四 最初の審判(2)

「ああ。赤い実の方は原種に近いリンゴのようだが、緑の方はなんなのだろう? あの強力な健忘症状……毒性や幻覚作用のある植物なのか……」


「…ハッ! 先生、危ない!」


 恵麻の呟きを拾い、太野が〝生命の樹の実〟の正体を推理していたその時、彼女が不意に声をあげる。


「…ん? んがっ…!」


 その声に振り向こうとした太野は、後頭部に強烈な衝撃を受けて転倒する……棍棒を持った村人に殴られたのだ。


「盗み見なんかしやがって! これだから他所者よそものは!」


「とっととこっちに来やがれ!」


 さらにもう一人村人も加わり、激痛に頭が朦朧とする中、太野は両脇を抱えられてホールの下まで引きづられてゆく……すっかり儀式に気を取られてしまっている内に、見張りの接近を許していたのである。


「お嬢さんも悪戯がすぎますだ。さ、こっちへ来なせえ」


 また、恵麻も険しい顔をした村人に促され、太野の後について連れてゆかれる。


「……う…うう…」


「先生、いくら学問のためとはいえ、地元民の信仰をないがしろにするとはいけませんなあ……」


 引き立てられ、地べたに這いつくばらされた太野を見下ろし、蛇の仮面の中から宮司は告げる。


「本来は許されぬことだが、殺生をはたらくよりは罪も軽いでしょう……秘儀を見られたからには仕方ありません。先生にも生命の樹の実を食べて、すべてを忘れさってもらいましょう」


 続いてそう言うと、羽田宮司は一方の鉢植えから青い実をもぎとり、太野の顔の前へと突き出してみせる。


「お父さま! そのようなこと、もうおやめください!」


「恵麻、羽田家の者がなんと情けない……おまえには後でしっかり懺悔させてやるから、そこでおとなしく見ていなさい」


 父親の凶行を止めようと、恵麻は声を張りあげて嘆願するが、羽田宮司は取り付く島もなく、他の村人達にはばまれて太野に近づくこともできない。


「私は成人の秘蹟を受けた折、どちらが生命の樹であるかをわかっていながらも、宮司職を継がねばならなぬゆえ知恵の樹の実を選ばざるを得なかった……この秘蹟を受けられるのは成人となる折の一度切り。私は真人となる機会を永遠に逸したのです……なのに、あなたは他所者でありながらも真人となれる。正直、あなたが羨ましいですよ、太野先生」


 楽園の〝蛇〟を演じる宮司はそう語りながら、まだ青い樹の実を太野の口へと押しつける。


「…くっ……うううっ……」


「さあ! 食べるのだ! これを食せばおまえも原磯へ帰れるのだぞ!?」


 必死に口を噤み、顔を背けようとする太野であるが、左右から押さえつけられて身動きのとれない彼の口を、蛇頭の宮司は強引にこじ開け、生命の樹の実をぐいぐい押し込もうとする。


「…ゲヘ……ゲヘへへへ……」


 だが、その時。先程の若者とはまた違う、どこか聞き憶えのある笑い声が地下教会のドーム天井に響き渡った。


「兄さま!」


「…ん? 安富! おまえ、どうしてここに!?」


 見ると、それは階段をよろよろと降りてくる安富である。今の騒ぎに誰も気づかなかったのだが、いつの間にやら彼もここへ紛れ込んでいたのだ。


「…ギヒヒヒ……おらあ、原磯さあ行くだ……」


 階段を降りきった安富はその歩みを止めることなく、まるで「出エジプト記」のモーセの如く、二つに裂けた村人達の間の道を真っ直ぐ祭壇へと歩いて来る。


「安富、どうしたんだ? ここへはみだりに来てはならんぞ?」


「…ゲヒヒヒヒ……おらあ、原磯さあ行くだあ……」


 驚いた様子で羽田宮司が声をかけるも、彼はまったく耳に入っていない様子でなおも進み出ると、祭壇に置いてあった燭台をむんずと掴む。


「お、おい! 安富? おまえ、いったい何をするつもりだ?」


「…デヘヘヘ……おらあ、原磯さ行くだ……」


 そして、悪い予感を抱く宮氏を尻目に、その燭台の火を〝生命の樹〟の鉢植えへと躊躇なく近づけた。


「や、やめろっ! うわあっ…!」


 唖然とする宮司や村人達の目の前で、注連縄の紙垂しでに燃え移った蝋燭の炎は、溶けた蝋を燃料にして瞬く間に激しく燃えあがる。


「な、なんてことを!? せ、生命の樹が…熱っ! ひえぇっ…!」


 慌てて宮司は火を消そうと祭服の袖で樹を叩くが、その熱さに手元が狂うと、鉢植えは床に落ちてガチャン…と陶製の鉢が割れてしまう。


「まずい! 生命の樹が! 生命の樹があぁぁぁーっ…!」


 それでもなお火は消えず、むしろ枝葉までが燃え始めているその有様に、最早、羽田宮司は恐慌状態である。


「せ、生命の樹が……生命の樹が燃えてしまう……」


「あ、あの樹が……生命の樹の実がなくなったら、もう誰も原磯へ行けなくなっちまう!」


 また、予期せぬその異常事態に村人達もひどく狼狽している。


「お、俺にも生命の樹の実をくだされ!」


「お、俺も! 俺にも生命の樹の実を!」


 必死に袖で叩く宮司になんとか火は消えるも、いまだ煙をあげる鉢植えへ向けて村人達は一斉に飛びがかかる。


「は、原磯さ……原磯さ行くだ! はむっ…!」


「神よ! 我らを原磯へ帰らせたまえ! はぐっ…!」


 そして、焼け落ちた青い樹の実を掴むと次々に口へと入れてゆく……。


「お、おまえ達……わ、私も……私も原磯へ……原磯さあ行くだ……んぐ! ゴクン……」


 さらに、正気を失った羽田宮司までもが緑色の果実を拾うと、小刻みに瞳を振るわせながらそれを一気に飲み込んだ。


「う、うぐぁあああああーっ…!」


「うぎぇあぁあぁぁぁーっ…!」


 一瞬の後、先程の若者同様、白眼を剥いた宮司と村人達は揃って奇声を発し、順々にバタバタと地面に倒れ伏してゆく……。


 さらに、それからわずかの後。


「…ギャハハハハ……おらあ、原磯さ行くだ……」


「…ギシ…ギシシシ……おら…ゲヘへ……原磯さあ行くだ……」


 やはり皆一様に、安富や若者ともども惚けて奇妙な笑い声をあげると、あのお決まりの台詞を言うだけの抜け殻と化してしまう。


「……痛っっ……全員、〝生命の樹の実〟を食べて真人と化してしまったか……」


 拘束を解かれ、ようやく自由の身となった太野は起き上がると、痛む頭を押さえながらその渾沌とした景色をぐるりと見渡す。


「…ウヘ……ウヘヘへ……おらあ……原磯さあ、行くだぁ……」


「お父さま……」


 それまでの威厳ある風貌は見る影もなく、同じく惚けて笑うだけとなった父親の姿を、恵麻はいろいろな思いを込めて感慨深げにしばし見つめた──。

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