第11話 欠損した絵

「ここが、蒼二君が来たかったところ?」

「はい、そうです」


 池袋駅から環状線に乗り、上野駅を降りてから数分。到着した目的地を前に雪奈さんが僕に尋ね、その問いに、僕は肯定の言葉を返した。

 眼前にあるのは、国立西洋美術館。全体的に角ばった形状をしているそこは、世界的な建築家ル・コルビュジェの作品そのものであり、世界遺産にも登録されている。館内には多くの画家、彫刻家がこの世に産み落とした作品が幾つも展示されており、国内外から観光客が訪れる。他の美術館から借り受けた作品を展示する特別展が開かれていることも多いが、今は特にイベントは開かれておらず、常設展のみとなっていた。

 傾いた陽の光が差し込む入口前の受付で二人分の料金を支払い、僕たちは館内へと足を踏み入れた。


「そういえば、あったね。都内にも、静かで人が少ない場所」

「美術館の中で騒ぐ人は早々いないですからね。クラブみたいに大声で話すと、絶対に注意されます。度が過ぎると出禁になりますし」

「静かに過ごすにはもってこいってことだ」

「えぇ。まぁ、絵に興味がない人にとっては退屈だとは思いますけど」


 声量を落とした小声で会話をし、展示室を歩き進む。館内は閑散としており、殺しているはずの足音がよく反響した。街も、建物も、あらゆる場所が騒々しい都内において、この静寂はとても貴重だ。他の利用客はとても少なく、視認できるだけでも数人程度。近くにある国立博物館には多くの外国人観光客の姿が見受けられるのだが……それは恐らく、刀剣や屏風、浮世絵といった日本美術の結晶が多く展示されているからだろう。そこに人気が集中するのは仕方ないことだ。日本に来たのなら、日本でしか見られないものを見たいと思うものだから。

 階段を上がった先の壁に飾られた大きな西洋画を視界に入れた時、雪奈さんが小さな声で僕に尋ねた。


「私、全然絵画とかわからないんだけど……蒼二君はこういうの好きなの?」

「別にそういうわけでは。正直あんまり興味もないですね」

「え、じゃあなんでここに? とにかく静かなところに行きたかったとか?」

「そういう理由も勿論ありますけど……」


 展示室の先を見つめつつ、僕は告げた。


「この美術館に昔、父が話していた絵があるんですよ」

「……お父さんは絵画好きだったんだね」

「らしいです」


 僕は薄っすらと記憶に残る父の顔を思い浮かべた。唯一と言ってもいい、父との悲惨ではない会話の思い出だ。家のリビングでビール缶を手にした父が僕を膝に乗せ、本に掲載された絵を指さし、昔見たことがあると上機嫌そうに語っていた。半分燃えてしまったのだけど、妙に惹かれる魅力がある。欠けているからこそ、綺麗なのかもしれないな。なんて冗談交じりに言っていた。

 今日、僕はそれを見に来た。その他の絵も大層価値のある素晴らしいものなのだろうけれど、あまり興味はない。流し見する程度で十分だ。僕には絵画の素晴らしさも、画家の意思を汲み取る意味も、絵が持つ素晴らしさもわからない。精々、綺麗で上手い絵だなと思うだけだ。中には子供の落書きじゃないかと思うようなものもあるけれど……芸術というのは、本当に理解できない。

 とはいえ、全く見ずに帰るのでは料金を支払った意味がなくなってしまう。ゆっくりと歩を進めながら、僕は雪奈さんと共に展示された絵画を眺める。モネ、セザンヌ、クールベ。絵画が好きでなくても一度は聞いたことがあるような名前が幾つも記されており、数少ない利用客も、それらの画家の絵の前では一度立ち止まり、じっくりと眺める。絵の素晴らしさなどを理解しているのかはわからないが、恐らく、ビッグネームだからよく見ておこうと考えているのだろう。僕も似たような考えで、それらの絵画の前では足を止めた。

 そして、鑑賞を続けること十数分。


「……これだ」


 幾つかの展示室を抜けた先にあった部屋に足を踏み入れた僕は、眼前に現れた一枚の絵を視界に収めた瞬間、歩みを止めて呟いた。記憶の中にある絵と合致する絵画。間違いない。父が語っていたのは、この絵だ。


「これが、お父さんが言っていた?」

「はい。間違いないです」


 眼前の絵に視線を固定したまま、僕は雪奈さんの問いに頷きを返した。

 クロード・モネ作、睡蓮・柳の反映。およそ1年の修復作業を終えて一般に公開されることになったこの絵は、全体の半分近くが欠損してしまっている。保存環境が悪く、湿気などの影響を受けたと推測されている。本体の近くには推定復元されたデジタル画が展示されており、ここを訪れた来館者は実物とデジタル画を比較しながら鑑賞できるようになっていた。

 僕は実物のほうへと歩み寄り、じっくりと眺める。巨匠によって描かれた部分から、消失してしまった箇所まで、ゆっくりと視線を這わせた。父の心に残り続けた理由を探すために、長い時間をかけて観察する。

 しかし──。


「……全然わからん」


 どれだけ鑑賞しても、父の琴線に触れた理由を知ることはできなかった。

 欠損の激しい絵。これ以上の感想はない。芸術を全く理解できない僕には、この絵が持つ魅力とやらがまるでわからないのだ。一体何が、父の心に残る要因となり得たのか……。


「雪奈さんは、この絵を見てどうです?」

「どうって?」

「何か、こう……心に残るようなものはありましたか?」


 少なくとも、雪奈さんは僕より審美眼というものを持ち合わせているだろう。そう思って尋ねると、彼女は欠損した絵を見つめながら僕の問いに答えた。


「私は……ちょっとだけ、蒼二君のお父さんが惹かれた理由がわかるかも」

「本当ですか?」

「うん。本当だよ」


 視線を僕に移し、雪奈さんは続けた。


「何て言えばいいのかな? 完璧じゃないからこそ美しいというか……ルーブル美術館にあるサモトラケのニケとか、ミロのヴィーナスとか、ああいう名作も一部が欠損してるじゃん? 欠損して尚美しいものに魅力を感じるというか……」

「僕にはわからない感性ですね。どんなものも、完璧こそ最高の姿でしょ」

「物だったら、そうだね。でもさ」


 雪奈さんは一拍を空け、僕に質問した。


「人だったら、ちょっと違う答えになるんじゃない?」

「人ですか」

「うん。例えばね? 私があらゆることも完璧にできる完全無欠な人間だったら……こんな風に、私と一緒に遊びに行ったりできる? 仲良くなりたいって思える?」

「……」


 その問いには、首を縦に振ることができなかった。

 完全無欠で完璧の人間というのは、あまり魅力に感じない。近づきたいとか、仲良くなりたいとか、そういった好意的な感情を向けることができないのだ。どちらかといえば距離を置きたい、遠目から眺める程度に留めたい。と、そんな風に思ってしまう。

 なるほど。雪奈さんの言いたいことが、何となくわかった。完璧ではないからこそ、好意的に受け止めることができる、魅力的に思うこともあるのだと、そう言いたいのだ。

 納得しつつ、僕は否定的な意見を述べた。


「けど、人と物は違いますよ」

「まぁね。芸術品に関しては、私だって蒼二君と同じ感性を持ってるよ。けど、蒼二君のお父さんはそうじゃなかった。完璧ではないところに惹かれたんだと思う。欠落の魅力って言うのかな」

「変な趣味って言いたいです」

「言ってもいいんじゃない? お父さんに遠慮をする子供なんていないんだしさ」

「そうですね」


 雪奈さんの返答に頷きながら、僕は心の片隅に残る違和感について考えた。

 僕の父が、欠落に魅力を感じていた……いや、欠落を愛する人間だったというのは、どうにも納得ができない。もしも仮に、彼がそんな人間だったとしたら──母のことを心底愛していたはずだし、あの事件を起こすこともなかっただろう。


「蒼二君。一つ、聞いてもいいかな」

「何ですか?」

「答えづらい質問だと思うんだけどさ」


 そう前置きし、雪奈さんは僕に尋ねた。


「蒼二君は、ご両親のことあんまりよく思ってないんだよね?」

「はい。そうですね」

「その……どうして、そんな関係になっちゃったの?」

「かなり踏み込んだ質問ですね」

「ごめん。でも、どうしても気になっちゃって」


 申し訳なさそうに言う雪奈さんに、僕は苦笑した。

 無神経、だなんて思わない。この美術館に連れて来た理由が、父親との思い出にある絵を見に来たと伝えている。僕と父が悪い関係であった理由を知りたいと思うのは、ある意味当然のことだ。僕が雪奈さんの立場なら、相手に同じ質問をしただろう。思い出巡りをするくらいなのに、仲が悪かったのはなぜなのか、と。

 これが赤の他人であったならば、そんなこと知ってどうする、教える気はない、と突き放したことだろう。けれど、今の僕には雪奈さんを突き放す気はなかった。とても短い付き合いではあるけれど、既に僕の中には、彼女に対する信頼が芽生えていたから。


「……簡単に言えば、虐待ですね」

「虐待?」

「えぇ。と言っても食事が与えられないとか、雪の降る日にベランダで長時間立たせるとか、そんな酷いものではないです。ただ、仕事や日常で上手くいかないことがあると暴力を振るわれたり、ストレスの捌け口にされていたんです。今も身体には、幾つも傷跡が残ってます」

「……今も痛むの?」

「大半は痛まないですよ。十何年も前の傷ですし。まぁ、中にはたまに痛むのもありますけど……それは、父親とは別件のものなので」


 意識すると微かに痛みを覚える左上腕を押さえ、しかしそれについて語ることはせず、僕は話を続けた。


「母親も、殴られている僕を助けてはくれなかったんです。なので、二人が死んだ時も全然悲しくなかった。寧ろ、もう殴られることもないと安心したくらいです」

「色々と、大変だったんだね」

「そういう星の下に生まれたと割り切るしかないですよ。運がないのは、どうも昔からなので」


 生育環境といい、今の仕事といい、僕は本当に運がない。前世で相当悪いことをし、神様に嫌われてしまったのではないかと思うくらいに。文句を言っても仕方ないことはわかっているけれど……自分の境遇を振り返ると、恨み言の一つや二つ出るのは当然だとも思う。普通の幸せを享受している者たちと比較して、僕はあまりにも恵まれてなさすぎるから。

 ここに来た目的は果たした。これ以上の用事はないし、先を進んで外に出よう。

 と、雪奈さんに言おうとした時。


「──ッ」

「? 雪奈さん?」


 これまで浮かべていた表情とは全く違う、何かに怯えているような強張った表情をしていた雪奈さんに、僕は心配の声をかけた。若干ではあるが、発汗も見られる。瞳孔も僅かに痙攣しているように見え、正常な状態ではないことは明らかだった。

 僕の呼びかけで我に返り肩を揺らした雪奈さんは一瞬後、両手を振って無理矢理作った笑顔を僕に向けた。


「う、ううん! 何でもないよ」

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ、うん。大丈夫。ちょっと歩き疲れただけだから……私、お手洗い行ってくるね」

「え、あ──」


 慌てた様子で言った雪奈さんは足早に自動扉を潜り、その先の階段下にあるトイレへと走っていった。

 明らかにおかしな様子。この場からいなくなってしまった彼女の身を案じ、僕は閉じれられた自動扉を見つめ続けた。

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