五 楽園の住人

「──太野先生、先生のおかげで兄達を病院に連れていけます。本当にどうもありがとうございました」


 翌日の昼近く、羽田宮司宅を去ろうとする太野に恵麻が深々と頭を下げる。


「いや、私は何もしていないよ。むしろ捕まってとんだ役立たずだった。すべては安富君のおかげだ」


 そんな彼女に苦笑いを浮かべると、太野は気恥ずかしそうに茶の長髪を撫でつける。


 昨夜、思わぬ安富の闖入を契機として、羽田宮司はじめ参列者全員が〝生命の樹の実〟を食し、残らず惚けた〝真人〟になり果ててしまうと、太野と恵麻は彼らを誘導して地下教会を後にした。


 そして、午前中までかかって各人をそれぞれの家まで送って行き、つい先程、ようやくひと息吐けたといったところである。


 〝真人〟と化して帰って来た者を見た家族の反応は、各々の村人達で様々だった。


 信仰心篤くありがたがる者、そうは言っても一家の大黒柱がそんなことになってしまい、真っ蒼い顔をして困り果てる者、そのどちらともつかずに単に驚いている者……恵麻もまたそうであったように、今は古い時代とは違い、村人の皆が皆、この独自の隠れキリシタン信仰を堅持しているわけではないのである。


 いずれにしろ、〝生命の樹〟の鉢植えは燃えてしまった……もうあの青い樹の実は獲れず、成人の儀式もあれが最後となるのであろう。


 羽田宮司や村人達のあの慌てようからして、おそらくあの一本以外には存在せず、長い歳月の間、密かに村で育てられて来たものなのかもしれない……。


 あの儀式を見てから『天園村縁起』を改めて確認し、太野はあの樹の実についてある仮設を抱くようになっている。


 古書の記載によると、例の宣教師ニコラオシスは、帰国する支倉常長とともに日本へ渡る際、ノビスバン(※中南米のスペイン帝国植民地、ヌエバエスパーニャ副王領のこと)より〝知恵の樹〟と〝生命の樹〟の二本を携えて来朝したことになっている……。


 最初読んだ時は彼の異端的教義の寓意表現かと思ったが、もしもそれがあの二つの鉢植えを表しているのだとしたら……ひょっとするとあの〝生命の樹の実〟は、中南米原作の強烈な健忘作用を持った未知の植物なのかもしれない。


 老化が抑えられ、異様に長寿となるのもそうした効能を持つためなのか? それとも

惚けることでストレスがなくなり、自然と健康体になる副次的な効果なのか……。


 いずれにしろ、だとしたらその正体を確かめられれば、安富達をもとに戻す方法もわかるかもしれないのだが、幸か不幸か実のほとんどは村人達に食べ尽くされ、わずかに残っていたものも燻る炎で樹ごと黒焦げになってしまった。


 残念ながら、今やその正体は闇の中である……安富達の治療は、現代医学の進歩と医師の努力に任せるしかないのであろう。


「あの時、なぜ兄はあんなことをしたんでしょう?」


 ずっと疑問に思っていた、安富が〝生命の樹〟に火をつけた理由を恵麻が問う。


「さあ……確かなことは言えないが、ひょっとしたら、わずかに彼の中に残っていた人の理性が、彼をああした行動に駆り立てたのかもしれないな……」


 その問いに、太野は顎に手をやって宙を眺めると、少し考えてからそう答えた。


「無論、ただの気まぐれにしただけのことなのかもしれないが……ただ一つ言えることは、智慧の樹の実を食べてこその人間だということだ」


 続いて太野はそううそぶくと、本殿の階段に腰掛けて惚ける、なんの悩みもなさそうな顔の羽田宮司と安富の方を見つめる。


「ま、知恵の樹の実を拒絶し、再び楽園の住人となった彼らの方が、知恵ある人間なんかよりもよっぽど幸せなのかもしれないがね……」


 そして、自嘲気味に笑みを浮かべると、どこか羨ましそうな口ぶりをしてそう付け加えた。


「さて、そろそろバスの来る時間だ。私はこれで失礼するよ」


「道中お気をつけて。また、いつでも遊びに来てくださいね」


 しばしの立ち話を終えた太野は改めて恵麻と別れの言葉を交わし、バス停へと向かうために踵を返す。


「さて、この俄かには信じ難き隠れキリシタンの新発見事例、どうやって学会に報告をしたものか……下手をすれば私が異端呼ばわりされかねないからな……」


 そのまま鳥居を潜ると長い石段を下りながら、太野は学者ならではの、そんな悩みを人知れず口にした。


(そうだ、パライソさ行くだ! 了)

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そうだ、パライソさ行くだ! 平中なごん @HiranakaNagon

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