第24話 勇気

 時間は流れ、午前中とは太陽の位置が大きく変わった午後2時30分。


「八分咲きってところですかね。ほぼ満開だ」


 頭上を見上げれば視界の半分以上を埋める桜の花。周囲にいる観光客と同じようにそれらを眺め、僕は隣に立つ雪奈さんに言った。しかし彼女がそれに言葉を返すことはなく、口を堅く閉ざした状態のまま僕と同じように、咲き誇る春の風物詩を見つめている。降り落ちた桜の花弁を幾つか、帽子や服に付着させて。

 快晴の空が広がるこの場所は隅田川が滔々と流れる傍、隅田公園。その台東区側の歩道だ。例年は桜が満開になる時期が近付くと多くの花見客で賑わうのだが、今年もその例に漏れず、歩道は多くの人で溢れかえっていた。水の流れる音を響かせる隅田川を見れば、花見のクルージングと思しき一隻の船が水流の方向へ流れていく。その上には団体の客がおり、機嫌良さそうに大きな声を出して盛り上がっていた。

 賑わっているのは水上だけではない。歩道では小さな子供が走り回り遊んでおり、大人を見れば酒や串焼きなど、近くの屋台で販売されている飲食物を手に、桜を満喫している様子。そこかしこから上機嫌そうな声が聞こえる。春の陽気に当てられ、人の心も浮かれているようだった。

 昔よりも随分と短くなった春を堪能している人々を風景の一つとして眺めながら、僕は隣に立つ雪奈さんへと言った。


「桜、凄く綺麗ですね。東京に住んでいると、この景色も見慣れてしまっていますか?」

「そうでもないよ。春しか見られない光景だから、毎年新鮮な気持ちで見てる。昔からよく、お父さんに連れてきてもらっていたけど」

「いいですね。僕の地元にはこういう桜の名所みたいなところは全くなくて……羨ましい」


 やはり東京はあらゆる面で恵まれた土地だな、と僕は思った。食も娯楽も、自然の名所も、東京という一つの場所にあらゆるものが揃っている。廃れた地方に住む若人がこぞって東京を夢見て上京する理由がわかった。この都市はあらゆる面で、地方の街よりも優れている。


「ねぇ、蒼二君」


 いつまでも立ち止まっていないで、先に進もう。そう考えた時、雪奈さんが僕の服を摘まみ、問うた。


「そろそろ教えてくれないかな。どうして私を、ここに連れて来たのか」


 質問をしながら僕を見つめる雪奈さんの目は、こちらの真意を見抜こうとしている。こちらの僅かな表情の機微すら逃さないと観察しており、力強い眼差しからは、嘘は許さないという脅迫めいたものを感じた。

 今からおよそ数十分前。三時間ほどの眠りから覚めた雪奈さんに僕は『少し外の空気を吸いに行きましょう』と提案し、この場所に連れ出した。移動中に何度も尋ねられた、どうして遠くに行く必要があるのか、という質問を全て、のらりくらりと躱して。

 多少の文句は出たものの、雪奈さんがここについて来てくれて本当に良かったと思う。これから僕が行うことはあんな閉鎖的な、それこそ、二人きりの場所で行えるものではない。あまり重い空気にならない明るい場所でなくては、ふとした時に気分を紛らわせることすらできないから。

 歩きながら話しましょう。

 僕は雪奈さんを促し、止めていた歩を進めた。


「タクシーに乗る前にも言ったと思いますが、外の空気を吸うためですよ。開放的な場所のほうが、良い気分転換ができるはずですから。特に桜と川があるここは、気分転換にはうってつけです。視覚は桜、聴覚は水音。それらが心を癒してくれる」

「……とてもそれだけだとは思えないけど」

「疑い深いですね。けどまぁ……正解です。目的は他にもありますよ」


 鋭い洞察力に苦笑した僕は次いで、気分転換以外の目的を告げた。


「これからする話は少しばかり気分が重くなるものなので、可能な限り明るい場所でしたかったんです。落とした気持ちをすぐに持ち上げることができるような、視覚的にも雰囲気的にも明るい場所で」

「どんな話なの?」

「僕の、ちょっとした昔ばなしです」


 着ていた薄手のカーディガンを脱ぎながら、僕は微かに乱れた平常心を立て直す。

 これは必要なことなのだ。僕の目的を果たすために、雪奈さんの未来のために、欠かすことのできない行為。

 等価交換だ。僕は雪奈さんの知られたくない秘密を知った。不可抗力だったとはいえ、それは事実。ならば、僕も彼女に明かすのが筋だ。知られたくない秘密を、僕のほうからも彼女へと共有する。こんな風に考えているのは僕だけかもしれないけど、こうすることで初めて、僕は彼女と対等に話をすることができるような気がした。

 いくぞ。

 胸中で秘密裏に気合を入れ、僕は左の袖を捲り、その上腕を外気に晒した。


「ッ! ……酷い傷跡、だね」


 これまで隠し、見ることのなかった僕の左上腕を視界に映した雪奈さんは一瞬息を飲み、驚いた様子で口元に手を当てた。

 彼女の言う通り、そこにあるのは傷跡だ。普通の切り傷とは訳が違う。深さも範囲も均一性がない、負ってからかなりの時間が経過した今でも生々しさが感じられる。意識すれば僅かに痛み、その都度、この傷を創った時の記憶が脳裏に浮かぶ。

 これは、何の傷なの? 視線で尋ねる雪奈さんに、僕は右手でそこに触れて答えた。


「これは、自分で肌を削った時にできた傷跡です」

「自分で削った? リストカット、みたいな?」

「自傷行為は同じですけど、ストレス発散でするリスカとは大分違います。僕の場合は、ここにあったものを消すためにやったので」

「ここにあったものって?」

「タトゥーです。形は──」


 ちらり、と僕は雪奈さんの足を見やり、言った。


「──ケシの果実です」

「……ぇ」


 僕のカミングアウトが信じられなかったのか、雪奈さんは驚愕に表情を染めて立ち止まった。

 ケシの果実を模ったタトゥー。人類を地獄と堕落へと突き落とす麻薬の原料となる植物。雪奈さんがわからないはずがなかった。そんな悪趣味なタトゥーを身体に刻む者が、一体どういう人間なのか。

 驚きで言葉を失っている雪奈さんに笑いかけ、僕は隠していた秘密を言葉にした。


「僕も、雪奈さんと同じなんです」

「……新教会の、信者だったの?」

「はい。勿論、今は違いますけどね」


 正確には、元信者。その点も、僕と雪奈さんは同じということになる。カルト宗教によって家庭を、人生を壊された被害者。

 更に言えば、共通点はこれだけではない。

 転落防止用に設置された柵へと近づき、それを両手で掴み、僕は吹き付ける微風を心地よく感じながら語った。


「雪奈さんの話を聞いて驚きました。僕が入信した経緯、実はあなたと全く同じなんですよ。僕が小さい頃に母が入信して、熱狂的な信者になった母に強引に入信させられて。その後は地獄でしたよ。高額な献金やら法外な値段の教典のせいでお金がどんどんなくなって、借金も作ったから一気に貧乏になって。そのことに嫌気が差した父からはストレス発散で殴られて、母に反発しようものなら鞭やら棒で叩かれる。いいことなんて、何一つなかった」


 今でも嫌悪感を抱く記憶が幾つも、脳裏に浮かんでくる。心に不快感を齎す悪の記憶。それらを振り払うように、僕は小さく頭を振り、雪奈さんに言った。


「雪奈さんのところは、それでご両親が離婚したんですよね」

「う、うん。お父さんが私をお母さんから引き剥がして、離婚届を突きつけたって聞いてる。相当言い合いになったらしいけど……」

「良い終わり方ですね。少しだけ、羨ましいです」

「え?」


 まさかそんなことを言われると思っていなかったのか、雪奈さんは面食らった。


「羨ましい?」

「はい。僕の両親とは、大違いで」

「どういうこと?」


 尋ねる雪奈さんに、僕は数秒の間を空けて答えた。


「父が、母を殺したんです」

「──」


 絶句する雪奈さんを横目に、僕は続けた。長い時間が経過しても色褪せることなく記憶として脳内に格納されている、思い出の話を。


「父は限界に達したんだと思います。その日は普段の口喧嘩とは違いました。浴びるように酒を飲んだ父は手加減なんてなしで母を殴打して……その後、床に倒れた母を出刃包丁で滅多刺しにし、息絶えた母の首を斬り落としました」

「──ッ」

「その時点で大分酔いは冷めていたんだと思います。胴と離れた母の首を掴んだ父は落ち着いた様子で僕のほうに歩いてきて、それを僕に手渡して、最後は血塗れの包丁を口に突っ込んでベランダから飛び降りました。それが今から──14年前のことです」


 もう、気が付いたらしい。雪奈さんは『まさか』と小さく呟き僕の顔を凝視した。それに僕は笑みを返し、うん、と頷いた。


「以前雪奈さんも話していた、ルーファス神教会信者である母親の首を抱いた子供の事件。その子供が──僕なんです」


 報道が規制される前、当時世間を賑わせた事件だ。雪奈さんのように、宗教被害者の中には記憶に残っている者もいる。まさかその当事者が目の前にいるとは、思いもしなかったはずだ。雪奈さんの驚き具合も、その表情を見れば十分に伝わってくる。

 突然聞かされた事実に、雪奈さんは暫く声も発さずに僕を見つめている。何て言えばいいのか、どんな反応をすればいいのか、困っているらしい。そりゃあそうだ。いきなり親の首を抱いた話を聞かされて、困惑しない者はいないだろう。

 助け舟はこちらから出してやらなくては。

 僕は柵の上に落ちた桜の花びらが風に攫われていく様を見届け、彼女に問うた。


「雪奈さんはお母さんのことを嫌っているんですよね」

「うん。そうだね」

「僕もそうでした。愛してくれた記憶なんて一つもなくて、口を開けば宗教のことばかりで、反発すれば暴力を振るう。顔も見たくないほどに嫌いで、大嫌いで、死んでほしいとすら思っていました。だから、母が死んだ時も、別に悲しくはなかったんです」


 だけど。

 言って、僕は自分の両手を見下ろした。


「少し重い母の首を抱きしめて、静かになった母を見て、思ったんです。一度でいいから──愛してるって、言ってほしかったって」


 柵から手を離した僕は広げていた掌をグッと握りしめた。胸に広がったのは、僅かな痛み。それを心地よいとすら思いながら、僕は罪悪感を孕んだ笑みを作った。


「あんなに嫌っていたのに、もう聞くことができなくなってからそう思ってしまった……雪奈さん」


 言葉数少なく僕の話に耳を傾けていた雪奈さんに身体の正面を向け、僕は彼女に言った。


「僕はあなたに、後悔してほしくないんです。欲しい言葉は、相手が生きているうちに貰ってほしい。あなたと話して思いました。今の雪奈さんには、母親に対して未練がある。そうじゃないですか?」

「……」


 僕の指摘に、雪奈さんは押し黙った。

 認めたくないのだろう。憎むほどに、記憶から消し去りたいと願うほどに嫌っていた母からまさか、愛してほしかったなんて。未練があるなんて、屈辱に思うことだろう。自分から忘れる選択をして、今更なんて。

 その気持ちはよくわかる。けど、雪奈さんには心当たりがあるはずだ。演技では隠し通すことができないほどの動揺を、他でもない彼女が一番理解しているはず。母の命が危ないと知って、心を揺れ動かした事実を。

 口を閉ざし続けた雪奈さんはやがて両手の拳をグッと握り、僕を少し睨んだ。


「どうして、蒼二君にそんなことがわかるの」

「わかりますよ。だって──」


 失礼を承知で、僕は雪奈さんの顔を指さした。


「あの時のあなたの顔は──母に愛してほしかったと思った時の僕と、同じ表情をしていましたから」

「……はぁ」


 苛立っているような表情をしていた雪奈さんは僕の言葉を聞き、肩を脱力させて柵を掴んだ。


「確かに、そう思っているのかも。子供は親に愛してもらいたいものだからね」

「なら──」

「でも、駄目だよ。蒼二君」


 掴んだ柵に寄りかかり、雪奈さんは悲しみの感情を含んだ声で言った。


「やっぱり、駄目。勇気が出ない。顔も声も憶えてない、子供の私に酷いことをしたことしか知らない人に会いに行くのは、やっぱり怖い。身体が憶えてるのかな? 会いに行くって考えただけで、身体が震えるの」

「雪奈さん……」

「それに、さ」


 自分の胸に手を当て、雪奈さんは自嘲気味に言った。


「今の私は薬を飲んでた時の強い私じゃない。昔から何も変わってない、臆病で魅力のない私なんだよ。こんな惨めな姿を見せたところで……」

「そんなことないですよ」


 それ以上は言わせない。僕は雪奈さんが紡いだ言葉を途中で遮った。


「魅力がないなんて言わないでください。少なくとも僕は、今の雪奈さんを魅力的な女性だと思っていますから」

「……お世辞が上手だね」

「本心ですよ」

「じゃあ、主にどの辺りが?」


 雪奈さんは言ってみてと言わんばかりの視線を僕に向ける。それに、僕は彼女を見つめながら答えた。


「色々ありますけど、一番は……素直に、弱いところを見せてくれるところです」

「……それ、魅力なの?」

「十分に魅力ですよ。知っていますか? 男って生き物は案外、弱いところを隠さず見せてくれる女性が好きなものなんです。護りたくなる人を、好きになる傾向がある」


 雪奈さんの視線を真正面から受け止めながら答えると、彼女は少し笑った。


「蒼二君。何だか、最初に会った時と随分キャラが変わったね。何もかもがつまらないみたいな顔してたのに、いつのまにか、そんな恥ずかしいことも真顔で言えるようになるなんて」

「そうかもしれませんね。けど、目的のためには恥も捨てるって、決めたので」

「その目的っていうのは、私をお母さんのところに連れていくこと?」

「恩返しって言ったほうがいいです」


 掌に落ちて来た桜の花びらを指先で摘まみ、様々な角度からそれを眺めた後、僕はそれを手放して言葉の続きを口にした。


「雪奈さんは僕に、忘れていた楽しいって気持ちを思い出させてくれました。人生で大切なものを、取り戻してくれた。だから、その大きな恩に報いたいんです」

「……変な人だね、蒼二君は」

「かもしれませんね。……雪奈さん」


 声質を真面目なものに変えた僕は隣の雪奈さんに片手を差し出した。


「僕が傍にいます。だから──ほんの少し、勇気の一歩を踏み出しませんか?」


 その問いかけに、僕が差し出した手を見つめたまま、雪奈さんは口を閉ざした。

 今この瞬間、僕も勇気を振り絞った。普段ならば絶対に口にしないような言葉も送った。行動もとった。笑われるかもしれない、お節介と拒絶されるかもしれない。そんな不安は全て心の奥底に沈め、覚悟と決意に従って動いた。

 頼む。手を取ってくれ。僕の勇気を無駄にしないでくれ。

 自分勝手な願望が胸の奥から次から次へと湧いてくる。時間の経過に伴って、祈るような気持ちで雪奈さんの答えを待った。

 そのまま、どれくらいの時間が流れたのだろう。恐らくは数十秒という短い時間だろう。けれども体感では数十分にも感じる、不思議な時間。それを経て、雪奈さんはクスっと笑った。


「おかしな人だね、蒼二君は」

「すみません」

「謝らないでよ。私は、蒼二君がそんな人で良かったと思ってるんだからさ……ふぅ」


 自分の胸に手を置き、心を落ち着かせるように深呼吸をした雪奈さんは、決意を固めた凛々しい表情を作り──そっと、僕の手を取った。


「我儘言ってごめんね。でも、うん。少しだけ──勇気出して見るよ」

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