第12話 都の夜景を眼下に

 時間は流れ、太陽が地平線の彼方に姿を隠し終える直前の午後六時。


「もうすっかり陽が暮れちゃったね」


 窓の外に広がる街の景色、そして夕暮れと夜が交じり合った色をした空を眺めながら、雪奈さんはしみじみと言った。その横顔には何処か、哀愁が感じられる。

 現在地は都内を一望することのできる東京の象徴──東京スカイツリー。エレベーターを利用して展望回廊へと上がり、そこから混凝土の街を鑑賞している。人気の観光地ということもあり、夕暮れ時の今も多くの利用客が視認できる。男女の比率はほぼ同じ。男女が一組になり共に行動していることが多く、恐らくはカップルだろう。彼ら彼女らも僕や雪奈さんと同じように、ガラスの向こうに広がる景色を眺めている。情報不足だったが雪奈さん曰く、ここはデートスポットとしても有名らしい。

 他の利用客の観察をやめ、僕は再び夜景の鑑賞に戻る。

 世界を照らす天の恵みが消えた街には膨大な数の光が灯り、人と夜の世界を明るく照らしていた。街灯、車のヘッドライト、建物の照明、店の看板と、光源は数え上げればキリがない。

 地上数百メートル上空から見る街は、まるでジオラマのようだ。あらゆるものが小さく、とてもちっぽけで、簡単に壊れてしまいそうな印象を受ける。特に公道を走る車は本当に玩具のようだ。

 昼夜問わず、普段は見上げるほどに大きなあらゆる建築物を見下ろすことができるこの場所は──都内で最も高いここは、観光スポットとして人気を博して当然の場所と言える。普段は見ることのできない光景を、目の当たりにすることができるのだから。

 地上とは異なる見え方の街を一望し、ふと、僕は隣に立つ雪奈さんに尋ねた。


「雪奈さん。体調のほうは大丈夫ですか?」


 美術館での一幕を思い浮かべながらん問うと、彼女は呆れ笑いをした。


「もう、心配性だなぁ。大丈夫だよ。あのあと喫茶店で休ませてもらったし、身体はもう全快。完璧でパーフェクトだよ」

「なら、いいんですけど」


 僕は注意深く彼女の表情を観察しながら言葉を返した。

 確かに、今の雪奈さんは体調が悪そうには見えない。元気溌剌とは言わないまでも、健康的なことが窺える。顔色も良く、瞳の揺れもない。何かに怯え、不安になっているような表情もしていない。大丈夫、という言葉は事実なのだろう。美術館を出た後に喫茶店で長めの休憩を取ったのが良かったのか。

 けど、どうにも安心はできない。僕の脳裏にはあの時の雪奈さんの姿が、鮮明に刻まれている。見ているこちらも不安になってしまう、普通とは言い難い彼女の姿が。

 ただ、心配しすぎるのも良くないという考えがあるのも、また事実。僕はこれ以上身を案じる言葉を送るのはやめ、代わりに、ガラスの向こう側にある景色を見た感想を告げた。


「絶景ですね。何もかもが小さく見えて……非日常を味わっているみたいです」

「いいでしょ、ここ。私も初めて来たときは興奮したよ」


 懐かしむように、雪奈さんは初めてここを訪れた時のことを語った。


「当時は中学生だったんだけど、学校の社会見学でここに来てね? 完成してからまだ日が浅かったから、それはもう皆はしゃいでてさー。男子は特にうるさくて「人がゴミのようだ!」ってお決まりの台詞を連呼してたよ。それ見ながら馬鹿だなーって友達と笑ってた。うわ、なつかしー」

「学校行事でここに来るんですか?」

「うん。都内の学校だと、結構皆来るんじゃないかな?」

「流石東京ですね……」


 地元の中学校と比較し、僕はやや圧倒されてしまった。


「うちの中学校なんて、社会科見学は川とかゴミ処理場でしたよ」

「うおー、田舎って感じがするね……え、何見るの?」

「街から集められたゴミがどうやって燃やされるのかとか、川の歴史とかを現地で勉強させられました」

「……面白い?」

「面白くなかったから、東京の学校は社会見学で面白そうなところに行っているのが羨ましいんです」


 これが地域格差というやつなのだろうか。

 都会と田舎の教育の違いに不平等感を抱いていると、雪奈さんが「そういえば」と、展望回廊の先を指さした。


「丁度あの場所で告白してる男子とかいたよ。当然のようにフラれてたけど」

「社会見学中に告白? 何を考えて……」

「ここは告白スポットとしても人気だからね。ほら、景色が綺麗だし。で、良い場所だったから時間と場所も考えずに勢いで告白して玉砕したって感じ」

「……まぁ、そういう馬鹿みたいなことができるのは学生の特権ですからね」


 何も考えず、勢いだけで告白できる少年の気概が、少し羨ましかった。

 若気の至りという便利な言葉が適用される年齢ならば、多少の馬鹿はいい思い出になるのだろう。大人になると、そうはいかない。周囲からの目や評価、自分への影響など、色々なことを考えて行動しなくてはならない。大人は子供と違って自由ではない。制約が多く、責任もあり、世間体も気にしなくてはいけないのだ。軽はずみな行動は身を亡ぼすことになるため、絶対にできない。いや、告白程度ならば、別に大人もできるとは思うけれど……考えなしの行動は少なくとも、僕にはできない。


「こういうところで告白するなら、やっぱり夜だよね。夜景を見ながらのほうが雰囲気出るし、私がここで告白された時も、全部夜だったよ」

「全部って……一体何度、ここで告白されてるんですか?」

「10回を超えてからは数えてないなー」


 さりげなく恋愛強者である証明の言葉を口にし、雪奈さんはうんざりとした様子で言った。


「デートした後にスカイツリーで夜景を見ようって誘うのって、今からあそこで告白しに行きますって宣言してるようなものだからね。一応ここには来るし、告白の言葉も聞くんだけど……なんか、気持ちが萎えちゃって、全部断ってるんだ。見え見えの下心で好きって言われても嬉しくないし……どちらかというと、私は不意打ちで好きって言われるほうが趣味なんだよね」

「不意打ちですか」

「そ。良くない? 何の脈絡もなく好きって言われたり、キスされたりするの。ドラマとか映画とかアニメとかでも、一番キュンってする。憧れるな~」


 自分の胸に手を当てて趣味嗜好を口にする雪奈さんは、それから数分間、自分が憧れるシチュエーションを語り続けた。桜並木を歩いている時に不意打ちで好きと言われる、客船の甲板でやや強引にキスをされるなど、創作であればかなりの人気を博するであろうものを、熱く話した。

 外見はとても大人びているけれど、内には少女のような乙女心を秘めているんだな。

 新たに雪奈さんの一面を知ることができた喜びに口元を綻ばせ、ふと、僕は彼女が言葉を止めたタイミングで問うた。


「そういえば、雪奈さんはどうして僕をここに連れて来たんですか?」


 このスカイツリーに行こうと提案したのは僕ではなく、雪奈さんだ。彼女は言った。夜景を身にスカイツリーへ行こうというのは、告白しに行きますと言っているようなものだ、と。

 その言葉を頭に浮かべる。いやいや、まさかそんなことは。あり得ない。妙なことは期待するな馬鹿。たった一日一緒にいただけの相手にそんな気持ちが芽生えるわけがないだろう。

 一瞬でも妙なことを考えた自分を否定し、僕は雪奈さんの返答を待つ。と、彼女は少し考えた素振りを見せた後──徐に、自分の人差し指を僕の唇に当てた。


「──好きだから」

「──!」


 その囁くような声と指の感触に息を飲んで目を見開いた。直後、明らかに動揺していることがわかる僕の反応に満足したようで、雪奈さんは笑った。


「冗談だよ、冗談! ただ綺麗な夜景を見たくて来ただけだから!」

「心臓に悪いことしないでほしいです……」

「ちょっとからかいたくなったの。ごめんて、怒らないで」

「別に怒ってないですよ」

「良かった。で、期待はした?」


 揶揄うように尋ねた雪奈さんから視線を外し、僕は眼前のガラスに薄く映った自分の姿を見つめた。隣にいる美しい人とは違う、路肩の石にも等しい男だ。宝石と並ぶと、そのみすぼらしさがより際立って見える。

 期待しなかった、と言ったら嘘になる。あの胸の高鳴りは、間違いなく期待を示す象徴になりうる。けど、僕はその事実を口にすることはなかった。


「釣り合わないでしょう。僕と雪奈さんでは」

「え?」


 ガラスの中の雪奈さんがこちらを向いたが、僕は目を合わせず、続けた。


「雪奈さんは宝石です。色んな人から求められて、綺麗と言われて……順風満帆な人生を掴んだ勝ち組です。対して僕はそのあたりに転がっている石みたいな男ですよ。何もかも上手くいかなくて、自分の外観すら意識する余裕がなくて、ただ生きているだけの底辺です。どう考えても、釣り合わない」


 僕如きが雪奈さんを求めるなんて、あまりにも分不相応が過ぎる。彼女はもっと、素晴らしい人間と結ばれるべきだ。外見も、内面も、学もお金も、何もかもを持っている人と結ばれることができる人間だ。間違ってもこんな、最底辺で日々を生きる僕なんかと一緒にいてはいけない。

 もっと、輝かしい人と──。


「──私はそんなに良い人間じゃないよ」

「え?」


 その声に、今度は僕が驚きと疑問を孕んだ声を零して雪奈さんを見た。普段の彼女とは少し違う、低い声。ぶつかった視線の先にある雪奈さんの目には、何とも形容しがたい濁りがあった。表情に作られた笑みも乾いている。冷笑とは少し違う……奇妙な微笑だった。


「雪奈さん?」


 どうしてそんな表情をしているのか。そんな疑問を浮かべて名前を呼ぶと、彼女は表情を白い歯を見せる明るい笑顔に作り替え、僕の肩に手を置いた。


「釣り合うとか、釣り合わないとか、そういうものは恋愛にはあり得ないと私は思うよ? 貧乏人とお金持ち、美女と野獣、乞食と王族。現実でも物語でも、あらゆる違いがあっても人は結ばれて来たんだからね。もしも仮に恋愛の天秤があって、色々な要素で釣り合っていないとしても、お互いに愛を持っていれば神様が平衡にしてくれるよ。恋愛とは、恋と愛によって成り立つもの。既に恋をしているのなら、あと必要なのは愛だけなのです」

「……うまいことを言いますね」

「でしょ。私、もしかしたら文才があるのかもしれないね」


 イエイ、と雪奈さんはピースサインを僕に向けた。

 実らない恋をするほど僕は子供じゃない。手の届かない場所にある果実を追い求めるほど、理想を追い求めることもしない。けど……こんなにも近くで雪奈さんの笑顔を見て、人柄を感じていると、うっかり恋に落ちてしまいそうになる。ここに連れてきて、夜景と共に愛の告白を行った数多くの男たちの気持ちが、僕にはとても理解できた。こんなにも美しくて明るい女性、男ならば欲しいと思う。焦がれるほど、強く。


「どうだった? 今日一日……楽しかった?」


 雪奈さんの問いに、僕は一拍を空けて答えた。


「楽しかったんだと、思います。少なくとも、こんなに充実した一日は初めてでした」


 遊びも、食事も、移動すらも、一人の時とは比較にならないほどに心が満たされるものだった。あの感覚はきっと、僕が今日という一日を、時間と経験を楽しめていたという証拠なのだろう。長らく感じることのできなかった満足感を、僕は今日という一日に感じていた。

 昨日は退屈でつまらないと感じていた東京を、今日は満喫することができたわけ。それはきっと、誰かと一緒に遊んだからではない。一人でなければ、誰と一緒でも良かったわけではない。


「誰かと一緒に遊ぶと、東京はちゃんと面白かったでしょ」

「はい。凄く、満足できました」


 誰かではなく、雪奈さんと遊んだから、ここまで満足することができました。声にすることなく、僕は胸中でそう付け加えた。

 あくまでも推測でしかないけれど、雪奈さん以外だったらここまで楽しむことはできなかったと思う。彼女の人となりや温かさを傍に感じていたからこそ、素晴らしい一日を過ごすことができたのだと、本気でそう思う。

 無意識の内に、ガラスの中の自分が微笑んでいた。以前は作ることができなかった自然な微笑みが、今はこうして意識せずとも作れている。この事実に、僕は自分自身に呆れてしまった。少し異性と遊んだだけで笑えるようになるなんて、我ながらチョロい男だな、と。

 そんな僕に、雪奈さんは首を傾げた。


「どしたの?」

「いえ。ただ、ちゃんと楽しめたことが少し、嬉しくて……ありがとうございました、雪奈さん」


 充実した素晴らしい一日を齎してくれたことと、僕に楽しさを思い出させてくれたこと。その二つに対する感謝の言葉を述べると、雪奈さんはグッと右手の親指を立て、それを僕に向けた。


「いえいえ。私も凄く楽しかったから、お礼なんていらないよ」

「わかりました。じゃあ、勝手に感謝しておきます」

「フフ、なにそれ。あ、ねぇ蒼二君。こっちにはまだいるんだよね?」

「はい。まだしばらくは」

「じゃあ、また今日みたいに二人で遊びに行こうよ。今日行っていないところで楽しい場所、まだまだ沢山あるからさ」


 雪奈さんからの提案に、僕は内心の喜びを隠して、彼女に確認を取った。


「僕としては嬉しいですし、是非お願いしたいです。けど、雪奈さんは大丈夫ですか? 大学とかあるんじゃ……」

「今は春休みだから大丈夫だよ。長い休みの真っ最中」

「うわぁ、懐かしい単語だ……」


 遠い昔、学生時代を最後に聞くことがなくなった単語に感慨深さと懐かしさを同時に抱いた。

 忘れていた。雪奈さんは大学生という、学生なのだ。社会人には存在しない、長期の休みを定期的に与えられる身分。休み返上で仕事をすることもある僕とは、訳が違う。


「いいですね、春休み。僕らは長くても4日しか休み貰えないですよ」

「悲しくなること言うのはやめよう」


 雪奈さんは肩を落とした僕の背中を軽く擦った。


「辛い思いしながら働いて、本当にお疲れさまって思うよ。だから、ほら。せめてここにいる間は全力で楽しもう? 心配はいらないぜ。自称東京マスターの私が、今日みたいに東京旅行を満喫させてあげるからさ!」

「……よろしくお願いしますね」


 自信満々に宣言した雪奈さんと、僕は拳を合わせるグータッチをした。


 恋人なんて関係は望まない。けれど友人として、彼女との温かな交流がいつまでも続けばいいと、この時の僕は願った。

 彼女が内面に抱える大きな問題を、何も知らずに──。

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