第25話 再会

「まさか、本当に雪奈が折れてくれるとは思わなかったよ」


 都内某所の総合病院。その正面玄関前でタクシーを降りた直後、驚きと嬉しさの籠った声が鼓膜を震わせた。走り去っていくタクシーを見送った後に声がしたほうを見ると、そこにあったのはスーツを着た夢咲さんの姿。口元の微笑からは彼が上機嫌であることが窺える。いや、口元だけではない。僕と雪奈さんに向ける表情全体が、どことなく嬉しそうに見えた。


「ありがとうな、四乃森君。雪奈をここに連れてきてくれて。本当に、感謝してるよ」

「いえ、僕はそんな……雪奈さんが勇気を出してくれただけですから」


 礼を言われるほどのことはしていない。と、僕は夢咲さんにそう返した。

 雪奈さんが勇気を出すと僕に言った後、僕はすぐに行動に移した。夢咲さんへと連絡を取り、雪奈さんの母が入院している病院の住所を教えてもらい、タクシーに乗り込み病院まで向かった。車内で病院のホームページを調べて見たところ、面会の時間はギリギリ。ゆっくりと話す時間を設けるのであれば、日を改めたほうが良かったかもしれない。

 けれど、僕は日を跨がせたくなかった。勇気というものは永続性のあるものではない。雪奈さんの勇気と覚悟が揺らぎ、薄れてしまう前に、何としてでも会わせたかったのだ。当初は今から行く必要はないんじゃないかと雪奈さんも言っていたけれど、僕が説得すると納得してくれた。自分自身、この決意がいつまで持つかわからないから、と。


「かなり緊張してるみたいだな。雪奈」

「……そりゃあ、ね」


 夢咲さんに言われた雪奈さんは小さな声で返した。

 緊張するな、というほうが無理な話だろう。今の雪奈さんはきっと。人生で一番と言っていいほどに緊張しているはずだ。終始落ち着かない様子で深呼吸を何度も繰り返している。それでも、全く心を落ち着かせることはできない様子だが。


「雪奈さん、大丈夫ですか?」


 心配を含んだ声をかけると、雪奈さんは微かに笑って頷いた。


「大丈夫だよ。勇気出して会うって、自分で決めたからね。少しだけ、緊張してるだけだから。心配しないで」

「無理だけは、しないでくださいね」

「うん。ありがとう」


 そのやりとりを最後に会話を切り上げ、僕たちは正面玄関の自動ドアを潜り、病院内へと入った。前を歩く夢咲さんが受付で面会希望を伝え、必要な手続きを完了させる。そしてエレベーターへと乗り込み、4階を示すボタンを押した。直後、微かな駆動音と共にエレベーターは上昇運動を開始したが、狭い空間内は静かなままだ。誰も言葉を発さない。僕と雪奈さんが緊張しているのは勿論のこと、恐らくは夢咲さんも、少なからず緊張しているのだろう。娘と元妻が、上手く話すことができるのかという不安も抱えているはずだ。

 落ち着かない雰囲気が充満する空間内でエレベーターの停止を待つこと、十数秒。それは到着を知らせる音と共に停止し、僕たちは開かれた扉から廊下に出た。その間も僕たちの間に会話はなく、静かな廊下には足音が反響するだけだ。他の病室からも声は聞こえない。空間内は、居心地の悪い静寂に包まれていた。

 足音を響かせながら歩き進み、やがて前を歩く夢咲さんがとある病室の前で足を止めた。


「ここだ」


 夢咲さんが手を伸ばした先にあったのは『703』という部屋番号を示す数字が書かれた札。

 どうやら、この部屋に雪奈さんの母は入院しているらしい。

 スライド式の扉、その取っ手を掴んだ夢咲さんはそれを開く前に、こちらへ視線を寄越した。


「私が先に入る。二人は、私が呼んでから入って来てくれ」

「うん。わかった」


 雪奈さんの返事と僕の頷きを確認してから、夢咲さんは病室の扉を開けて中へ入っていった。音もなく閉じられた扉。それを暫しの間見つめた後、僕は雪奈さんの背中を擦った。


「大丈夫ですよ、雪奈さん。きっと、雪奈さんが不安に思っているようなことにはなりませんから」

「……そうだね。ありがとう」


 元気づけようと、不安を和らげてあげようとした僕に、雪奈さんは頷きを返した。それ以上の言葉は返って来ない。今の雪奈さんにはそんな余裕がないのだろう。心身の緊張に耐えることで精いっぱいであり、その他のことに気を回すことができない状態。それは隣にいる僕には、はっきりと伝わってくる。病院の前、正面玄関にいた時よりも、ずっと気を張り詰めていた。

 そんな雪奈さんの背中を、僕は無言で擦り続ける。気休めでもいい。少しだけでも、彼女の緊張が和らぐように。

 そして──。


『いいぞ』


 扉の向こう側、病室内から夢咲さんの入室許可を意味する声が聞こえた。どうやら、準備は完了したらしい。


「雪奈さん」

「うん……行こっか」


 僅かな間を空けた雪奈さんは自分の胸に手を置き、最後の深呼吸を行った後──意を決した表情で扉をスライドさせ、室内へと足を踏み入れた。

 一人で入院生活を送るには十分過ぎると言える広さと設備を兼ね備えた病室。ソファやテーブルには見舞い客が渡したと思しき物が多く置かれており、特に机上に置かれた籠は言ったフルーツは独特の甘い香りを漂わせている。

 そんな室内の最奥、外気を取り入れる開かれた窓の傍に設置された白いベッドの傍に、夢咲さんは立っていた。彼は両手をポケットに突っ込み、少し細めた目でベッドを見下ろしている。そこに横たわっている、一人の中年の女性を。

 僕と雪奈さんはベッドに近付き、同時にその人物を視界に収めた。

 一目で重病者であるとわかる姿をしていた。健康な人間では考えられないほどに細い腕には数本の管が接続されており、頭部にはニット帽が装着されている。血色は悪く、呼吸も浅い。今にも死神の迎えが来てしまうのではないかと思ってしまうほど、健康とは程遠い外見だった。

 末期の癌に加えて、モルヒネも投与しているという話だ。もしかしたら、こちらの声もほとんど聞こえていないかもしれない。

 この人が、雪奈さんの……。

 無言のままベッドで眠る女性を見ていると、夢咲さんがベッドの柵に手をつき、目を閉じている彼女に顔を近づけて声をかけた。


春実はるみ。雪奈が来たぞ」


 夢咲さんが耳元でゆっくりと呼びかけて数秒。雪奈さんの母は横たわった状態のまま閉じていた瞼を持ち上げ、その瞳を、ベッドの傍に立つ雪奈さんへと向けた。視線を向けられ、雪奈さんは一瞬肩を震わせる。それが驚きから来るものなのか、はたまた身体が憶えているという恐怖から来るものなのか、定かではない。視線を少し下に向ければ、彼女の指先も微細に震えていることがわかった。

 少し退室し、落ち着かせたほうがいいだろうか。

 雪奈さんの様子に心配した僕はそう考え、彼女の手を取ろうと自分の左手を伸ばした。が──。


「お、お母さん……」


 痙攣していた指先に力を込めた雪奈さんはグッと拳を握り、肩の震えを強引に止め、力の籠った目で注がれる視線を受け止めた。かつて眼前の人物に対して使用していた呼称を口にし、そのまま数十秒、互いに逸らすことなく視線を衝突させ続ける。

 最初に思った通りだ。薬なんかなくたって、やはり雪奈さんはとても強い。

 怯えや恐怖に打ち勝った雪奈さんを見やり、僕は口元に笑みを浮かべた──と。


「……」


 呼吸に等しい、言葉としての形を持たない声。呻いただけにも思える声を発した雪奈さんの母は次の瞬間、管が接続された右腕をゆっくりと持ち上げた。なけなしの力を振り絞っているらしく、持ち上げられた腕はそれを維持するのも辛そうなほどに痙攣している。震えるそれの手先、その先にいるのは勿論──雪奈さんだ。何かを訴えるような意思を感じる。

 しかし、病魔に冒され衰えた筋力では数秒程度しか維持することができなかったのだろう。十秒という時間も経過せず、持ち上げられた腕はだらりと弛緩してベッドの上に落ちそうになる。その前に雪奈さんは慌てて、しかし痛みが走らないようにそっと、両手で支えた。


「……ぁ」


 そして──何故か、雪奈さんは母の手を自分の頬に当てた。力なく開かれた掌を自分の頬に押し当て、その感触を確かめるように何度も、何度も、その手を頬に擦り付けた。

 一体、何を?

 その光景を見ていた僕と夢咲さんが疑問の視線を向ける中、雪奈さんは母の掌を頬に押し当てたまま動きを止め──瞳から、一粒の涙を流した。


「嗚呼……これは、憶えてる」


 そんな呟きの後、次から次へと涙は止まることなく溢れ、零れ落ち、二人の手を濡らしていく。けれどもそれを拭うことはせず、雪奈さんはジッと母の顔を見返しながら、震える声で言った。


「この感覚は、感触は……身体が、憶えてるよ──お母さん」


 悲しみだけではない。嬉しさも含まれている雪奈さんの声は空気に溶けて消え、耳に残るそれは彼女の嗚咽に塗り替えられる。

 涙を流し、嗚咽を零し、母の手に縋る雪奈さんを見て、僕は思わず微笑んだ。薬で記憶を失くした今、顔も声も思い出せない状態になっても、憶えているものがあったらしい。恐怖を身体が憶えているのならば、優しさや温もりも憶えているもの。僕は雪奈さんと母親の間に温かなものもあったと知ることができて、少しだけ嬉しくなった。

 良かった。僕の行動が裏目に出なくて。雪奈さんが、欲していたものを手に入れることができて。

 安堵の息を吐いて胸を撫で下ろし、退室するため静かにその場を離れた。もう、雪奈さんの傍にいる必要はない。彼女を傷つけるものはなく、護る必要がないから。ここから先は家族の時間だ。第三者が傍にいるわけにはいかない。

 家族水入らずの時間、楽しんでください。

 扉の前で一度振り返った僕は雪奈さんに向けた言葉を胸中で呟き、病室を後にする。

 扉が閉まり切る直前──雪奈さんの『私もだよ』という言葉が、僕の耳にも届いた。

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