見、勝ち誇った流し目をした。


「えっとぉ、それじゃあぁ、こっちから魔法を流し込んで、反対側であたしの魔力で迎えるの。媒介は何がいいかしら、ああ! サクラの花がいいわ、ぜったいそう!」


「――サクラ?」


と反応してしまったのは、久しぶりに日本語に近い発音の単語を聞いたからだ。


「うん、そうなの!」


ピンクの少女はにっこりした。目の下にぷっくりと涙袋が膨らんで、えくぼができる。合わせた手の先もほんのりしたピンク色に色づいている。リュシヴィエールはその精巧な天然の美しさにはっと息を呑んだ。


「学園に植えられていた木でね、とぉってもキレイな花が咲くのよ。ピンクの! まるであたしみたいだわ。そうでしょ?」


えへっ。と少女は肩をすくめた。


エクトルは張りつけたような美しい微笑でもって、少女の頭を撫でる。ぞわりと、リュシヴィエールの背筋がびくついた。――エクトルが本当にくつろいで、対象を愛しいと思ってするときの顔ではなかった。リュシヴィエールに向ける笑顔では。


「だから、あたしが名付けました! ホントは別の名前があったみたい。でもサクラって、響きがカワイイでしょ? だからぁ、そっちの方が絶対いいと思ったのぉ! 王太子様もそれでいいって言ってくれたもん!」


リュシヴィエールはエクトルに向けて微笑んだ。


「この方が【癒しの歌の聖女】であるという、おまえの説明はわかりました。そして――婚約者でもある、と。あまりに突然のことで、姉は驚きましたよ」


「すみません、姉上」


「きちんと養える職は手に入れたのでしょうね?」


エクトルは淡々と説明した。卒業式の夜、王立学院の大広間を貸し切った卒業パーティーで、同時にミミイ・フローチェのお披露目が行われる。彼女が【癒しの歌の聖女】であり、この国を支える身分に上がるということ。そして、エクトルは【癒しの歌の聖女】の専属護衛騎士となり、二人は生涯を祈りと癒しに捧げるのだ……。


「まあ」


リュシヴィエールは顔を曇らせた。


「それではもう簡単には会えなくなるわね……」


寂しい女そのものに悲しみを見せる。ピンクの少女が獲物を見つけた猫のように目を丸くした、さも嬉し気に。


「たまには会いに来ますよ」


「ええ、そうね……まあ、ごめんなさいフローチェ嬢。せっかくの席を濁してしまって」


「ううん。あたし気にしない。お姉さんはエルのことが大事なんだもんね! あたし、そういうのわかってるから!」


薄い胸を張って笑う少女は澄み渡る空のように清らかだったが、ピンク色の目は少しも笑っていない。


「エルをとっちゃう代わりに、あたしがお姉さんを癒してあげます。等価交換! っていうんだよ?」


「……聖女様になられる方に、ご無礼ですわ。この弟がそのような大恩に値するなど。これは聖なる【癒しの力】に値する傷ではございません。わたくしの誇りです」


「でも不便でしょ? 前みたいにキレイに戻った方がいいって! ぜったいそう!」


「――エクトル。少し出ていてくれるかしら?」


もう少年ではない青年は少しばかり苦い笑みを浮かべたようだった。嘲笑にとてもよく似た美しい笑みだった。彼は少女の肩に手をかけ、そっと頬を触る。


「いいかい、愛しいミミイ?」


「いいよお。なになに? なにがしたいの?」


少女は興味津々といったところ。零れ落ちそうに大きなピンクの目がきょときょと動き、くすくす可憐な笑い声を出す。エクトルはピンクの少女を抱き締めて、ピンクの髪に顔をうずめた。


「ああ、離れるのが辛いな。姉上、何を話してもいいけれど、ミミイを傷つけるようなことを言うなら許さない。彼女は俺の婚約者なんです。肝に銘じてください」


リュシヴィエールはあやうく笑い出すところだった。――おまえったら、そんな顔で!


まさかリュシヴィエールが……姉として供に育ち、決定的な別離を経てなお昨日会ったかのような気さえする、エクトルに残された最後の家族であるリュシヴィエールが、騙されるとは思っていないだろう。姉上ならわかりますよね、という声が聞こえてきそうだった。エクトルは、無表情だったのである。自分の肩口にミミイのピンクの頭を押し付けて、決して顔を上げさせないようにしてまで。


そのわりに声の甘さときたら、ああ、大したものだ。


「俺はね、ほんとはミミイを王都の外に連れ出すのは反対だったんだ。旅は危険だ。盗賊だって出るんだから。でも彼女はついてくるって、姉上のことを話したら、心配だからって言うんだよ。ほんとに清らかな心の持ち主なんだ、ミミイは」


ぎろり、とまったく怖くない目でエクトルはリュシヴィエールを睨んだ。


「何かしたら許さないからなっ」


蓮っ葉な女の子が粋がる時のような、まるきり似合ってない威圧である。リュシヴィエールは微笑を浮かべ、悲しそうな声を出す。扇の下と上で違う感情を違う相手に伝えられるよう、淑女としての訓練を積んだのは遠い昔のことだ。その技を使って厄介な求婚者を撃退したこともあったっけ。


「どうしてそんなことを言うの。わたくしはそんなことはしないわ」


「ふん。どうだか。俺はあなたが俺にしたことを忘れていませんから」


「いやああああんっ、ケンカしないで! ケンカはだめよ!」


少女は苦労してエクトルの腕の拘束からぽんっと頭を抜け出させた。ピンクのふわふわの髪がぷわぷわ周囲に広がった。


「あたしのせいでっ。ケンカしちゃ、メッ!」


「ああ、早くミミイに神殿に入ってもらいたいな。おつとめ以外は外に出ないようにして、ずーっと俺と一緒に過ごすんだ……」


悲劇の主人公の顔をしてエクトルは少女のピンクの髪を撫でる。茶番も茶番すぎて飽き飽きするが、彼がこうすると決めたのならこれが最短の説得方法なのだろう。


ミミイは――ミミイ・フローチェである少女はずいぶんと、その、自尊心が高いらしい。


その後もエクトルはさんざん少女の機嫌を取ったあと、足取りも軽く屋敷をあとにした。【暁の森】でも見に行くつもりかもしれなかった。前から興味を持っていたようだったから。


リュシヴィエールはエクトルの足音がなくなるまで待ち、少女に対峙する。


「それで――」


「あんたも転生者?」


話し始めがかぶった。どうやらとことん相性が悪いようである。リュシヴィエールはとうとうコロコロと笑い出した。上品な笑いを目指したかったが、息の音が混じって聞き苦しいものだ。実のところ、リュシヴィエールの頬の傷口は塞がらないまま癒着してしまったので、ハスハスと息が抜け言葉は聞き取りづらいし呂律はよく回らない。


「きもっ。図星かよ。笑ってごまかしてんじゃねえよ」


今にも唾を吐きそうな声である。


「あなたはどなたなの?」


「は? ミミイ・フローチェですけど。あたしがヒロインなのよ! わかってんの!?」


「ええ。わかっていますとも。ええ……話をしましょうか。ヒロインさん」


知りたいことを知るために、リュシヴィエールは居住まいを正した。


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