第17話 本性

「──ッ!」


 僕の声を聞いた途端、眼前の女性は驚いた様子でこちらに顔を向けた。


「……そ、蒼二君」

「はい。やっぱり、雪奈さんですよね」


 僕の名前を呼んだ彼女──雪奈さんに頷きを返し、僕は彼女のほうへと歩み寄った。全身を雨で濡らした雪奈さんは、以前の溌剌とした姿からは想像もできないような様子になっている。冷たい雨風に晒される寒さで全身を震わせており、動揺を宿しているのか、こちらを見る瞳も揺れている。輝かしい笑顔など皆無。怯えているのか、表情は引き攣っているようにも見えた。

 雪奈さんはこんなところで何をしているのか。

 そう質問しようと、僕は彼女の頭上に傘を掲げ、視線を合わせるために膝を折った。だが──。


「! これは……?」


 声帯を震わせる寸前、雪奈さんの足元に転がっていたものが視界に入り、僕はそれを拾い上げた。

 小さな白い箱だった。耐久性は乏しく、軽く力を込めるだけで変形してしまう箱。その表面には『フルクスRB18』とネームペンのようなもので記されており、軽く振ると、小さな音が鳴る。中に何か入っているようだ。

 これは雪奈さんが落とした物だろうか。片手に持った箱を彼女に手渡そうと、僕は手元から顔を上げる──と。


「──ッ」

「! 雪奈さん──ッ!!」


 突然立ち上がった雪奈さんは地面を蹴り、駆け出してしまった。持っていた荷物を置き去りにし、僕から逃げるように。

 彼女が僕から距離を置きたがる理由はわからない。けれど、今の雪奈さんは明らかに普通とは異なる状態だ。そんな彼女を、一人にすることはできない。

 傘を畳んだ僕は雪奈さんが残した荷物を肩に担ぎ、彼女が去った方向へと走る。傘も差さずに建物の間から飛び出した僕に通行人が怪訝そうな目を向けるが、それらの視線は全て無視する。今は気にしてなんかいられない。とにかく速度が重要だ。雪奈さんに追い付くこと以外は考える必要はない。

 濡れる路面を走り、道行く人を躱して駆ける。息が切れようと、道の窪みに躓こうと、速度を落とすことなく走り続けた。


「クソ──ッ!!」


 雪奈さんが横断した歩道の信号が、僕が入る前に赤に変わってしまった。ここが車量の少ない田舎ならば構わず突っ込むかもしれないが、ここは多くの車両が行き交う都心。そんな自殺行為はできない。けれど、立ち止まっているのは時間の無駄だ。何とか、追い続けないと。

 周囲を見回した僕は少し先に歩道橋を発見し、そこに向かって再び走る。急な勾配の階段を駆け上がり、眼下に見える車の群れを一瞥し、今度は逆に駆け下りる。息も絶え絶えになるけれど、根性で堪える。今は一秒の時間も無駄にできないのだ。体力の回復を目的とした休憩は、速度を僅かに緩めるだけに留める。完全に立ち止まることはしない。

 そして、社会に出てからほとんど経験してこなかった全力疾走を続けて、どれくらいが経過しただろうか。


「ハァ……ハァ……」


 表通りと比較して急激に人口密度が減少した道に入ったところで、僕は遂に歩みを止めた。追跡を止めたわけではない。その必要がなくなったのだ。僕の視界──右斜め前方には、僕と同じように足を止めた雪奈さんの姿があるから。息を切らし、建物の壁に片手をついて大きく肩を揺らしている。彼女も、限界が来たらしい。


「ハァ……雪奈、さん……」


 乱れに乱れた呼吸を整えながら雪奈さんの名を呼び、彼女のほうへと歩み寄る。もう、彼女は僕から逃げようとはしなかった。逃げる気力はもうないらしい。その代わり……今にも泣きそうな顔を、僕のほうへと向けた。

 絶望が垣間見え、同時に何かに怯え、恐怖しているようにも見える。雪奈さんのその表情は、以前にも一度見たことがあった。二人で美術館を訪れた時に、少しだけ。今の彼女は、あの時に見たものと同じ表情をしていた。


「ごめんね、蒼二君……」


 傘を広げると、雪奈さんは瞳から大粒の涙を零し、謝罪の言葉を零した。


「ごめん……本当に、ごめんなさい」

「雪奈さん……」


 それが一体何に対する謝罪なのかわからない。彼女に一体何があったのか、何故逃げたのか、どうしてそんな表情をしているのか。聞きたいことは山ほどある。けど、ゆっくりと話をするには、ここはあまりにも冷える。身体も濡れているし、こんな状況で話なんてできるはずもない。まずは風雨の影響を受けず、身体を温めることができる場所に移動するべきだ。

 が……走り過ぎた。流石にもうこれ以上、長距離を歩く気にはなれない。

 全身を、特に足に襲ってきた疲労感に小さな溜め息を吐き、僕はiPhoneを取り出してタクシーを呼んだ。乗車予定者二名共に、ずぶ濡れであることも伝えて。

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