第14話


三年が経った。アルトゥステア歴七百十八年、一月五日。


ここではないたくさんの家では新年祭は華やかに開催されているだろう。今年もエクトルは帰ってこない。帰ってくる、という表現はおかしいのかもしれない。ここは彼の家ではなく、リュシヴィエールの幽閉場所なのだから。それでも顔を見られないのは寂しいし、心配もするものだ。


王立学院へ手紙は出していた。返事が来たことはないが、今となってはエクトルへの手紙を書くことと【暁の森】へいくまでの道を散歩することがリュシヴィエールの日課であり趣味であり仕事だった。


それでもこの三年でいくつかのことがあった。父であるクロワ侯爵の今の妻から金食い虫と罵倒する手紙が来た騒動、足の火傷あとが突然感染症を起こし高熱が下がらなかった秋、母の行方を捜しているとあの美青年キリアンから手紙が来たりもした。


リュシヴィエールは母と異父妹の死体の行方について考える。考えれば考えるほど、エクトルが分かりやすく埋めたり燃やしたりしてそれらを処分したとは思えないのだった。確かに困った――としか言いようのない、人たちだった。けれど墓にすら入れず葬式も挙げられないほどのことをしたのか、リュシヴィエールにはまだわからないでいる。


母は愚かだっただけだ。そしてサンドラは、異父妹は完全に巻き添えだった。


愚かに生まれたことは罪ではない。見下す相手が欲しくて、踏みつける相手がいなければまともに立ってもいられなかっただけ。そんな愚かさは誰にでもある。リュシヴィエールの中にも。


「使用人たちがわたくしを軽んじたのも、親なしと罵ったのも、わたくしの態度に原因がなかったとは言えないわけだし……」


と一人ごとを呟いた。窓の外では雪が降っていた。ここ三年というもの降らなかった雪が。


「お姫様、お茶です」


とアンナが銀の盆にのせたティーセットを運んでくる。ありがとう、とリュシヴィエールは頷いて見せた。にんじん色の赤毛は三年でますます色濃くなり、森の風を毎日受けたせいか反対にそばかすは薄くなった。取り立てて容姿に特筆するところがないのは相変わらずだが、リュシヴィエールが立ち居振る舞いをくどくど修正したおかげか少しばかり優雅といえる物腰になっていた。


あるいはこうした干渉が、かつてクロワ邸でリュシヴィエールの孤立を招いたのかもしれないのだが。


「アンナ、雪が上がったら散歩に行きましょうね」


「はい、お姫様。お供いたします」


二人の女は笑い合う。彼女たちは生まれも育ちも違うのに、案外、気が合うのだった。


一人になったリュシヴィエールは窓の外を眺めながら花の香りのお茶を啜った。貴族が好んで飲むソーマ茶は、考えてみればそれほど好きではなかった。


【暁の森】は赤い葉っぱに雪化粧して、ずいぶんかわいらしく見える。果たしてあの森から魔物が湧きだし人を襲うとは本当だろうか。リュシヴィエールには信じられない。人はまるで見てきたように不吉だ、不吉だと言うけれど。


何もすることのない生活の、気ままな手すさびは楽しいものだ。机の上にはやりかけの刺繍や軟膏の器、書きかけの詩の原案などが散乱している。錆びた色合いのインクが羽根ペンの根本でかたまっているので、あとでナイフで削がなければならない……。


慣れ親しんだ屋敷の自室で、暖かい室内着にくるまれ眠気が忍び寄ってきた。リュシヴィエールは完璧に油断していた。


玄関扉のベルが高らかに鳴り響いたのはそのときである。門番の老爺はじめアンナ以外の使用人は皆、帰るべき家に帰っていた。新年祭とはそういうもので、このときばかりは貴族も平民も家族水入らずで過ごすのだ。


アンナがぱたぱたと玄関へ駆けていった。リュシヴィエールは立ち上がり、客人への非礼にあたらないよう肩掛けをレースのものに取り替えた。室内着はもはやどうしようもない。杖を手に取り、頭巾をかぶって火傷あとと皮膚がえぐれたハゲを隠す。


(いったい誰? 心当たりがないわ)


クロワ侯爵家は父の改心もあってかなんとか持ち直している。奇矯な商人が忘れられた侯爵令嬢に一応、尻尾を一振りしに来たのだろうか。


しかしそうではなかった。この三年間で習得した足音のしない歩き方で、アンナが部屋へ戻ってくる。一番奥の、一番広い、窓のない部屋は永遠に施錠されていた。さすがに血の繋がった人間が二人も死んだ部屋を使いたくなく、リュシヴィエールは今、二番目に広い客間だった部屋で寝起きしている。


アンナは静かに礼をして、ひそめた声で告げた。


「弟君です。エクトル様です。――その、ご令嬢と一緒です」


「ご令嬢?」


「はい。その、婚約者、ですとおっしゃられて……」


リュシヴィエールは部屋を出た。杖は絨毯に沈むが、頼りにするというよりは歩くことの補助に使い、応接間へ。


三年前と何も変わらないソファの上に、エクトルとピンクのドレスを着た少女が寄り添うように座っていた。


「――!」


リュシヴィエールはあやうく大声をあげそうになったが、実際にそれをしたのは少女の方だった。


「キャアアアッ、そんな、そんな、ひどい……」


と呻くなり、ぼろぼろと滂沱の涙を流して泣き始める。


少女はどこもかしこもピンク尽くめだった。ふわふわのピンク色の髪、ピンク色の目、ピンク色のドレス。爪に塗った色さえピンクである。


乙女ゲーム『一つの冠をいっしょに~キミと運命の分岐点~』、略称ヒトキミのヒロインだ。デフォルトネームはミミイ・フローチェ。少女はソファを弾かれたように飛び上がると、リュシヴィエールに両手を広げて突撃してきた。


ぎょっとしたリュシヴィエールが身体を固くしているうちに、少女はぐすんぐすん泣きながらリュシヴィエールを抱き締め、頬ずりをしてくる。涙の冷たい濡れた感触が頬の傷にしみるようで、リュシヴィエールはぞっと血の気が引いた。


「あたしっ、あたし知らなくてェ……ごめんなさい、ごめんなさいっ。エルのお姉さんがこんな目にあってるだなんてッ。ひどぉい、ひどすぎるよおおおッ!」


リュシヴィエールはエクトルに目で聞いた。――これ、何?


エクトルはふっと苦笑して、その陰を含んだ色気にリュシヴィエールはどきりとした。


三年の月日を経て、彼はますます背が高くなり筋肉もついた。身体の厚みと体躯のよさはそこらの騎士と並べて遜色ないだろう。かといって鈍重なわけでもなく、がっしりした身体でもしなやかに動いた。


彼はピンクの少女に近づいて、リュシヴィエールから優しく引き剥がす。腕は肉体を使う男に特有の太さをしていた。


彼は美貌をふっとゆるませて、猫でも撫でるかのような声を出す。リュシヴィエールの聞いたことのない声を。


「ミミイ。優しいミミイ。ありがとう、姉のことを案じてくれて。――それで、どうかな?」


陳列した商品の売り込みをする商人のように、エクトルは気取って両手を広げた。


「彼女は治るだろうか。綺麗さっぱり、元のようなつるつるの肌に?」


「ええ、大丈夫よ!」


と少女は確認する素振りも見せず、両手を組み合わせ微笑む。リュシヴィエールにピンクのまなざしが投げかけられた。まるで世界の法則すべてを代表する女神のような、あなたのことを何もかも把握していると告げるような目である。


「あたしが助けてあげるわ! そんな傷跡、ぜーんぶキレイにとっぱらっちゃうんだからね!」


きゃはっ、と少女は高く笑った。エクトルは彼女の後ろでただ、微笑んだ。


リュシヴィエールは静かに佇む。状況は理解できないけれど――エクトルが笑っているのなら、大丈夫なのだろう。



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