第四章 親子

第20話 ホテルへ帰還

 雪奈さんを送り届ける任務を遂行してホテルに戻った僕はそのまま、近くの薬局に足を運んだ。購入物は止血用のガーゼと口内炎予防薬、それから湿布。殴られた時にできた口内の傷からは出血があり、放置しておくと激痛を生む白い口内炎へと変化してしまう。そうなると痛みでまともな飲食もできなくなるから、早めの対処が必要になる。湿布は……痛む頬に、気休め程度に貼っておく。

 目的の物を手に取った僕はレジへと進み、会計を済ませる。その際、店員が怪訝そうな目で僕の顔を見て来た。痛いとは思っていたがどうやら、傍目から見てもわかるほどの怪我になっているらしい。何処かのチンピラにやられた、とでも思われているかもしれない。第一印象だけで見れば、この怪我を作った相手はそんな感じだったけど。

 他の客や店員から注がれる視線を無視して退店し、ホテルに戻って宿泊部屋へと駆け込んだ。かなり目立つ内出血をしていた頬を鏡で確認し、適当なサイズに切った湿布を患部に貼る。続いて口内の止血を済ませ、備え付けの綿棒で薬を塗りこむ。沁みはしたが、耐えられないほどではない。少しの我慢だ。


「はぁ……」


 大きな溜め息を吐き、僕は着替えもせずにベッドの上へ大の字に寝転んだ。衣服が雨で濡れたのも多少の範囲だ。ベッドに水分が染み込むほどではないので、特に気にしないことにした。

 全身を脱力させ、無言のまま天井を見つめた。


「今日は、災難だったな」


 誰に聞かれることもない呟きは室内に反響した後、空気に溶けて消える。

 災難の理由は主に最後に貰った一発なのだが……それ以外にも、色々なことがあった一日だった。都会の闇とも形容できる薬物バーの存在を知ったり、太陽のように明るいと思っていた雪奈さんが内に抱える闇を目の当たりにしたり、顔を合わせて五秒と経たずにぶん殴られ……それはもう、濃密な一日だった。退屈で淡白な一日を消化し続けて来た僕としては、とても信じられないほどに。

 おかげで身体は疲れている。瞼を下ろせば数分足らずで眠りに落ちてしまいそうだ。コンビニで買った食料には手をつけていないけれど、もう食べるのが面倒くさい。歯を磨き、薬も塗ってしまったので、何かを口にすると二度手間になってしまう。まだ夕方だけど、今日はもうこのまま眠ってしまいたい気分だった。

 寝返りを打ち、何となくiPhoneを起動する。自然な流れで開いたのはLINE、雪奈さんとのトーク画面。前日まで続いていた、文面からも楽しさが伝わってくるやりとりだ。

 十数秒ほどそれを眺めた後に画面を暗転させ、僕は考える。どうすれば……雪奈さんは薬を止めてくれるだろうか、と。

 僕個人の想いとしては、すぐにでも薬はやめてもらいたい。あれは身体に有害なものであり、服用を続ければいつか、取り返しのつかない事態になってしまうから。けど、薬を止めるというのはそう簡単にできることでもない。特に今は、依存している状態。実際にやめるためには、長い時間を要することだろう。言葉だけでやめられるのならば、禁煙で苦労する人はいないはずだ。

 素の自分に対する強烈なコンプレックス。自己評価がとてつもなく低く、そんな自分を周囲から隠すために、雪奈さんはあの薬に縋っている。素の自分を隠し、偽りの自分を全面に押し出せば、皆から好きになって貰えると考えているのだ。

 裏を返せば、素の雪奈さんを肯定し、ありのままで良いのだと彼女が思ってくれれば……依存からの脱却が見えてくるということになる。

 僕はそう考えたのだが……何故だろう。何だか、それだけではない気がする。これまでの雪奈さんを振り返っているともっと別の、大きな原因があるような気がしてならない。それが一体何なのか、輪郭すら掴めていないのだけど──メッセージの受信を知らせる通知音が響き、画面に光が灯った。

 その相手は──雪奈さん。

 眠気が一気に吹き飛んだ僕は慌ててロックを解除し、LINEを開く。そして、送信されたメッセージを見て、肩を落とした。


『雪奈の父です。先ほどは大変申し訳ないことをしました。謝罪と少しお話をさせていただきく思いますので、これから何処かでお会いすることはできないでしょうか?』


 出会った直後に僕を殴り飛ばしたことに対するお詫び……だけではないだろう。文を見るに、他にも目的はありそうだ。

 正直、気は乗らない。印象は最悪なのだ。自分に怪我をさせた相手に対して好印象を抱く者はほとんどいないはずだ。

 けれど、彼は他ならぬ雪奈さんの父親だ。今後の彼女との関係を考えると、無視するわけにはいかない。後々のために、要求を受けいれるべきだ。

 少し悩んだ末、僕はここからほど近い場所にある喫茶店の住所を送信した。

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