第21話 父親
30分後。
「さっきは本当にすまなかった」
指定した喫茶店に到着した僕が席でホットココアを飲んでいる途中、少し遅れて入店した雪奈さんの父親──夢咲さんが、僕の姿を見つけた途端にこちらへ駆け寄り、床に両手と頭をつけた。俗に言う土下座だ。若造に対して中年の男性が、床に頭をつけて許しを乞うている。おおよそ洒落た喫茶店で見かけることのない光景に店内の利用客はなんだなんだと視線をこちらへと向け始める。娯楽物でも見るような視線が注がれ、僕は不快感を覚えて眉を顰めた。
真っ先に謝罪をしたこと自体は認めてあげたい。自分の行いを悪いと思い反省することは、大切なことだから。けど、ここまでのことは求めていない。謝罪が不要とは言わないけれど、こんな注目の的になるようなことは、全く望んでいないのだ。
僕は冷めた目で夢咲さんを見下ろし、勧めた。
「見苦しいので、土下座はやめてください。座ったらどうですか? これ以上、人に見られるような真似はしないでほしい」
「あぁ、悪いね」
土下座を止めて立ち上がった夢咲さんは僕の対面の席に腰を落とし、注文を取りにやってきた男性店員に珈琲を注文。手渡されたお手拭きで両手を拭きながら、湿布を貼った僕の頬を見て苦笑した。
「随分と、酷い怪我になってしまったみたいだな」
「……」
こんな面にしたのはあんただろうが。という言葉を飲みこみ、僕は無表情のまま夢咲さんに言った。
「こんな見てくれになってしまったので、今日はもう何処にも行きたくなかったんですよ」
「いや、本当に申し訳ない。さっきは少し、気が動転していたんだ。いるはずの雪奈がおらず、帰ってきたと思ったら見知らぬ男と一緒で、深く考えることもなく行動してしまった」
「別にもういいです。謝罪は受けましたから。それで──」
手元のココアから立ち込める白い湯気を見つめ、僕は夢咲さんに尋ねた。
「話っていうのは? あのメッセージ的に、謝罪だけではないですよね?」
「勿論、雪奈のことだ──あぁ、ありがとう」
店員が運んできた注文の珈琲を受け取り、それを一口啜った後、夢咲さんは話し始めた。
「少しだけど、あの子から話は聞いたよ。娘が世話んなったね」
「いや、世話をしたというか……」
寧ろ、僕のほうが世話になっている。雪奈さんとの出会いがなければ、僕は東京での日々を退屈に過ごす羽目になっていただろう。それを考えれば今日のことなんて、恩返しにもならない。
「……今日は成り行きで助けることになっただけなので、別にお礼はいりません。雪奈さんには色々とお世話になっているので、当然のことをしたまでというか」
「過程や事情はどうでもいい。父親としては、娘を助けてくれたという結果が重要なんだ。礼は言わせてほしい」
「はぁ」
「まぁ、礼をするどころか君には拳を突き立ててしまったんだが」
「だから、いいですって」
夢咲さんの自虐的な台詞にそう返した。
殴られたこと自体に思うところはあるけれど、一度謝罪は受け取ったのだから、これ以上話題にあげる気はない。子供じゃないんだ。いつまでも引き摺るのは大人として恥ずかしいことだ。つい先ほどとは言っても、過去は過去。水に流そう。
「私はね、少し嬉しいんだ」
しみじみと、夢咲さんは珈琲を見つめながら言った。
「雪奈は君のことをとても信頼しているように見えた。幼少の経験からか、人と距離を置きがちだったあの子にも信頼できる相手ができたことが、親としては嬉しい。同時に、寂しくもあるんだけどねぇ」
「親離れができ始めているのは、良いことだと思いますよ」
「あぁ。いつまでも縋られるよりはずっと良いだろう。けど、今は娘の成長を喜ぶよりも心配のほうが大きい……特に、今日のことはね」
ふぅ、と肺に満ちていた空気を吐き出し、夢咲さんはやや掠れた声を震わせた。
「本当は今日、雪奈は私と会うはずだったんだ。家のことで少し話があってね。雪奈もそれは承知していたはずだ。なのに……今日、予定の時間に家に行っても、あの子はいなかった。書き置きもなく、電話やメッセージを飛ばしても連絡は取れず。いよいよ警察に相談しようかと考えていたら、君と一緒に帰ってきたんだ」
両手を組み、夢咲さんは真剣な眼差しを僕に向けた。
「さっき雪奈とは少し話をしたんだけど、あの子はとても疲れている様子だった。いや、疲れているとも少し違う。酷く気分が悪そうで、落ち込んでいるようで、見ていてとても心配になる。あんな雪奈は初めて見たが、どれだけ聞いてもあの子は何でもないと言って事情を話してくれなくてね。……あの子と一緒にいた君なら、何か事情を知っているんじゃないかと思ったんだ。もし何か知っているようなら、教えてくれるとありがたい」
「……」
すぐに言葉を返すことはせず、僕は少しの間沈黙した。
雪奈さんが内に抱える秘密は、他人である僕が勝手に明かしていいものではない。夢咲さんの様子を見るに、雪奈さんは父親にも隠してきたのだろう。素の自分を。そして──理想の自分を作るために服用している薬のことも。
肉親であっても、いや肉親だからこそ、知られたくないという思いは強いのかもしれない。話によれば、人は家族に一番迷惑をかけたくないものらしい。雪奈さんがずっと胸に隠してきた秘密を、偶々秘密を知ったに過ぎないだけの僕が、彼女の許可も取らずに口にしていいはずがなかった。
言えない。僕は首を左右に振った。
「申し訳ないですけど、それを僕から言うことはできません。例え相手が肉親であったとしても、彼女の事情を勝手に話すわけにはいかない」
「……どうしてもか?」
「はい。僕は、雪奈さんを裏切りたくはないので」
「そう、か……」
「言えることとしては」
納得していない様子で渋々引き下がろうとした夢咲さんに、僕は続けて言った。
「雪奈さんを……娘さんを、信じてあげてください。今の彼女は色々と考えて、思い悩んで、苦しんでいます。簡単に悩みを打ち明けることもできない状態です。特に肉親である貴方には心配をかけたくないと思っているんです」
「……」
「けど、いつか。心の整理が付いた時には、雪奈さんのほうから話してくれると思います。彼女も、ずっと胸の内に隠し続けようとは思っていないはずです。どうかその時まで……待っていてあげてください。父親ならば、娘を信じて」
今の僕に言えるのは、これだけだ。
雪奈さんが抱えているのは精神的な問題。無理に問い質すような真似をすれば、彼女の心は今以上に傷ついてしまう。大切なのは、雪奈さんが自発的に打ち明けることだ。そして恐らく、雪奈さんが抱え込んだ秘密を父に打ち明けるのは、全ての問題が解決した後だろう。もう大丈夫、と心の底から言えるようになって、初めて話すことができる。
現状、夢咲さんにできることは何もない。ただ自分の娘を信じて待つ以外に。
……ここで雪奈さんの秘密を全て開示してしまえば、他にも選択肢は見つかるのかもしれない。暫くは大学も休学して自宅治療に専念するとか、精神病院に行くとか。より最善の選択を見つけることができるのかもしれない。けど、僕は雪奈さんの意思を尊重したい。
それに、約束した。誰にも言わないでほしいという雪奈さんの懇願を受け入れたのだ。たかだか一時間程度で、それを破るわけにはいかない。
「……フフ」
不意に、夢咲さんが笑った。
「何か?」
「四乃森君、だっけ」
「? はい」
「年齢は?」
何の脈絡もなく年齢を尋ねられ、その質問の意図を理解できずに困惑するが、僕は深く考えることなく答えた。
「21です」
「娘と同い年なのに、随分と達観している」
「そうですか?」
「あぁ。一般的な21歳はまだまだ世間を知らない小僧だけど、君は立派な大人の一員に見える。……疲れが見える目といいね。多くの苦労を味わった人生を送っていると見た」
「……まぁ、それなりにですけどね」
こちらを観察するような夢咲さんの視線から逃れるように、僕は俯き左の上腕を掴んだ。それを見て何を思ったのか、はたまた何も思うことはなかったのか、夢咲さんは珈琲を啜り、窓に映る店内を見ながら言った。
「性別は違うが……少しだけ、昔の雪奈に似たところがある」
「主に、どんなところが?」
「年齢の割に大人びて見えるところ……いやそれよりも、目が似ている。明るい人生を歩んできたものとは違う、弱い光を宿した目だ」
「へぇ……」
口元に微笑を浮かべて、僕はカップに口をつけた。
感性は遺伝するのかわからないが、親子揃って同じようなことを言っている。僕の目に、共通点を見出している。雪奈さんに言われたことを、まさか彼女の父親にも言われることになるとは思わなかった。
「君を見ていると、思い出すよ」
夢咲さんは過去を思い出すように、遠い目をした。
「雪奈には、大変な人生を歩ませてしまった。本来与えられるはずの、母親からの愛情を与えることができず……それどころか、辛い思いをさせてしまった。心の傷を創るような経験を」
「確か、奥様とは離婚されていたんですよね。雪奈さんから聞きました」
「あぁ。まだ、あの子が8歳の頃だよ」
肩を落とし、溜め息を吐き、夢咲さんは弱い力で拳を固めた。
「最近も殺人事件やら何やらで話題になっていた、ルーファス神教会。元妻は、雪奈が5歳の時に入信したんだ。何がきっかけだったのかはわからないけどね。それから、家庭は壊れた」
「何となくは、話に聞いてます」
「雪奈はそこまで話したのか……知っての通り、高額な献金をさせたり、法外な値段で教典を買わせたりと、信者から金を巻き上げるのが奴らの手法だ。それに加えて二世信者を育てるための教育も強要する。その中には、幼い頃から定期的に鞭や棒で子供を殴るというものがあった。雪奈にとって母親は必要だろうと思い暫くは我慢してきたんだが、雪奈に暴力を振るい始めて、私は離婚に踏み切った。これ以上は耐えられないとね。本当に……カルトは碌でもない」
額に手を添え、うんざりした様子で夢咲さんは首を振った。そんな彼に、僕は尋ねる。元妻の現在について。
「元奥様とは、今も連絡を?」
「宗教の奴隷になってしまったとはいえ、彼女は雪奈の肉親だからね。一応、互いの連絡先は交換していたよ。ほとんど連絡は取っていなかったけど……最近は少しずつ、頻度が増えている。いや、増えていたというべきか」
「?」
どうして過去形に言い直した? その質問をする前に、夢咲さんは僕に人差し指を立てて見せた。
「四乃森君。一つ、頼まれてはくれないか」
「内容によります。何でもかんでも引き受けることはできません」
「安心してくれ。雪奈のことだ」
そう前置きし、夢咲さんは内容を告げた。
「今日……いや、明日でもいい。できる限り早い内に、雪奈へ母親に会うよう説得してほしいんだ」
「母親? それは──あまりにも酷なことなのでは」
雪奈さんの心に浅くない傷をつけた相手である実の母親に会え。それは彼女のトラウマを掘り起こす行為に他ならない。心身共に成長したとはいえ、幼少の頃にできた心の傷は癒えるものではない。信仰を強要し、時には肉体すら傷つけた相手だ。彼女にとっての実母とは、まさしく悪魔のような存在だろう。
実の父親は娘の傷を抉るような真似をするものではない。いきなり僕を殴り飛ばすほど大切に思っている実の娘に対して、そんな試練のようなものを強いるとは、一体何を考えているのか。
「大丈夫だ」
もしかしたら、僕は心情が顔に出ていたのかもしれない。夢咲さんは僕の視線を真正面から受け止めて言った。
「元妻はもう宗教を脱会してる。それに鞭やら棒やらで殴ることは愚か、まともに立つこともできない状態だ」
「! どうしてそんな状態に──」
「癌だよ」
両肘を机につき、夢咲さんは強引に作った笑みを顔に貼り付けた。
「末期の子宮頸癌でね。開けたらもう、駄目だったらしい。あんまりにも痛みが酷かったようで、今はモルヒネ打って最期の時を待ってんだ。で……モルヒネ使う少し前から、うわ言のように雪奈に会いたいって言ってるんだよ」
「……雪奈さんは拒否しているわけですか」
夢咲さんは頷いた。
「会ってくれと頼んだが、虫が良過ぎるって一蹴されたよ。会いたくないの一点張りだ」
「でしょうね。僕も、彼女の立場ならそう言うと思います」
「勿論、雪奈の気持ちはわかる。自分に傷をつけた相手に会いたくないってのは当然だ。だが、元妻は後悔してるんだよ。自分が雪奈にしたことを悔いてる。間違っていたのは自分だって、さ」
「だとしても、雪奈さんの意思を尊重するべきだと思います」
「いや、まぁそうなんだが……」
珈琲の入ったカップをティースプーンでかき混ぜながら、夢咲さんは声量を小さくして言った。
「雪奈には、私と同じ目に遭ってほしくないんだ」
「? 同じ?」
「そ。私も母親とは仲が悪くてね。死に目にも会うどころか、会いたいって声も無視していたんだ。で、葬式くらいは来いって親父にどやされていったんだけど……死顔見て後悔したんだ。なんでもっと会っておかなかったんだろうって。どれだけ仲が悪くても血の繋がりは消えない。雪奈には後悔してほしくないから、会える間に会ってほしいんだよ。死んだら、二度と会えないから」
「……」
死んだら二度と会えない。その言葉が、やけに大きく聞こえた。
当然の話だ。人は……生物は皆、死ねば終わりだ。動くことも、声を発することもできなくなる。亡骸は火にくべられて骨と灰になり、姿形も消え去るのだ。俺も両親を亡くした経験があり、人以上に死についての理解を持っている。確かに、死んだ後にあって後悔するのは、どうしようもない。やらずに後悔するより、やって後悔しろとは、いつの時代もよく言われていることだ。
僕が言ったところで雪奈さんが考えを変えるとは思えないけれど……言うだけ言っておこう。
少し考えた末、僕は夢咲さんの頼みを了承する頷きを返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます