織田からの使者④

「――――⁉」


 自分よりひと回り大きくゴツゴツとした手が、愛姫の口と左手を押さえつける。

 一瞬の出来事だったため脳の処理が追いつかなかったが、恐る恐る後ろを確認すると見た顔が姿を現した。


(嘘⁉ 何で此処に⁉ さっきまで宴会場にいたんじゃ⁉)


 光秀だ。さっきまで謁見の間で飲んでいたはずの漢が、いつの間にか背後に。

 光を失い、対象を完全に敵と認識している、無慈悲で冷酷な眼。それでいて拘束力は強く、愛姫の身体の自由を簡単に奪ってみせた。


「愛姫殿……、今なんと?」

 

 光秀の問いに、愛姫の身体が一瞬で凍り付く。

 どこまで聞かれていたのだろう。そもそも自分は何を呟いていたのか。と、軽いパニック状態に陥る。


 ただ、現状分かる事はある。このままではという事。それだけは脳が、身体が危険信号を所有者の愛姫に送り続けている。


「ン――! ンンンン――!」


 助けを呼ぼうと必死に声を出そうとするが、光秀の手がそれを許さない。

 なら空いてる右腕で、と右肘を光秀の腹に叩き込むが、強靭に鍛えられた腹筋の前では女の力など無意味であった。


「先ほど『本能寺の変』と聞こえましたが……、その本能寺の変とは何の事ですかな⁉」

(バリバリ聞こえてるじゃん!)


 同時に愛姫を押さえる手にもう一段力が込められ、拘束された身体がつま先で支えないといけないぐらい宙に浮く。

 これは流石に危険な状態だと、愛姫の身体は更に危険信号を発する。


 瞳孔は開き、身体は震えながら大量の汗を放出。酸素不足から身体の力が徐々に抜け、抵抗する力すら失いかける。


(私の力じゃ振りほどけない……。やばい、このままじゃ……)

 

 まさに絶体絶命、その時だ。光秀の背後に天井から黒い影が現れた。


「おい、その手を早く放せっス」


 声の主はお打だ。天井から光秀の背後に立ち、小太刀を背中に刺さる寸前で止めて警告する。


ディオス ミオ驚きました。私が簡単に背後を取られるなんて……、何十年振りでしょうか」

「御託はどうでもいいから、さっさと姫様から手を放せっス! さもないと――」


 お打は小太刀の先を光秀の服に当てた。その感触は伝わっているはずなのに、光秀の表情は涼しいままだ。


 追って正解だった。愛姫が便所に向かった一分後、光秀も便所に向かって離席したの天井裏で確認したお打。主人が胸ぐらを掴んだ事もあってか心配になり、光秀の跡を追っていたらこの有様である。お付きを同行させなかった時点でもっと疑うべきだった。


「さもないと……どうなりますか?」

「そんな事言わなくても光秀様ならわかるはずっス。早く離さないと口の中が酒じゃなくて、鉄の味に変わるっスよ!」


 言い過ぎなのはわかっている。だが、主を守るためなら命をす覚悟は出来ているつもりだ。

 お打は脂汗を掻きながらも、一片の狂いもなく刃を突き立てたまま脅しを掛けた。


「グスッ……、グスッ……」


 ポタッ、ポタッ。静寂な廊下の上で微かに聞こえる水滴音。と、同時に僅かに香る刺激臭。

 光秀とお打はその正体が何なのか、愛姫の異変ですべてを理解する。


 自身の足元から滝のように流れる生温い水に反応して、思わず拘束する手を放してしまった光秀。

 鼻水を啜りながら、愛姫は両手で涙を拭う。着物の裾部分が濃く変色し、足元には不自然な水たまりが出来てしまっていた。


 言わずもがな、お漏らしである。


 お酒によって促された尿意に、「殺される」という過去最大のストレスを同時に受け取った愛姫の身体。

 極限状態に身体は解放を選択し、自身に掛かるすべての負荷を強制的に手放した……。結果、これである。


 放心状態の光秀に気付いたお打は、急いで小太刀を仕舞い、泣きじゃくる愛姫を担ぎ上げる。


「いいスか⁉ この件は黙っておきますから、光秀様は会場に戻るっス! 勿論、他言無用っスよ!」


 そう言い残すと、お打は愛姫を抱えたまま急いでその場を後にした。


「あっ……」


 何か言いかけそうになった光秀だが、その場には先ほどのくノ一と愛姫の姿はない。顔からも緊張は消え失せ、いつもの光秀に戻っていた。

 ここにいては自分がある意味疑われてしまうと、光秀もその場をすぐに後にした。


 この後、トイレから中々戻らない愛姫を心配して探しに行った政宗だったが、道中愛姫の残した尿だまりを踏んでしまった事は内緒である。


 ――――――――――


 翌朝――。


「それではお世話になり申した、伊達の方々。土産もこんなに貰い、殿も鼻が高くなりましょう」


 米沢城正門に帰国する光秀とそのお付き、彼らを見送ろうと伊達の代表達が集まっていた。


「道中の露払いは我ら伊達の騎馬隊と草が致す故、安心して進まれよ」

「お心遣い感謝致す、政宗殿」


 伊達領内とはいえ、米沢を離れればそこは無法地帯。賊や獣に襲われる可能性があるため、国境まではしっかり見張りをつけるのが伊達流のもてなし方だ。


「信長殿によろしく伝えてくれ。愛はやれんが、次回はとびきりの土産を持たせると」

「ハハハ、殿はいつも伊達の贈り物には肝を抜かしておりますので、きっと大喜びするでありましょうなぁ」


 政宗と和気あいあいと話す光秀だが、ひとつの殺気がチクチクと身体を刺しているのを感じていた。


「め、愛姫殿もお元気で……」

「…………」


 ここいる誰もが愛姫の機嫌の悪さを感じていた。その眼は一点、光秀をしっかり睨んでいる。何故機嫌が悪いのか、理由を知る者はとても少ない。


「愛……、何故そんなに機嫌が悪いじゃ。昨日も途中でいなくなるし」

「うっさい! アンタは黙っとけ!」


 虫の居所が悪い今の愛姫には、政宗の言葉ですら雑音に聞こえる。それぐらい、今は誰にでも噛みつきそうな顔つきをしている。


「光秀さん……、あの事少しでも喋ったら……、呪い殺す!」

「――⁉」


 あの事とは、あの事である。すぐに理解した光秀の顔は蒼白になりかける。呪い殺す、愛姫ならやりかねないと思ったからだ。

 困った表情をしながら頭を掻き、光秀は愛姫に視線を向ける。


ノー パサ ナダ心配いりませんよ、あの事は我々と素敵なくノ一殿だけの秘密です」


 光秀は唇に人差し指を当て、内緒の仕草を愛姫に送るが、「フンッ」とそっぽを向く。

 自分が不用心であったとはいえ、光秀が拘束しなければあのような事故は起きなかった。その一点だけは今でも恨んでいる。


「開門ッ!」


 門番の号令を合図に、米沢城の正門が開く。外には織田の使者を守る騎馬隊が綺麗に整列していた。光秀はペコリと頭を下げると、反転して出口にゆっくりと馬を歩かせる。


「……愛姫殿」

「ん?」


「拙者、もっと早く其方にお会いしたかった。だが、これも天命であればこの光秀、信長様に自分の気持ちを進言してみるでありますよ」


 光秀は進む馬を止め、愛姫に爽やかな横顔を向け、そう話す。


「その意気よ。面と向かい合って喧嘩してきなさい! それでもダメだったら、私が飼ってあげるわ。秘密を知った野良犬をこのまま野放しには出来ないからね!」

「ハハッ! そうならないよう、気張ってみるでありますよ」


 愛姫に言葉を返すと、光秀は馬を再度出発させた。それに続くと、お供の騎馬隊も馬を歩かせる。

 表情も最後は穏やかだった愛姫だが、光秀が見えなくなると、再び厳しくなる。


(光秀は本能寺の変を起こそうとしていたのは間違いない。でも、これで信長が死ななかったら、歴史はどうなるのかしら……)

「なーんてねっ!」


 愛姫も身体を反転させ、米沢城内に戻る。


 事実、光秀と再び会う事はない。愛姫の介入により、歴史の軸は大きく傾き始めるのである。

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