第9話 昼食の笑顔

「いやぁ、流石にやり過ぎちゃったね」


 ボウリング場を出た直後。雪奈さんが右手の手首を揉み解しながら、やや疲労の滲む声音で言った。


「途中で休憩を挟んだとはいえ、13ゲームは多かったね。おかげで手首が痛いよ」

「遊びなら、あれくらいやるのが普通なんじゃ?」

「そんなことないよ。普通は多くても7~8ゲームくらい。久しぶり過ぎて、つい夢中になっちゃっただけ」

「へぇ……」


 一度、背後のボウリング場を振り返った。

 一般的なゲーム数の実に2倍近くにもなる回数を投げていると考えれば、手首に疲労が蓄積するのは当然だろう。僕も彼女と同じだけ投げていたので、手首が少し痛い。これは明日になれば筋肉痛になっていることだろう。


「蒼二君、最後のほうはストライクとか取れるになってたね」

「流石にあれだけ投げれば、何となく要領を掴めますよ。ただ、それでも雪奈さんには全然勝てませんでしたけど」

「フフ、長年の経験を持つ私に勝つなんて10年は早いよ」

「みたいですね」


 僕は首を縦に振り、同意を示した。

 流石の腕前というべきか。雪奈さんは疲労が蓄積しているはずの最終ゲームでも200近いスコアを叩き出しており、アベレージは220程と、素人としては凄まじい記録だった。半分以上はストライクで、あんな投球を披露されたら勝つのは10年どころか50年は早いとすら思えてしまう。本気で勝とうと思うなら、日々の時間を犠牲にして練習を積み重ねなくてはならないだろう。

 御見それしました。僕が雪奈さんの腕前を称えると、彼女は隣を歩く僕を見て、尋ねた。


「それで、どうだった? 楽しかった?」

「うーん……どうでしょう」


 腕を組み、僕は首を捻った。


「面白かったとは思います。特にストライクを取った時は、不思議な達成感みたいなものを感じれましたし……ただ、あれが楽しいのかどうかは、判断ができなかったです。心躍る感覚にはなれなかったので」


 自分でもわからなかった。

 ゲーム中は決して退屈ではなかったし、嫌な時間というわけでもなかった。けど、楽しかったと断言することはできない。これを一人でやったのなら、確実につまらないという評価を下したことだろう。あくまでも雪奈さんがいたから、それなりに有意義な時間を過ごすことができたのだと思う。


「難しいね。けどま、私としては自分の好きなボウリングを面白いって思って貰えただけで満足だよ」

「……雪奈さんは、どうしてボウリングが好きになったんですか?」

「好きになったきっかけってこと?」

「はい。どうやって、楽しめるものを見つけたのかなって」


 僕の問いに、雪奈さんは顎に人差し指を当て、空を見上げ──首を傾げた。


「んー……あれ、なんでだっけな。確かにきっかけはあったはずなんだけど……」

「忘れてしまいました?」

「うん、そうかも。けど、おかしいな。何だか、気がするんだけど……ぁ」


 何かに気が付いたような声を上げた雪奈さんはその場で立ち止まった。どうしたのだろう。彼女の行動に疑問を浮かべ、僕は声をかけた。


「雪奈さん?」

「!」


 僕の呼びかけで我に返った雪奈さんは慌てて僕のほうへと駆け寄った。


「ううん、何でもない。気が付いたら好きになってたんだよね」

「いつの間にかって感じですか」

「そうそう。多分、小さい頃にやったのが楽しくて──あ、そうだよ」


 妙案を閃いた、とでもいうように表情を明るくし、雪奈さんは僕に提案した。


「昔の思い出から探して見たらいいんじゃない? 子供の頃に楽しいと思ったこと……今も全部が楽しいと思えるわけじゃないとは思うけど、何かヒントを見つけることができるかもしれないし」

「いや、幼少期の記憶は、ちょっと……」

「え、なんで?」

「まぁ、その……」


 頬を掻き、僕は雪奈さんから視線を逸らしながら言った。


「まともな幼少期を過ごしていないので……」

「あー……ごめん。嫌なこと思い出させようとしたわけじゃなくて……」


 僕の返答が予想外だったのか、雪奈さんは僕に謝った。

 まともな記憶というものがほとんどないのだ。僕の幼少期は一般的な子供が経験するようなことはほとんどなく、楽しいと思えるものが、明るい記憶が欠如している。心を躍らせるような経験がないからこそ、僕はこうして物事を楽しめないという、歪な人間に成長してしまったわけだ。具体的な内容は、雪奈さんの気分を害してしまう可能性が非常に高いので、言わないけれど。

 何かを察したのか。雪奈さんはそれ以上僕の過去について追及することなく、代わりに、少し暗くなった雰囲気を払拭しようと話題を変えた。


「そ、そうだ! 身体も動かしてお腹空いたし、ハンバーグ食べに行こうよ」

「いいですけど、何でハンバーグ?」

「私が食べたいから!」


 キリ、と白い歯を見せ雪奈さんは決め顔を披露した。

 結構強引に話題を変えたなとは思ったけれど、確かに腹は空いている。ハンバーグというのも久しく食べていなかったし、全然ありだ。拒否する理由は何処にもない。


「いいですよ。行きましょう」

「よしきた。近くに美味しいところあるからそこに行こ! ちょっと並ぶかもだけど」

「全然大丈夫ですよ」


 東京の飲食店は昼度時になれば、何処もかしこも混んでいる。今は丁度その時間帯なので、並ぶのは仕方ないことだ。

 問題ない旨を伝え、僕は案内役を務める雪奈さんに追従する。

 やってきたのは、徒歩圏内にあった大型商業施設。若者をターゲット層としたアパレルだけではなく、小さな子供用の玩具を売る店や飲食店、不動産に酒屋など、多種多様な店が立ち並んでいる。若者の街には珍しく、この商業施設には幅広い年齢層がおり、皆各々の買い物を楽しんでいる。

 建物内に入った僕たちは最上階のレストランエリアへと赴き、そこにあったハンバーグ専門店『ビバーチェ』を訪れた。他の飲食店も昼時のため客が列を作っていたが、この店はとても人気があるらしく、とても長い列ができていた。僕たちが整理券を取った時には待ち時間三十分だったのだけど、少し時間が過ぎると2時間待ちに変わっており、その待ち時間を見て諦める人も多く見られた。

 三十分後。エスカレーター付近に設置されたソファに座り、雑談とTwitterの巡回で時間を潰し、僕たちは店内に入ることができた。


「やっと入れたね」

「そうですね。注文、何にしますか?」


 エプロン姿の女性店員に案内された席に座り、僕はメニュー表を開いて雪奈さんに尋ねる。パッと開いただけでも、多種多様な種類のハンバーグメニューがあることがわかった。これは、選ぶのにも時間がかかってしまいそうだ……と、思ったのだが。


「私は決まってるから、蒼二君が選んでいいよ」

「え、どれですか?」

「黒毛和牛ハンバーグ。ここの一番人気だよ」


 雪奈さんは机に広げたメニュー表、その表紙に掲載されていた写真をトントンと指で叩いた。


「色々食べたけど、やっぱりこれが一番美味しかったんだよね。流石に人気ナンバー1なことはあるよ」

「じゃあ、僕もこれにします」


 机端の呼び出しボタンを押し、やってきた女性店員に注文。広げていたメニュー表を元の位置に戻した。


「この店、良く来るんですか?」

「頻繁ではないかな。友達と買い物に来た時とかによる程度だよ。一回食べてから、ここのハンバーグのファンになっちゃったんだよね。食べたらきっと、蒼二君も虜になると思うよ」


 そんな雪奈さんの評価に、僕の中で期待値が上がってしまう。既に先ほどから他の客が食べているハンバーグの香りが鼻腔を擽っており、僕の食欲を刺激している。運ばれてくるのが、とても待ち遠しい。

 そして腹を鳴らし、商品の到着を待つこと十数分。


「お待たせしました~」


 注文を取った店員とは違う、男性の店員が湯気を立たせ肉の焼ける音を奏でる鉄板プレートを僕たちのテーブルに運び置いた。


「お熱くなっておりますので、お気をつけてお召し上がりください」


 定番の言葉を残して去った男性店員の背を見送り、僕は視線を机上のハンバーグへとスライドさせた。

 強烈に食欲を刺激する。湯気と共に嗅覚を襲う肉と、たっぷりにかけられたデミグラスソースの香り。鉄板プレートの表面には艶を持つ肉汁が沁み出ており、それが内包する旨味を連想させる。

 これは人気が出るのも納得だ。食べる前から僕はそう評し、間髪入れず、手にしたナイフで肉を切り分け、それを口内へと運んだ。


「うっま……」

「でしょ」


 意図せず口から零れた言葉に、雪奈さんがニヤリと笑って言った。


「これ食べた私の友達とかも皆、そんな反応するんだよね。なにこれうま! って、目を輝かせるの」

「いやだって、これ凄く美味しいですよ。今まで食べて来たハンバーグは何だったんだろうって思っちゃうくらい」

「やっぱりプロが作る本格ハンバーグはレベルが違うよ。一般家庭とか、スーパーで売られている安いやつとはね。ま、その分値段はそこそこするんだけど」

「お金を払う価値ありますよ、これは」

「うん。寧ろ、これを安く売られたらこっちが申し訳なくなっちゃうよ」


 雪奈さんとの会話を弾ませながら、感動すら覚えたハンバーグを食べ進める。

 昨日は東京に来た意味がなかったと落胆したものだが、今、僕の中にはそんな落胆はない。これを食べただけで東京に来た甲斐があったと思える。こんなに素晴らしい気分になったのは、随分と久しい。


「今の僕……何だか、凄く充実しているように思えます」


 食べる手を止めて呟くと、雪奈さんは紙ナプキンで口元を拭い、微笑を浮かべて僕に言った。


「初めて笑った顔を見せてくれたね」

「え」


 ジッと僕を見つめる雪奈さんに、僕は唖然と返した。


「僕、笑ってました?」

「うん。凄い笑顔ってわけじゃないけど……それでも、楽しさとか嬉しさが伝わってくる表情してた」

「本当ですか」

「本当だって。嘘は言わないよ」


 その言葉を信じ、僕は食器をプレートに置いて天井を回るシーリングファンを見上げた。

 自覚は全くなかった。自分自身では笑みを浮かべているつもりはなかったのだけれど、雪奈さんにはそう見えたらしい。なら、それが正解だ。表情は自分では見ることができないのだから、僕の良い分よりも、雪奈さんの言い分が正しいに決まっている。

 苦笑したり、上司の前で偽物の笑みを作る以外に、僕はほとんど笑ったことがない。最後に心の底から笑ったのはいつだろう。記憶を漁って見ても、すぐには出てこない。

 けど、最後ではないけれど、一度あったな。鮮明に頭に残っている、自分が最後に笑った記憶。それは、今から14年前の──。


「やっぱり、誰かと一緒に食べると楽しいよね」


 思考に耽っていた僕は雪奈さんの声で意識を現実に戻し、少しの間を空けて、首を傾げた。


「そうですか?」

「うん。だって、そうじゃない? 一人で食べるよりも仲間と一緒に食べたほうが絶対楽しいよ」

「普段は会社の食堂で仕事仲間と昼めし食べますけど、全員過労で死んだ目してるので全然楽しくないと言うか──」

「おっけー、わかった。今この場で職場の話はやめよう。気分が暗くなったら折角のハンバーグが台無しだよ!

「話振ったの雪奈さんでしょ」

「重い話を持ってきたのは蒼二君でしょ!」


 雪奈さんはビシ! とナイフの先端を僕に僕に向けて反論した。こんな小さなことで言い争いになる必要はない。特に、口論の火種が観測できた時は大ごとになる前に男が折れるのが吉とネットで見たことがある。今は正にその時だろう。

 すみませんでした、と僕は雪奈さんに謝り、彼女から「いいよ」と許しを貰えたことで、止めていた食事を再開した。

 まだそれほど多くの時間を雪奈さんと過ごしたわけではないけれど、彼女がどういう女性なのかは、かなり知ることができた。明るくて、どんなことも前向きに捉えることができ、とても素敵な笑顔を見せる。自分の気持ちに素直で、相手を自分のペースに巻き込むことが得意。愛嬌もあり、どんなことでも許してあげたいと思わせる蠱惑的な魅力もある。

 そしてなにより──僕を全力で楽しませようと一生懸命になってくれている。そのことが、僕はとても嬉しかった。

 雪奈さんが男女問わず注目を集め、モテる理由が良く分かった。容姿も性格も良いのだから、人気が出るのは当然だ。人に興味を持たない僕でさえ、気が付いた時には彼女を好きになっていそうだから。釣り合わないとわかっていても、心は勝手に惹かれてしまう。

 参ったな。僕は、楽しいことをしに東京へ来ただけなのに。

 陥落まで時間の問題となりつつある自分の心に呆れを抱きながら、僕は対面で幸せそうにハンバーグを頬張る雪奈さんをジッと見つめた。

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