第二章 楽しさ

第8話 これはデートの始まりか

 翌日の天気は快晴で、頭上を見上げれば雲一つない空が広がっていた。降り注ぐ日光は熱く、桜が開花を始めた春先にも拘わらず、日向に出れば汗ばんでしまう気温だ。特に東京は混凝土の街。田舎よりも気温が上昇しやすい傾向にある。夏になると、一体どれほどの気温になってしまうのやら。

 時刻は午前10時5分。待ち合わせ時刻から、5分を過ぎた頃。

 池袋駅にある母子像の傍に立った僕は右手に持ったiPhoneでネットニュースの記事を読んでいると、不意に画面の上部にバナーが出現した。そこに書かれていた文字は『もう着きまーす』。とても短い文章だが、相手の性格が伝わってくる。即座に『了解』という短い返信を送り、僕は再び記事の黙読に戻った。

 開いている記事のタイトルは『宗教2世、母親を殺害』というものだった。内容はタイトルの通りであり、先日、とある宗教団体に所属する女性が実の子供に刺殺されたことに関するもの。被害者は熱心な信者であり、幼少期から信仰を子供に強制していたのだという。事件発覚当初は親殺しなどと言われていたが、詳細が明らかになるにつれて被疑者に対する同情が多く寄せられるようになったと同時に、宗教団体に対する否定的な意見が多く噴出した。

 月日が経っても、結局何も変わってないな。

 呆れと失望を胸に抱いて嘲笑した僕は、画面上に指を這わせて記事をスライドさせ、読者が自由に書き込むコメント欄を表示した。

 ──14年前にも宗教絡みの殺人事件起きてたよな。

 上から八つ目、グッドマークの隣に100の数字が並ぶそのコメントを見つめ、思わず笑った。

 世間からはとうの昔に忘れ去られたと思っていたけど、憶えている人もいるんだ。

 そのコメントと事実に何処となく嬉しさを感じながらホームボタンを押してiPhoneの電源を落とし──。


「ごめーん! お待たせ!」


 鼓膜を揺らしたその声に、僕はそちらへと顔を向けた。

 視界に映ったのは雪奈さんだ。昨日と同じく周囲の注目を集めながら片手を振ってこちらに向かってくる彼女は、春らしいフレアスカートのコーデに身を包んでいた。周りの目を惹く彼女の先にいる僕を見て、釣り合わないだろ、なんて小言が聞こえてきそうな視線が僕を突き刺す。そんなこと自分が一番わかっているので、一々言われなくてもわかっている。

 注がれる視線を全て無視し、僕は片手を上げて雪奈さんに応じた。


「おはようございます、雪奈さん。服、似合ってますね」

「ありがと。結構待った?」

「十分くらいなので、全然大丈夫です」

「え、今来たところとは言ってくれないの?」

「少し待ったのは事実なので……」

「そういうのは言わないのが良い男ってもんだよ!」


 やけに上機嫌そうに、雪奈さんは僕の肩を叩いた。割と強く、少しの痛みを感じるほどの力加減で。

 ただ、それに対して文句を言うのは格好悪すぎる。僕は特に何も言うことなく、雪奈さんが注目を集めていることについて言った。


「やっぱり、色んな人に見られていますね」

「あー、やっぱりわかる?」


 困ったように笑い、雪奈さんは小さな溜め息を吐いた。


「まぁ、相手も悪気があって見てるわけじゃないだろうから、気にしないようにしてるんだけど……人と何処かに行く時は、ちょっと困るね。大丈夫? 嫌な気分になったりしてない?」

「声をかけてきたら不快になりますけど、今は別に。普段の仕事のほうがよっぽど嫌な気分になるので」

「反応に困るような返ししてきたね。いつもお疲れ様です」

「いえ、労働は国民の義務なので」


 義務にしては酷く辛く、命の危険すら孕んでいるけれど。国家は国民に命を削る義務を課しているようだ。

 そんなことを考えながら、僕は雪奈さんに尋ねた。


「それで、これから何処に行く予定なんですか? 今日のプランはお任せしているので、僕は何も知らないんですけど……」

「んーっとね」


 僕の問いに即答することなく間を置いた雪奈さんはポケットから最新型のiPhoneを取り出し、Googleマップを起動してからこう言った。


「まずは、身体を動かす遊びをしにいこっか」

「? それは?」

「ついてくればわかるよ」


 詳細を隠す言葉を連ねた雪奈さんは片目を瞑り、空いた右手で僕の手を引いて、人口密度の高い街へと僕を連れ出した。


     ◇


 十数分後。


「……」


 僕は自分の周囲を取り巻く環境に視線を這わせた。

 軽快な音楽と若者の会話、そしてボールが床を転がる音と並べられたピンに衝突する音が響くここは、ボウリング場だ。幾つも並ぶレーンの大半に利用客がおり、空いているレーンはせいぜい二つか三つといったところだ。平日の昼間にも拘わらずこれだけの利用客がいるのは、人口の多さ故だろうか。

 若者の街ということもあり、客層は十代後半から二十代前半の若者が多い印象。僕たちがいる場所から離れたレーン、店の最奥に位置する場所では、十人ほどの若者の集団がストライクを取る度にオーバーリアクションで喜びの声を上げている。些細なことであれだけ喜びの声を上げることができるのは、労働の苦しみを知らない若人の特権だろう。僕とそこまで年齢は違わないはずなのに、何故こんな差が生まれてしまったのか。

 何処となく悲しい気持ちになりながら、僕は元気溌剌な若者の集団から視線を外し、近くで熱心にボウリングの赤い球をタオルで磨いている雪奈さんに声をかけた。


「何でボウリングを選んだんですか?」

「え? 私がやりたかったから」


 今更何を言っているんだ? とでも言うかのような顔で答えた雪奈さんは美しいフォームで球をレーン上に滑らせた。球は僅かなカーブを描いて立ち並ぶ十本のピンに向かい、見事、全てのピンを薙ぎ倒した。天上から吊り下がるモニターにはSTRIKEの文字が映し出され、スコアボードには蝶ネクタイに似た記号が刻まれた。

 随分と手慣れた様子。腕前はかなりのものらしい。

 満足そうな表情でこちらに近付いてきた雪奈さんは椅子に腰を落とし、メロンソーダの入ったコップに刺さるプラスチックストローを咥え、喉を潤した後に僕へと言った。


「いや~、最近は全然やってなかったから腕が鈍ってると思ったけど、案外衰えてなくて安心したよ」

「ボウリング、好きなんですね」

「うん。楽しい。空いてて良かったよ」

「え、これで空いてるんですか?」

「十分空いてるよ。土日とか祝日になると受付ですら並ぶ羽目になって、しかも一人2ゲームまでとか制限つけられることもあるし。だから、投げ放題で沢山投げられるのは結構貴重なんだよね。ほら、蒼二君の番」


 促された僕は立ち上がり、青い球を手に取りレーンへと近づいた。

 見たことはあるが、実際にやるのはこれが初めてだ。床に球を転がし、ピンを倒すだけの簡単な競技。案外、簡単にストライクを取れるのではないか。

 なんて、楽観的な考えを持ちながら、他の客と同じように球をレーン上に転がし──。


「……マジかよ」


 球は中央のピンから大きく逸れ、右端の二本を倒すだけに留まった。続けて二投目を投じるも、今度は反対側に逸れてガター。下手にもほどがある、というレベルの出来だ。思わず、僕は自分の右手をジッと見つめてしまった。自分の想像以上の下手さに、驚いて。


「もしかしたら、僕は世界で一番ボウリングが下手なのかもしれないですね……」

「いや、それは流石に言い過ぎ……いや、うーん」


 僕の独り言にフォローの言葉を送ろうとしたが、雪奈さんは目の前の現実に口を閉ざしてしまった。そして慰めの言葉の代わりに、僕を見つめて尋ねた。


「蒼二君はボウリング、どれくらいやったことがある?」

「現実ではこれが初めてです。Wiiのボウリングなら、わざと後ろに球を落としてオーディエンスを驚かせてました」

「うわ、そのゲーム久しぶりに聞いたよ。超懐かしい!」


 幼少期の思い出に残る名作ゲームに懐かしさを覚えた表情を見せた雪奈さんは「じゃなくて」と一旦その話題を置き、僕の隣に並び立ち、彼女が使用している赤い球を手にした。


「投げ方が悪いかな。狙った場所にまっすぐ転がるように、腕を一直線に振らなきゃ。蒼二君は、斜めに投げてるから、軌道が油断でガター一直線になってるんだよ。こうやって、狙ったピンと腕が真っ直ぐになるように身体を捻って、足をクロスさせれば……」


 ポイントを僕に教えながら雪奈さんが球を転がすと、それは先ほどと全く同じコースを進み、再び全てのピンを薙ぎ倒した。


「ほら。こんな風にストライクが取れるよ」

「凄い腕前ですね。プロ並みなんじゃ?」

「いや、私なんか全然だよ。精々ストライクが取れるのは前半だけ。後半になると変なプレッシャーを感じちゃって、スペアすら取れなくなるから」

「へぇ……とりあえず、投げてみます」


 僕は青い球を手に取り、改めて並べられた十本のピンに向けて投球する。先ほど雪奈さんから言われたことを意識して、自分もストライクが取れるように。

 結果は、八本。ストライクとはいかなかったが、先ほどのスコアよりは格段に良くなった。

 が。


「あちゃあ、スプリットだ」


 雪奈さんはレーンに残った二つのピンを見て、そんな反応を示した。

 残ったピンはそれぞれ、左右の一番端に位置するもの。プロならば一つを弾いてもう片方を倒すという高等テクニックを披露するのかもしれないが、残念ながら初心者の僕にはそんな芸当はできない。

 ここはひとつだけを狙うのが定石か。

 戻ってきた球を手に取り、片側一つに狙いを定めて投球。球は真っ直ぐに滑り、狙い澄ましたピンを倒すことができた。

 スコアボードに刻まれた9の数字を見つめ、僕はポツリと呟く。


「……楽しいのか、これは」


 正直なところ、現時点では楽しいとは思えなかった。ただ球を転がし、立っているピンを倒すだけの単純な作業。高スコアを目指すという目的はあるけれど、いまいち面白さというものを体感することができていない。

 この呟きを聞いていたらしく、雪奈さんは僕の肩を叩いた。


「今はまだ、ほら、初心者だからさ。これから慣れていって、スコア出せるようになったら面白くなると思うよ。投げてもロースコアしか出せなかったら、誰でもつまらないと思う」

「そういうものなんですね」

「そうだよ。大丈夫。やっている内にきっと、楽しくなると思うからさ」


 微笑を向けた雪奈さんは「じゃ、交代」と言って、三連続のストライクを目指して赤い球を入念に磨き始めた。

 結局それから二時間、雪奈さんが満足するまでボウリングを続けることになった。最終的なゲーム数は13となり、終わる頃には右腕が若干の筋肉痛に見舞われたが、雪奈さんがとても満足そうな笑顔を見せていたので、良しとすることにした。

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