第7話 真夜中のファストフード

 23時を過ぎた真夜中のファストフード店は未だ賑わいを見せる外とは違い、とても静かだった。店内にいる利用客は精々数人で、その全員がスマートフォンやパソコンといった文明の利器と睨めっこしており、誰も声を発していない。彼らの耳には例外なくBluetoothイヤホンが装着されている。

 鼓膜を揺らすのは店内を流れている音楽と、レジのほうで店員同士が交わす会話、そしてその奥にある調理器具が発する音だけ。つい先ほどまで身を置いていたナイトクラブとは全く違う環境。大多数の人は僅かな自然音だけが響く、もしくは無音の世界を静寂と表現するのだろうが、音楽と人間の騒音が詰まった箱の中を体験した僕からすれば、この店内ですら静寂と表現していいように思えた。

 店の奥にある空席に着き、僕はiPhoneを机上に置いてマックの公式アプリを起動した。レジで注文はしない。モバイルオーダーが可能になった時からずっと、僕はこれを利用している。態々席を立つ手間も省けるし、何より店員がここまで持って来てくれるのがありがたい。

 液晶画面に人差し指の腹を這わせながら、僕は映し出されるメニューを眺める。夜は遅いが、特にカロリーを気にするつもりはない。夕食を食べていないので空腹だし、がっつりとハンバーガーを食べるとしよう。


「うわぁ。久しぶりに見たけど、色々と高くなってるね」


 対面の席に座った夢咲さんが僕のiPhoneを覗き込みながら、そんな感想を呟いた。


「ハンバーガー1個で170円もするんだ……100円マックがあった時代が懐かしい」

「そんなの遥か昔に終わってますよ」

「だよね。私も年取ったなぁ~」


 頬杖をついた夢咲さんは笑い、次いで「あ」と我に返った様子で言った。


「ごめんなさい。敬語、つい忘れちゃった」

「別に敬語使わなくてもいいですよ。大学生ですよね? なら年齢ほとんど同じですし」

「え、幾つ?」

「21です」

「同じだ!」


 同い年というだけで嬉しそうに表情を輝かせ、夢咲さんは両手を軽く叩いた。


「年齢が一緒ってだけで謎の親近感が湧くの、何でだろうね」

「まぁ、言いたいことはわかりますよ」

「良かった、理解してくれて。でもそっか、タメだったんだー……遠慮なくタメ口叩けるの凄く嬉しい。敬語、堅苦しくて嫌いだからさ」

「社会出たら苦労しますよ」

「まぁね。違和感なく使えるようにこれから頑張ります。あ、私も同じやつでお願い」

「え」


 僕が選択したハンバーガーセットの画面を指さして言った夢咲さんに、僕は目を丸くした。


「……いいんですか? 結構カロリーあるやつですけど」

「え、なに。女の子だからこの時間にハンバーガーとか食べないと思った?」

「まぁ、カロリーとか気にしてるんじゃないかと」

「それ偏見だよ。女の子だって深夜にラーメンとかハンバーガーとか食べたりするよ。勿論、頻繁ではないけどね。そもそもマックに来てるのにカロリー気にしてハンバーガー食べないとか、ここに来る意味ないよ」

「それは確かに」

「大丈夫だよ。普段から体型とか気にした食事してるから。一日二日不摂生したくらいじゃ太らない。今日の不摂生は運動とかして取り返すし」


 ポジティブな思考をしているな。と、僕は感心しながら注文ボタンを押した。レジに並んでいる客も、受け取り口の近くで待っている客もいない。注文した品は二つだが、恐らく数分もすればここに届けられるだろう。

 iPhoneの電源を切り、画面の暗転したそれをポケットにしまう。するとその時、僕の前に一枚の五百円玉と三枚の百円玉が差し出された。


「ん?」

「はい。八百円だったよね?」


 当たり前のように代金を僕に手渡した夢咲さんに、僕は先ほどと同じくやや驚いた表情を作った。


「……払うんですね」

「え?」

「てっきり、都会の女の人は食事代は男が出すのが当たり前とか言うんだと思ってました。Twitterとかだと、度々議論になってますし」

「あぁ、あるね。そういうの」


 夢咲さんは苦笑し、続けた。


「都会云々っていうより、あれは一部の女の意味不明な理論って言うのかな? 全員が全員、男が奢って当たり前って思ってるわけじゃないよ。そんな主張をしてるのは、全体から見たら一部」

「そうなんですか」

「そうだよ。そういう人たちって男のために化粧したんだからデート代は払えとか言うけど、結局その化粧は自分のためだからね。そもそも化粧なんて普段からしてるものだし。奢って貰う理由を無理矢理作ってるだけ」

「なるほど」

「少なくとも私はそういう嫌な女じゃないから、安心してよ。基本的に割り勘派だからさ──あ、来たね」


 やや熱い夢咲さんの語りが終わった直後、濃緑色のトレイを手にした女性店員が僕たちのほうへとやってきた。それを机に置き「ごゆっくりどうぞ」という言葉を残して、再びレジのほうへと戻って行く。彼女の後ろ姿から視線を外し、僕は運ばれて来た商品を見た。紙に包まれたハンバーガーと、揚げたてと思しきフライドポテト。飲み物が入った紙コップと、その傍には紙ストロー。二人分のそれらは、一つのトレイの上に綺麗に収まっている。

 僕はオニオン抜きのシールが貼られているほうのハンバーガーを手に取り、包み紙を外して、バンズに齧りついた。


「玉葱嫌いなんだね」


 包み紙のシールを見た夢咲さんが言い、僕は頷いた。


「昔から食べられなかったです。母も祖母も嫌いだったので、多分遺伝です」

「好き嫌いって遺伝するものなの?」

「わかんないです」


 遺伝の専門家ではないので、詳細はわからない。が、確かネットの情報だと食べ物の好みは遺伝しないという結果だったはずだ。様々な情報が出回っているので、実際はどうなのだろう。

 どうでもいいことを考えていると、夢咲さんが紙コップの蓋を外し、中身の烏龍茶を喉に通した。ハンバーガーを咀嚼しながらその様子を眺めていた僕は口内の食物を飲みこみ、次いで、トレイの上に放置されている紙ストローを見た。


「やっぱり、紙ストローは嫌いですか」

「うん、嫌い。だって変な味するんだもん」

「同意見です。どうせ脱プラするなら、この蓋をすれば良かったのにって思ってますよ」

「だよね! 何で態々口に触れるストローを紙にしちゃったんだか……ネットでも神ストローは絶対に認めないって意見が大多数だよね」

「シンプルに味が悪くなる代物なので、反対意見が多くなるのは当然ですよ」


 僕も夢咲さんと同じように、紙コップの蓋を外して中身を飲む。僕が注文したのはダイエットコーラだ。学生の頃は問答無用でその他の甘い炭酸飲料にしていたのだけど、社会に出てからは運動不足ということもあり、カロリーのない飲料を頼み始めた。無論、カロリーのあるほうが味は好きなのだけど、仕方ない。せめてものメタボ予防だ。

 そのまま暫く、黙々と食べる作業に従事していると、一度食事の手を止めた夢咲さんが言った。


「そういえば、こんだけ話してるのに名前言ってなかったね。私は夢咲雪奈ゆめさきゆきな。貴方は?」

四乃森蒼二しのもりそうじです」


 まさかもう名前を知っているとは言えず、僕は初耳を装って自分の名前を告げた。


「四乃森蒼二……蒼二君でいい? 私、基本的に人は下の名前で呼ぶ人だからさ。私も雪奈でいいから」

「いいですよ。雪奈さん、ですね」

「雪奈でいいよ? 敬語もいらないし」

「いや、タメ口は慣れないので……」


 雪奈さんの提案を、僕はすぐに断った。

 普段会話をする相手は会社の先輩や上司が多く、砕けた言葉遣いをすることはとても少ない。慣れていないというのも勿論嘘ではないのだが……それ以上に、まだ僕は彼女と砕けた言葉遣いで話せるほどの信頼を築いていない。

 僕が雪奈さんと同じように喋るのは、僕たちの間にある壁が取り払われた時だ。出会ったばかりの今はまだ、その時ではない。

 雪奈さんはそんな僕の断りに嫌な顔一つせずに笑顔を返し、フライドポテトを口元に運びながら話を続けた。


「蒼二君は私と同い年って言ってたけど、大学生?」

「いえ、地方の会社員です。高校出てからすぐに働き始めたので」

「あ、高卒なんだ。都内だと基本的に皆進学だからあんまり聞かないけど……地方は結構普通なんだよね? 大学行こうとか思わなかった?」

「そんな経済的な余裕もないし、奨学金なんて借金背負ってまで行く価値はないかなって。言い方悪いですけど、大学は働きたくない連中が遊ぶために行くところだと思ってるので」

「言い方~……でも、間違ってるとも言えないかなぁ。私の周りも遊んでる人ばっかりだし。まともに勉強してる人のほうが少ない」


 ハンバーガーに齧りつき、雪奈さんは僕を見つめて問うた。


「やっぱり、大学生ってムカつく?」

「考えないようにはしてますけど、残業終わって帰ってる時に居酒屋で馬鹿騒ぎしてる大学生を見ると殺したくはなります」

「だよね。そういうのは同じ大学生から見ても鬱陶しいもん。私の通ってる大学にもいる」

「何処の大学……っていうのは、聞いても大丈夫ですか?」

「勿論。赤木学院大学だよ。そこの経済学部」

「赤木って……偏差値高い名門ですよね」

「名門っていうのかはわかんないけど、入学が難しいとは言われてるかな」

「相当苦労したんじゃ?」

「そうでもないよ」


 手を左右に振り、雪奈さんは否定した。


「私、こう見えて高校の時はがり勉ちゃんで勉強だけはできたからね。センター試験も結構余裕で合格点とれたし」

「ガリ勉って……全然イメージ湧かないですね」

「だよね。私も今の自分、凄く変わったと思うもん。陰キャだった私も、今やすっかり赤木女子だからね。人生何が起こるかわからないものだよ」


 雪奈さんはそう言って、大仰に肩を竦めた。理想、誰もが思い描く大学生活を実現するために、相当な努力をしたはずだ。受験勉強は勿論のこと、入学後、自分を変えようと頑張ったに違いない。この美しさも、努力あってのものなのだろう。

 輝かしい大学生活を謳歌する雪奈さんをジッと見つめながら包み紙を丸めた僕はそれをトレイに置き、彼女に尋ねた。


「順風満帆な生活を送っている雪奈さんが、どうして僕なんかに声をかけたんですか? 正直なところ、僕はつまらない人間です。何の取り柄もないし、一緒にいて楽しいと思えるタイプじゃないですよ。なんで僕に興味なんか……」

「湧くよ、興味」


 断言し、雪奈さんは含んだ笑みを作って言った。


「だって、周りが楽しそうに踊りまくってるナイトクラブの中で、一人だけ何もかもがつまらないみたいな顔してるんだもん。嫌でも目立つ」

「目立ってたんですか、僕」

「結構ね」


 雪奈さんも僕と同じように包み紙を丸め、それをトレイに置いて僕に尋ねた。


「ねぇ、蒼二君はどうしてナイトクラブにいたの? 全然楽しそうに見えなかったけど」

「それはまぁ、話すと色々あると言いますか……」

「?」


 首を傾げる雪奈さんに説明するかどうか迷ったが、別に隠すことでもないと判断し、僕は今に至るまでの経緯を説明した。過労で救急搬送され、一ヵ月の休業をしていること。主治医や同僚から楽しいことをしてリフレッシュしろと言われたこと。幼少期に色々あり、今は何もかもが楽しいと思えないこと。忘れてしまった楽しいという感情を思い出すために東京へとやってきたが、今日一日色々と試しても楽しいと思えなかったこと。タクシーの運転手に勧められてナイトクラブへ行ったが、あまり楽しめなかったこと。そして最後に、今こうして雪奈さんとハンバーガーを食べていることを、全て説明した。

 終始無言で話を聞いていた雪奈さんは説明が終わると同時に、やや同情を含んだ目を僕に向けた。


「大変な目に遭ってたんだね。過労って話はニュースで偶に聞くけど……そっか、やっぱり会社員って辛いんだ」

「うちの会社は結構特殊だと思いますけどね。人手の足りていない中小企業ですから、どうしても現場に皺寄せが来る」

「お勤めご苦労様です。東京には、どれくらいいるの?」

「10日くらいいるので、色々と体験してみるつもりです。けど、正直楽しめる自信がなくて……」

「うーん、そうだね……よし」


 少し悩んだ素振りを見せた後、雪奈さんは両手を叩き、言った。


「じゃあ、私が一緒に東京旅行に同行してあげるよ。で、色々と案内してあげる」

「いや、流石に悪い──」

「遠慮しなくていいよ。さっき蒼二君が言ってた今日巡ったところ、どこもかしこも一人じゃ楽しめないところだよ? ネットに書いてあるのは、あくまでも普段から一人旅を楽しんでいる人に向けてのもの。一緒に行けば、色々と楽しめるかもしれないでしょ?」

「……なんでそこまでしてくれるんですか?」


 初対面であり、特に意気投合したわけでもない。そんな相手に自分の時間を割こうとする意味が僕にはわからなかった。恩を着せたところで見返りが期待できる相手でもないだろう。なのに、何故。

 その問いに、雪奈さんは「んー」と自分の口元に人差し指を当て──。


「……しょうもない、自己満足だよ」

「え?」


 囁くような小さな声で紡がれた言葉。僕が思わず聞き返すと、雪奈さんはハッとした様子で両手を振った。


「ううん、なんでもない。私がしたいから、東京案内させてほしいだけだよ。東京を知り尽くした先輩として、しっかり導いてあげる!」

「はぁ。じゃあ、まぁ……」


 先ほどの言葉について追及することなく、僕は片手に雪奈さんに差し出した。


「よろしくお願いします、雪奈さん」

「うん。絶対に楽しませて見せるから、大船に乗った気分でいてよ」


 差し出した僕の手を握り返した雪奈さんは、こちらの期待を膨らませるそんな言葉を口にし──もう片方の手でピースサインを作り、それを僕に向けて見せた。

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