第16話 彼女の姿

 バーを出た頃の外には小雨が降っていた。

 頭上を見上げれば灰色の雲が広がっており、吹き付ける冷たい風が身体を撫でる。気温は少し下がっただろうか、肌寒さを感じた。

 今、街に降り注いでいる雨は少ない。傘を差している者も見受けられるが、街を歩く者の多くはこの程度では雨具など使わないというように、何食わぬ顔で小雨に身体を濡らしていた。彼らの衣服や髪には、小さな雨粒が付着している。

 濡れることを厭わずに道を歩く者たちから視線を外し、僕は西の空を見た。そこには、頭上に広がるものよりも数倍暗い雲が確認できる。すぐにとは言わないが、二時間も経過する頃にはこの一帯も大雨に見舞われるだろう。今は傘がなくとも問題ないが、先のことを見据えて、コンビニで傘を買っておいたほうがいい。雪奈さんとの待ち合わせ時、全身がずぶ濡れになっているなんて格好悪すぎる。

 そう考えた僕は付近にあるコンビニを目指し、小雨の降りしきる街中を進んだ。


「……凄い場所、だったな」


 冷たさを孕んだ微細な雨粒が肌を打つ感覚に身震いした後、僕は無意識の内に胸中の呟きを声として零した。

 衝撃は大きく、動揺は未だにある。日本で最も多くの人が集まる場所には、輝かしい一面だけではない闇が潜んでいることは情報として知ってはいたけれど……実際に見るのと、聞くのでは、受け止め方が大きく異なる。網膜に刻まれた光景を思い出すと、鳥肌が立った。醜悪で、人の汚い一面が凝縮された空間に……僕は眉間に皴を寄せた。

 あれは坩堝だ。人の闇や汚点が一つの場所に詰め込まれた、禁断の箱。平穏な人生を送りたいと願う者は決して近付いてはならない禁足地。立ち入るだけならまだしも、一度誘惑に負けてしまえば最後、明るい人生とは別れを告げることになる。

 立ち止まり、今しがた歩いてきた道を振り返った。

 ここを引き返せばまた、あの禁断の店に辿り着く。けれど、僕はもう二度とあの店に行くことはないだろう。僕に破滅願望はない。危険な薬で身も心も、人生も、台無しにする気はないから──iPhoneがLINEのメッセージを受信した通知音を響かせた。


「誰──雪奈さん?」


 ロック画面に表示されていたメッセージの相手は雪奈さんだった。『新着のメッセージがあります』と記されているため、内容は確認できない。しかしこのタイミングでのメッセージということは、十中八九この後に予定している遊びについてのことだろう。

 延期か中止か、もしくは早くに集まろうというものか。三択を脳内に浮かべつつ、僕はロックを解除してLINEアプリを開いた。


『ごめん。ちょっと体調悪くなっちゃったから、今日の遊びはなしにしてもらってもいいかな』


 トーク画面に表示された雪奈さんからのメッセージは、中止を告げる文だった。そのことに落胆しながらも、僕はそれ以上に大きい彼女の体調を案じる気持ちに従い、返信した。


『了解です。体調、大丈夫ですか?』


 送って後に『体調悪いって連絡来てるのに、大丈夫って尋ねるのは変じゃないか?』と自分の返信内容に違和感を抱きながら、彼女からの返信を待って画面に視線を固定する。が、数分が経過しても雪奈さんからの返信はない。僕が送ったメッセージに既読の文字はついているのだが、一向にメッセージが飛んでくることはなかった。

 これまでの傾向として、雪奈さんは既読をつければすぐに返信を返してくれていた。質問のメッセージに対して既読をつけたまま放置するのは初めてであり、何だか彼女らしくない。体調が悪いと言っていたので、そのメッセージを送った直後に画面を開いたまま寝落ちしたのだろうか、と考えられる可能性を思い浮かべた──時。


「! 雨が」


 降り続いていた小雨の雨粒が大きくなり、路上駐車されている車のボンネットや地面を叩く音が強くなった。頭上を見上げれば、先ほどよりも雲の色が濃くなっている。予想よりも随分と早い。本降りになってきた今、このまま傘もなく街中を歩くことは困難だ。

 幸いにも近くにあったファミリーマートの軒下へと駆け込み、僕は肩や腕に付着した雨粒を手で払い落して入店した。

 店内には僕と同じように雨から逃れてきた人が多くおり、窓から外の様子を眺めている。雨粒は時間の流れに比例して大きくなった。これは当分止まないだろう。

 悠長にしていると傘が在庫切れになってしまう。僕はそそくさと傘の売り場へと足を運び、陳列されたそれを一本手に取った後、幾つかのおにぎりと総菜を持ってレジへと向かった。会計をしている間にも、続々と雨からの避難者が入店する。運が悪いなどと悪態を吐く中年客とは違い、高校生くらいの若者はびっくりしたね~などと楽しそうに笑っている。年を取ると怒りやすくなるというのは、本当のことなのかもしれないな。

 代金を電子決済して自動扉を抜け、僕は半透明な傘を差して大粒の雨が降る街中を歩き始めた。向かう先は新宿駅。最終的な目的地は宿泊しているビジネスホテルだ。もう外に用事はなく、雨の中を歩いて何処か遊びに行こうという気分でもない。この後にあった予定もなくなってしまったし、これ以上外出している意味がないのだ。


「まいったな。これじゃ、客引きができねぇよ」


 通り過ぎた居酒屋と思しき店の前で舌打ちして嘆く男性の姿が視界の端に入った。曇天を見上げて苦々し気な表情をしている彼の手には、飲み放題と書かれた看板。それを見れば、彼がキャッチであることはすぐに理解できた。確かにこの雨では、勧誘業務を遂行することは難しいだろう。

 彼を横目で一瞥し、思い出す。先ほどのバーで、僕も勧誘をとても沢山受けた。荒川と店主は店にある薬物の効果などを懇切丁寧に僕へ説明し、少しやっていかないかと誘ってきたのだ。少しくらいなら気持ちよくなるくらいで済む。この快楽を味わうことなく人生を終えるなんて勿体ない。なんて、甘い誘惑を僕に何度も仕掛けて来た。

 正直、雰囲気に流され手を出そうとした瞬間もあった。彼らの勢いに負けてしまいそうになったことは、事実としてある。けれど、最終的に僕はそれらの誘惑に打ち勝つことができた。最後まで拒絶し、店を出ることができた。

 雪奈さんに失望されたくない。その一心で、断り続けた。

 多くの人がそうであるように、彼女もきっと、薬物に手を出すような人間は嫌いに違いない。僕は雪奈さんに好かれよう、などと大それたことは思っていない。けれど、嫌われたくないとは思っている。失望と嫌悪を向けられるような人間には成り下がりたくないのだ。

 僕が誘惑に打ち勝つことができたのは、雪奈さんのおかげともいえる。今度会ったら、お礼を言おう。きっと彼女は、何のことだと首を傾げるだろうけど──。


「おい、見ろよ。女の子だぜ」


 不意に雨音に混じって鼓膜を揺らした声に、僕は足を止めて右斜め前方を見た。そこにいたのは二人の若い男であり、彼らは建物と建物の狭い隙間──人が一人、辛うじて入ることができる空間を見ていた。


「何やってんだろ。ちょっと声かけて──」

「馬鹿やめろ!」


 建物の隙間に入っていこうとする一人を、もう一人が慌てて止めた。


「絶対にやめろ!」

「何でだよ。ちょっと心配だし、あの子めっちゃ可愛いぞ?」

「薬物中毒者だ、どう見ても」

「うぇ! マジかよ……」

「関わるべきじゃない。変なことに巻き込まれるぞ」


 一連の会話の後、そそくさと二人の男はその場から立ち去って行った。

 薬物中毒者とか言っていたけれど……誰か、そこにいるのだろう。

 本来ならばやめるべきだ。先ほどの若者が言っていた通り、望まない出来事に巻き込まれるような行為は控えたほうがいい。

 けれど、この時の僕は負けてしまった。そこにいる何かに対する、興味と好奇心に。薬物を拒絶した時とは違い、あっさりと、誘惑に敗北した。

 そして、それを視界に収めた瞬間──僕は言葉を失い、目を見開いた。建物の間、とても細い通り道のような場所には、一人の女性がいた。雨に打たれて全身を濡らし、しかしその場を動こうとはせず、汚れた地面にジッと座りこんでいる彼女。

 陰鬱で、何か只ならぬ雰囲気を纏う、その女性は──。


「……雪奈さん?」

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