第三章 秘密

第13話 一報

『急なんだけど今日の夜、一緒にバッティングセンターに行かない?』


 不意に鳴り響いた通知音にiPhoneの電源を入れた僕は、ロック画面上に表示されていたLINEのメッセージに笑みを浮かべた。

 現在の時刻は午後一時。場所は新宿駅前の広い歩道。流石は乗降客数世界一の駅といったところか、駅前の歩道ですら他区と比較して明らかに人が多い。スーツ姿のビジネスマンや、ラフな服装の若者も多くいるのだが、中でも今日はスーツケースを手に歩く外国人が目立った。欧米や中東、アジア、色々な地域から来日した観光客が母国の公用語で仲間と楽しそうに会話をしながら道を歩いている。彼らの声に耳を立ててみると、歌舞伎町、という単語が幾度も聞こえた。良好な治安で有名な日本の中で、劣悪とまで称される治安の場所。それは観光客の間でも周知の事実らしく、彼らの興味を惹いているようだ。最近では行政に設置された柵の中にいるトー横キッズと呼ばれる若者たちを、観光客がまるで見世物を見るように眺めている写真がSNSを中心に出回っていた。今やあの場所は、他では見られないものが見られる、一種の観光名所になっているらしい。

 聴覚に集中させていた意識をiPhoneの画面に戻し、僕はLINEアプリを開き、一件の未読マークがついた雪奈さんとのトーク画面を開いた。


『いいですよ。何時くらいですか?』

『7時で大丈夫そ? 渋谷のモヤイ像合流で!』

『OKです。到着したらまた連絡しますね』

『了解! じゃあまた!』


 雪奈さんの返信にスタンプを送り、僕はiPhoneの画面を暗転させた。

 二人で出掛けた日から3日。その間に雪奈さんと直接会うことはなかったけれど、今のようなメッセージでのやりとりは頻繁にしている。次に予定がつく日を教え合ったり、行きたい場所をそれぞれ出したり、更には雪奈さんのほうから僕が一人でも楽しめるような場所をピックアップして教えてくれたり。そのおかげもあり、この3日感も退屈することはなかった。彼女に教えて貰った場所へ行ったり、店へ出向いて料理を食べたりと、無駄に暇な時間を過ごすようなことはほとんどなかった。大多数の人が僕の行動を聞けば、とても充実した一日の過ごし方だと言うだろう。

 けれど……やはりというべきか、僕一人ではそのほとんどを楽しむことができなかった。どんな場所に出向いても、何を食べても、雪奈さんと巡った日と同じような充足感を得ることはできなかったのだ。何か物足りない、何か違う、心が満たされる感覚はなかった。

 やっぱり、雪奈さんと一緒でないと楽しくない。

 行動の果てに充足感を得られない度に、僕はそう強く思った。自覚はある。認めざるを得ない。僕の心は、彼女という存在に強く惹かれている。叶わない恋はしないと、高望みはしないと決めていたはずなのに、たった数日の短い期間でその決意は壊れてしまった。多くの人間から求められる異性を好きになったところで、恋が成就する可能性は低いというのに……勝率の低い戦いに身を投じることになるとは、東京に来る前の僕は考えもしなかった。


「……思春期かよ」


 自分自身に呆れの呟きを零した。

 まるで、子供のような恋をしている。新宿を訪れた理由は雪奈さんに勧められたラーメンを食べに行くためであり、今はその道中。そして、彼女からメッセージが飛ぶたびに心を躍らせるなんて……本当に中学生男子のようだ。しかも、本来なかった雪奈さんとの予定が出来、機嫌を良くしている。恋は人を変えるとは言うけれど、ここまで露骨で顕著な変化があるのだな……と、何処か他人事のように思ってしまった。

 今の僕を数日前の自分が見たら、一体どんな反応をするだろうか。十中八九、小馬鹿にしてくるだろうな。

 なんてことを考えながら、僕は道半ばで止めていた足を再び動かし、目的地であるラーメン屋へと向かおうとした──丁度その時。


「ん?」


 マリンバの着信音がiPhoneから鳴り響いた。誰だ? と思いながら画面を見ると、そこには『川村』という文字。僕の同期だ。つい最近も着信があり、電話で会話をしたのだが……どうしたのだろう。何か、職場のほうで問題でもあったのだろうか。

 疑問を抱きつつ、僕は画面に這わせた指をスライドして応答し、端末を耳元に近付けた。


「もしもし?」

『おつかれ四乃森。どう? 元気?』

「おかげさまで。ていうか、前に電話したばっかじゃん。何かあったの?」

『そっけないな。数少ない同期が体調崩した仲間の心配して電話かけてやったのに』「恩着せがましいな。切ろうか?」

『冗談だよ』


 楽しそうに笑い、川村は僕に尋ねた。


『で、どう? ちゃんと休めて……なんかそっちうるさくね?』

「そりゃあ、今新宿にいるから。周りに人多いし、雑音は入るよ」

『新宿? あぁ、マジで東京行ったんだ』

「勧めたのお前だろ」

『そうだな』


 直後、スピーカーから車の扉が閉まる音が聞こえた。それを聞いて、僕は今の川村の状況を予想し、尋ねる。


「そっちは今から仕事?」

『逆だよ、退勤』

「は? まだ一時だよ?」


 齎された回答に僕は驚き、現在の時刻を口にした。

 うちの会社で午後1時に退勤することは通常あり得ない。半休制度はなく、体調を崩している時ですら定時までやれと言われる始末。夜勤明けかとも思ったが、夜勤の提示は朝6時。そこに加えて朝9時まで強制的な残業があるけれど、流石に午後1時まで残業をすることはない。あっても12時までだ。

 何があって、こんな時間に退勤を? 僕の疑問に、川村は溜め息を一つ挟んで言った。


『これから警察署に行くんだよ。呼び出されてる』

「……人でも殺した?」

『俺じゃねぇよ。うちの作業長が覚せい剤で捕まったんだ』

「……本当に言ってる?」

『嘘じゃねぇよ』


 すぐには信じることが出来ずに確認すると、川村は苛立った様子でそう返した。


『どうもうちの作業長は職場でも吸ってたらしくてさ。同じ現場の俺たちに聴取へ協力してくれって警察に言われたんだよ。今まで吸ってること自体知らなかったから、あんまり言えることないと思うけど……ま、職場での様子とか言うくらいだわ』

「おつかれさん。用件はそれ?」

『そ。会社でこんなことあったぞっていう報告──あ、そうだ。お前、今新宿にいるんだよな?』

「え、うん」

『丁度いい。忠告を送ろう』


 車のエンジンがかかる音を響かせながら、川村は忠告の内容を告げた。


『警察の人から聞いたんだけど、作業長はどうも東京で覚せい剤買ったらしいんだわ。特に新宿ってそういう話多いし、気を付けろよ?』

「ご忠告どうも。タクシーの人にも気をつけろって言われたわ」

『やっぱそっちの人も警戒してんだな。他県からの観光客とか、よくカモにされてるらしいし』

「気を付けるよ」


 既に一度勧誘を受けている、とは言わなかった。ただでさえ倒れて心配をかけたのに、これ以上、心配の種になりそうなことは言いたくなかったから。それに、僕はNOと言った。身を滅ぼすような誘いは、はっきりと断ることができる。


『でも安心したわ』


 不意に聞こえた川村のそんな言葉に、僕は問い返した。


「なにが」

『お前がちゃんと休めてるみたいで。お前の声、なんか明るいもん』

「そう?」

『いやマジで。普段の死にかけた鶏みたいな声とは大違い』

「普段の僕はどんな声してるんだよ」


 川村の妙な例えに僕は笑って返した。

 自分の声が他人にはどう聞こえているか、自分では中々知ることができない。自覚はなかったのだがどうやら、気分だけではなく声にも影響が出ていたらしい。普段の僕を知る川村から齎された、新しい発見だった。

 それを最後に通話を切り、僕はiPhoneをポケットに押し込んだ。道端で随分と時間を使ってしまった。目的のラーメン屋は14時で昼の営業が終わるということらしいので、少し急いで向かわないと。

 体重を預けていたガードレールから腰を浮かせ、僕は軽い足取りで先を急いだ。

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