第6話 名前で呼んで!

 1ヶ月が経った。彼女とホエールウォッチングに行く日がやってきた。

 もちろん、これ1回きりではない。12月から4月まで、行ける限りは行くことになる。それでも見つからなければ、来年。それでも見つからなければまた次の年も行くことになる。


 まあ、そうなるんだろうけど。なにせ野生の動物なんだ、この広い海を泳いでいる特定の鯨を探すなど、不可能に近い。


 今は沖縄にいる。朝早くから飛行機に乗って、だいたい4時間かけてここまで来た。ホエールウォッチングまでにはもう少し時間があるので、酔い止めを飲むために食べ物を少し食べた。


 時間が来ると、船に乗り始める。ゆっくりと動き出し、人間がそこに入っても足がつかぬほどの深さまで来た。


「僕、ここまで来たの初めてです」


「ここからでもわかるぐらい暗いよねー」


 彼女はもう見慣れているからか、平然と海を見ている。


 港から出発して少し経つけれど、鯨っぽい姿は全く見つからない。


「見つからないね〜」

 

 鯨が見つからないというのに、彼女は随分と呑気そうだった。もっと残念そうにするかと思ったけど、何年も行っているからか、そんな素振りは見せなかった。


 しかしながら、鯨が見つからないというのは当然と言えば当然だろう。彼らはこの大自然を生きる生き物なのだから。


「––––ねえ、勇那くん」


 辺りを見つつ景色を見ていると、不意に彼女が話しかけてきた。


「なんですか?」


「髪、セットしてみない?」


「……はい?」


 突然言われたので、思わずとんきょうな声が出る。いきなりなんなんだ。

 そう思うも、彼女のまっすぐな眼差しに負け、小さくため息をついて、理由を聞いてみることにした。


「なんでですか」

 

「いや、髪セットしたらもっと良くなるんじゃないかな〜って。ね、1回メガネも外してみてよ!」


「はあ……」


 小さな抵抗としてため息をついてみるけど、彼女はそんなことお構い無しに期待した目で見つめてくる。そんなに期待されても、正直困るんだけど……。


「これでいいですか?」


「…………あんま変わんないね」


「そりゃあそうでしょう」


 漫画やアニメのように、メガネを外したら目を見張るほどのイケメンだなんてことはない。せいぜい顔の余白が増えるだけ。


「でもでも! 髪セットはしてみてほしい! 会社に行く時!」

 

「嫌ですよ。余計な手間が増えるだけじゃないですか。ただでさえ朝は眠いんです」


 僕がそう言うと、彼女は文句でも言いたげな表情を見せる。でもやっぱりめんどくさい。朝は寝ていたい。


「ケチ〜」


「なんとでも言ってください」


 その後、何時間も海の上を船で進んでいくけれど、鯨が見つかる気配はなさそうだった。ただ、それでも横にいる彼女は嬉しそうだった。


 何がそんなにも嬉しいんだろうか。



「いや〜、楽しかった〜」


 船から降りた後、彼女は伸びをしながら言った。


「鯨が見つからなかったって言うのに、随分と満足そうですね」


「うん、綺麗な海が見れたからね」


「そういうもんですか」


 僕が少し小さな声で言うと、彼女は「そーいうもん」と言って笑った。

 そして、「あ、そうだ」と呟いてこちらを見る。少し文句がありそうな顔つき。


「勇那くん、私の名前呼んでないよね。それと、敬語も使ってる!」


 何を言うのかと思えば、そんなことか……。


 思ったことが顔に出てしまっていたのか、彼女は頬を膨らませて怒り出した。


「言っておくけど、”そんなこと”じゃないからね。大事なこと!」


「名前は呼ぶ機会がなかったからです。敬語は……あなたの歳が分わからなかったからで––––」


「ほら! 今呼ばなかった! それに歳は同じなんだから、敬語は使わなくていいの」


「なぜ歳が同じだと……?」


「へ? あ、ゆ、優希くんに聞いたの!」


 若干、彼女の歯切れが悪かったのが気になるけど、まあ今はいい。それにしても、わざわざ歳まで聞くなんて、何がしたいんだか……。


 彼女は慌てつつも、冷静になろうと話題を変える。


「そ、それで、勇那くんは私の名前、覚えてるの?」


「ああ……えっと、夕凪––––なんでしたっけ」


「ひど! 美海だよ、夕凪美海!」


「ああ、そうでしたね」


 サラッと流すと、彼女は呆れたように深いため息をついた。そしてこちらをキッと睨んで指を突き出す。


「いい? ちゃーんと覚えといてね! あと、敬語も無し!」


「わかったよ……」


 僕が諦めて言うと、彼女––––美海は得意げに笑う。

 

「それじゃ、改めてよろしく!」


 満面の笑みで差し出してきた美海の手を、大人しく取る。


「よろしく」

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