第23話 迷い

 入眠当初は寝苦しそうに顔を顰めていた雪奈さんの表情が穏やかに変化した頃、僕は彼女の傍を離れてリビングへと戻った。やることは勿論、サイドテーブルの上に出しっぱなしにしていた茶菓子や紅茶の片づけだ。流石にこのまま放置しておくわけにはいかない。今は室内害虫が多く出てくる時期なので、その原因となるものは早々に片づけなくては。

 自分の食べかけのモンブランは胃に押し込み、雪奈さんのものはキッチンにあったサランラップを拝借して冷蔵庫の中へ保存。紅茶は勿体ないがシンクへ流し、サイドテーブルはウェットティッシュで拭く。

 後片付けは十分程度で終わり、僕は上に何も置かれていないサイドテーブルを視界に収めて『よし』と小さく呟いた後、その前にあったソファに腰を落として天井を仰いだ。

 考えることは、先ほどのやりとり。かなり難しいことになった。雪奈さんは今、かなり頑固になっている状態。虚勢を張っているのはわかる。本心から母の死を喜んでいるわけではない。動揺も見られ、母との再会については拒絶以外に思うところがあるのだろう。僅かではあるが、行ってもいい、という考えがあるのは見える。

 けど、意固地になっている人間は簡単に意見を曲げない。今の雪奈さんが僕の言葉に、説得に、耳を傾けてくれるかは正直のところわからない。僕が何を言っても嫌だと突っぱねられてしまったら、僕にはもうどうすることもできない。

 白い天井から雪奈さんが眠る寝室へと視線を向けた。

 僕個人としては、会いに行ったほうがいいという意見は変わらない。こうして静かな空間で状況を一人で整理したことで、気が付いたこともある。

 母親に会うことは、雪奈さんが薬から脱却するために必要なことでもあるのだ。彼女が服用を続ける理由は、弱い素の自分を隠し、誰からも愛され認められる自分になるため。そしてもう一つが──心の傷となっている母親の存在を忘却するためだ。

 逆を返せば、素の自分を認め、愛する存在との出会い。そして、母親という存在を受け入れることだ。忘れたいと思っている母親を、忘れなくてもいいと雪奈さんに思わせることができて、初めて彼女は薬物からの脱却、そのスタートラインに立つことができるのだ。

 だが……。


「あくまでも、雪奈さんが会いに行く決断をしてくれればの話になるけど」


 無意識の内に、僕は溜め息を吐いた。

 容易なことではない。他者からの声に傾ける耳の前に壁を作ってしまった雪奈さんは、簡単なことでは話を聞こうとしてくれないだろう。一体どんな言葉をかければ彼女は心を動かしてくれるのか、どうすれば壁を取り払ってくれるのか。そもそもの話、第三者である僕がこの問題に関わっていいのか。他人の家の事情に首を突っ込むのは、良くないことなのではないか。無理に説得して会わせた結果、更に関係がこじれることになるのでは……。

 壁に掛けられた時計が時を刻む音だけが響く空間内に身を置き続けていると、不安や迷いが次から次へと浮かんでくる。雪奈さんの意見を尊重すると言っておきながら、今の僕は思い切り自分の主張を押し付けているだけではないのか。

 モヤモヤとした気持ちが心を満たす。きっと、このままここで何時間と悩んだところで、心模様が晴れることはない。雪奈さんが眠りから覚め、再び話し合いの席に着いたところで、何の結果も残せずに拒絶の選択を突きつけられて終わってしまう。何とか、雪奈さんには後悔しない選択をしてもらいたいのに……。


「……」


 頭の中で迷いと不安がグルグルと渦巻く中、気が付けば、僕はiPhoneを取り出し、その画面に指を這わせていた。そしてとある人物の連絡先を選択し、通話の呼び出しボタンを押してスピーカー部分を耳に当てる。

 僕から電話をかけるなんて、いつぶりだろう。

 独特な音色の呼び出し音を聞きながらそんなことを考え、待つこと数秒。スピーカーから、聞き馴染みのある男の声が響いた。


『お前から電話してくるって珍しいな、四乃森』

「ごめん、川村。今、ちょっといい?」


 声の相手は僕の同期である川村だ。ここ最近では、一番連絡を取っている相手と言っていい。基本的に通話をする時は彼からかけてくることもあり、声には小さな驚きが含まれている。


『なんだよ、相談ごとでもあるのか?』

「まぁ、そんな感じ」

『ふぅん……女絡みと見た』

「……なんでわかるんだ」


 僅かな情報どころか、ほとんど会話すらしていない状態で言い当てた川村に驚きと呆れの混じった声で尋ねる。なんでそんなに察しが良いんだ、と。それに対し、川村は面白そうに笑って言った。


『メンタルブレイクして休職中の男が東京行った途端に楽しそうになって、その上相談があるって同期に連絡してくる時点で女が関わってんのは察しがつくだろ、常識的に』

「そんな常識、僕は知らない」

『それなりに遊んでる奴の中では常識なんだよ。男の傷を癒すのは、いつだって女だからな。その逆も然り』

「鋭すぎる」


 何処でそんな勘を培ったのか、教えて欲しいと思うくらいだった。


『んで? 相談ってのは何なんだよ』

「……深刻な話ってわけでもないんだけど」


 そう前置きし、僕は相談内容──僕が悩んでいることについて話した。個人名や薬など、雪奈さんが勝手に無関係の人間に話されたくない事柄は伏せて。

 東京で知り合った女の子の母親が亡くなられてしまいそうなのだけど、その子は面会を拒否している。会うように説得してくれと、その子の父親に頼まれたが、彼女はとても強く拒絶しており、説得が上手くいかない。僕としても母に会うのは彼女のためになるし、会ってほしいと考えている。けどそもそも、彼女が強く拒否していることを強要するのはよくないことではないのか、他人の家庭の事情に第三者である僕が介入しても良いものか。そう悩んでいる、と。

 川村は僕が話し終えるまで、それを黙って聞いている。

 面と向かってではなく端末越しではあるけれど、話を聞いて貰うだけで、僕の心はとても軽くなったような気がした。乗せられていた重石が取り払われたような、そんな気分になった。


『東京に遊びに行っただけで、大層なことに巻き込まれてるな』

「まさか自分もこんなことになるとは思わなかったよ。まぁとにかく、今は誰かの意見が欲しくてさ」


 話を聞き終えた川村の反応に『どう?』と問うと、悩ましそうな声がスピーカーから聞こえた。


『つっても、俺もそんな状況になったことがねぇから的確なアドバイスとかはできねぇなぁ』

「うん、まぁ……だよね」


 思わず、僕は笑ってしまった。

 普通だ。今の僕のような経験をする人なんて、世の中そうそういないだろう。だからこそ、僕はこうして何が正解かわからずに悩んでいるのだ。

 川村には無理な相談をしてしまった。僕は『ごめん』と謝り、迷惑をかけたと通話を切ろうと考える。が、それを実行する寸前、


『個人的な意見なんだけどよ』


 川村は言った。


『お前、弱気になりすぎじゃね』

「ぇ」


 予想外の言葉に僕は面食らったように黙る。その間に、川村は続けた。


『お前はその女の子に、母親に会ってほしいんだろ?』

「う、うん」

『だったら、その目的を果たすために強気でいけよ。相手が一度拒否したからって弱気になるな。目的を果たすために自分の全てを出し切れ。場合によっては嘘も使え。いいか? どんなことでもそうだけど、死ぬ気で努力した奴が一番の目標を達成できるんだよ」


 説教にも似た川村のアドバイスに、僕は探し物を見つけたような気分になった。

 目的、目標。そのために死ぬ気で動く。確かにそうだ。今の僕はとても弱気になり、目的を簡単に諦めようとしていた。それではだめだ。到達に試練はつきもの。思い出せ。僕が一番に果たしたい目的は──。

 それを再認識し、僕は発破をかけてくれた川村にお礼を告げた。


「ありがとう、川村。頑張ってみるよ」

『おう。その話、こっちに帰ってきたらゆっくり聞かせろよ』

「うん。わかったよ」


 それを最後に通話を切り、僕は電源を落としたiPhoneをポケットに押し込み、寝室のほうを見やった。

 伝えよう。僕の気持ちを包み隠すことなく、全て。

 決意を胸に宿し、僕は視線の先にある部屋へ──雪奈さんの下へと、足を進めた。

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