第19話 秘密の墨

「……見つかっちゃったか」


 僕の視線と声を受けた雪奈さんは口元にうっすらと笑みを浮かべ、とても落ち着いた様子で自分の足首に触れた。

 ケシの果実を模った紋様。記憶に新しいそれは、嫌悪感と忌避を同時に抱かせる、悪の教団の象徴だ。二人で都内を歩いた時に、見たものと同じ──。


「ルーファス神教会のシンボル、ですよね」

「うん。そうだよ」

「雪奈さん、貴女は──」


 信者なんですか?

 その言葉を発する前に、雪奈さんは首を左右に振った。


「安心して。私は信者じゃないから」

「そうなんですか」

「うん。入信していた時期はあったけど、その時も本気で信仰していたわけじゃないんだ。ただ、母親に無理矢理入信させられただけ」


 雪奈さんの表情が更に曇った。深い溜め息を吐き、嫌気が差したように眉根を寄せる。

 彼女を見て、そういうことかと僕は納得し、同情した。雪奈さんが母親と上手くいっていないことは知っていたけれど、そんな事情があったとは。残酷で残念なことだけど、仲違いをしている原因が宗教であれば、誰にも仲裁などできない。人は古くから宗教の違いによって対立し、戦争を繰り返してきた。どれだけ話し合ったとしても、軋轢が解消することはない。寧ろ下手に仲を取り持とうとすれば、例え母娘であったとしても殺し合いが起きる。最悪の結末を誘発することになってしまう。

 悲しいが、最善なのは互いに不干渉を貫くことだ。


「私の母は神教会にどっぷりのめり込んで、凄い金額の献金までし始めてね。それが原因でお父さんとは離婚した。で、私はそのままお父さんに引き取られて、それ以降母とは連絡も取っていない。もう……赤の他人だから」

「会いたいとは、思わないんですか?」

「思えない。ずっと嫌いだったから。本当に……存在を忘れたいって思ったくらいに」


 言って、雪奈さんは口を閉ざした。

 宗教に家庭を壊された被害者。その心の傷は、経験していない者には想像することすらできない。雪奈さんはとても辛く、苦しみ、真っ当な愛情を与えられずに育ったようだ。そんな幼少期であれば、彼女が歪んだ価値観や人格、欲求を持って成長したことには納得がいく。彼女ほど周囲からの評価を気にし、視線を意識し、多種多様な愛と好意を求める者はそう多くないだろう。危険な薬に手を出してまで、周りから愛されようとする者は。

 理解できた。雪奈さんが抱えているものも、薬を使う理由も。けど、心苦しいけど……僕は雪奈さんの身を第一に考えた助言をしなくてはならない。


「薬は……これからも?」

「やめなくちゃいけないのは、わかってるんだけどね」


 でも。そう言って、雪奈さんはベッド端のシーツを握りしめた。


「怖いんだ。皆が好きになったのは、薬で作った私。今の私なんて……きっと、皆に受け入れて貰えないから」

「……」


 雪奈さんの弱音に、僕は咄嗟に『そんなことない』と言いかけた口を噤んだ。

 根拠のないことは言えない。僕の脳裏には、雪奈さんの前から立ち去った二人の男の姿が浮かぶ。今の雪奈さんを見て、彼らと同じような反応と行動をする者がいないと断言することはできない。普段とは正反対の彼女に、失望を覚えるものは少なからずいるだろうから。

 不甲斐ないことに僕は結局、ホテルの女性スタッフが洗濯と乾燥を済ませた雪奈さんの衣服を届けるその時まで、気の利いた言葉の一つもかけてあげることができなかった。

 お願い、このことは誰にも言わないでほしい。入れ墨と、薬のことは。

 後に鼓膜を揺らした雪奈さんの懇願するような声に頷くことしか、できなかった。


     ◇


 それから数十分後。

 雪奈さんがホテルスタッフによって届けられた衣服に着替え、僕が忘れかけていたシャワーと着替えを済ませた後、僕たち二人はタクシーに乗り込んだ。向かう先は、雪奈さんの住まい──赤木学院大学の近くにあるというマンションだ。シャワーと衣服の乾燥を済ませた以上、ホテルに滞在し続ける理由はない。認められたのはあくまでも一時的な滞在であり、長居は遠慮するべき。それに雨風の厳しい街中を短時間とはいえ全力で走った雪奈さんは肉体的に疲労しており、それ以上に、薬物の離脱症状で精神的に不安定になっている。しっかりと会話することはできていたが、端々に心の安定さ欠けている部分が見受けられる。安心できる自宅に帰り、心身共に休むべきだ。

 ホテルへの行きと同じく、無言のままの車内。

 既に慣れてしまった空気に内心で苦笑しつつ、帰宅ラッシュで混雑している公道を進むこと、更に数十分。


「あ、そこです」


 雪奈さんが運転手に指さして見せたのは、左斜め前方にあるマンションだ。見たところ十階はありそうな高さがあり、外壁も入口もとても綺麗。自動ドアの先に見えるエントランスも立派で、セキュリティはしっかりしているように見えた。家賃が高そうだなと真っ先に思い浮かんでしまうのは、日々金銭を稼ぐために働く労働者の性というやつか。

 良いところに住んでいるようで。

 胸中で呟き、運転手に少し待っていてほしいと伝え、僕と雪奈さんは路肩に一時停車したタクシーから下りた。

 その直後。


「雪奈──ッ!」

「! お父さん」


 入口から聞こえた声に其方へと顔を向けると、一人の中年男性がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。彼は心配と安心の入り混じった表情をしている。雪奈さんの言葉を聞くに、彼は彼女の父親らしい。

 一応、挨拶はしておくべきだろう。果たして今の僕と雪奈さんが、友人と呼べる関係なのかは、定かではないけれど。


「……っ! お前──雪奈に何をしたんだッ!」

「は? ぇ──」


 僕が挨拶をしようと歩道に足を踏み入れた瞬間、共にいた雪奈さんを見て一瞬顔を顰めた男性は、一転して怒りの表情を作り──困惑する僕の顔面を殴り飛ばした。拳が突き立てられた頬に衝撃と痛みが走り、脳が揺れて視界がブレる。足元のバランスを崩した僕は後退しながらも何とか倒れないように足へ力を込め、背後のタクシーに手を添えて身体を支えた。

 痛みが響く頬に片手を当てる。口内を切ったらしく、舌先には血の味が広がった。

 いきなり何するんだ、この人。

 舌打ちし、僕は肩を上下させて荒い息を吐く男性を睨みつけた。


「何やってるのお父さんッ! いきなり殴るなんて──」

「こいつに何かされたんだろ! でないと、お前がそんな顔をするはずがない!」

「何もされてないよ! 寧ろ助けて貰ったのッ!」

「そんなわけが──」


 小雨の中、声を荒げて言い争う親子を見つめて、僕は大きく息を吐いた。言葉の一つでも返してやろうと思ったが、あの様子では僕の声なんてほとんど聞こえないだろう。それに、雪奈さんの前で汚い言葉は吐きたくない。誤解は雪奈さんが頑張って解いてくれると期待して、僕はこのまま去るとしよう。


「だ、大丈夫ですか? 警察呼びます?」

「いや、いいです。親子喧嘩に巻き込まれただけなので。乗るので、扉開けてください」


 心配そうに窓を開けて問いかけて来た運転手に答え、僕は車内へと乗り込む直前、雪奈さんに声をかけた。


「雪奈さん」

「蒼二君! ごめんね! うちのお父さん、昔から早とちりしやすくて──」

「少なくとも」


 雪奈さんの言葉を遮り、僕は真剣な声音で告げた。


「僕は今の雪奈さんに失望したりしていないです。それだけは、理解していてほしい」

「ぁ……」


 雪奈さんの返事を聞くことなく、僕はタクシーへと乗り込みその場を離れた。今の彼女が僕の言葉を真正面から受け止められるとは思えない。けれど、時間がかかってもいい。ゆっくりと、それを受け止めてくれれば。今の彼女に必要なのは、彼女自身を肯定し、認めてあげることだから。


「……痛いな」


 車窓に反射する自分の顔を見つめながら、僕は痛みの引かない頬を撫でた。

 父親って、ああいう存在なのか。と、娘の身を案じて激怒した彼の怒声を、思い浮かべながら。

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