第6話 クラブを出た後

 30分後。

 もう十分雰囲気を味わったと判断した僕はナイトクラブのフロアを抜け、地上へと続く階段を上がり店を後にした。次に向かう先は宿泊先であるビジネスホテル。既に心身共に疲れを自覚しており、これ以上の外出は中断する決断をした。元々人が多い場所が苦手な上に、今日は長時間歩き回った。披露するのは当然のことであり、身体は休息を必要としている。その訴えを無視することはできない。熟睡できるかはわからないけれど、ベッドに横になるべきだ。

 池袋駅の歩道を行き交う人の流れに身を任せて歩き進める。

 結局、僕はフロアを退出する直前まで、あの軽薄な薬物中毒者と一緒にいた。他の明るい気質の客へ絡みに行けばいいのに、僕と肩を組みリズムに合わせて身体を揺らし、聞いてもいない自慢話などを延々と語り続ける。正直うんざりしていたし、直接的に鬱陶しいと言葉で伝えたのだが、あの男はまるで聞こえていないかのようにスルー。最終的には僕が強引に彼の腕を振り解いたタイミングで、彼に声をかける女性が現れ、その隙をついて退店に成功した。

 まるで楽しむことができなかったし、結果を見れば疲れを溜めることになっただけだった。が、ああいうナイトクラブの雰囲気を知れたし、あんな男のような輩がいることを学べたのでよしとしよう。音楽箱とやらにも興味はあるけれど、流石に今日、この後足を運ぶ気にはなれなかった。時間はまだ沢山ある。後日、体力と気力が回復した頃を見計らって行くとしよう。

 5時まで馬鹿騒ぎが続く店の方角に目を向け、僕は赤い信号機の意味に従い、横断歩道の直前で足を止めた。停止していた車両が発信する音を聞き流し、田舎とは比較にならないほど星が見えない夜空を見上げる。脳裏に思い浮かんだのは、やはり強烈な印象を僕に植え付けた、あの美しい女性だった。

 夢咲雪奈。あの男が教えてくれた名前の彼女は、明らかにその他の女性とは異なる輝きを持っていた。オーラ、とでもいうのだろうか。自然と視線が吸い寄せられ、それまでの思考が吹き飛んでしまった。あんなに綺麗な人がいるなんて、流石は東京……なんて、感心すら抱いた。

 あれだけの美女はきっと、芸能界にも中々いないだろう。彼女が街を歩けば、それこそティッシュ配りのようにスカウトの名刺が差し出されるのかもしれない。僕とは次元が違う、住む世界が違う人。

 もう、僕は今後彼女を見ることはないだろう。願わくば、もう一度お目にかかりたいとは思うけれど、そんな願望を叶えてくれるほど、この世界の神様は優しくない。諦めるべきだ。同じ流星を二度見ることはできない。頭の片隅で、鮮明に焼き付いた記憶を思い返すだけで満足しよう。

 あぁ、でも。本当に……。


「綺麗な人だったな」


 目に焼き付いた姿を脳裏で何度も反芻し、意図せず言葉が口から零れ落ちた──丁度、その時だった。


「誰が?」

「ぇ?」


 信号に灯る光が赤から青に変化し、周囲の人々がアスファルトに描かれた白線の上を渡り始める中、僕は唐突に背後から聞こえた声に踏み出した足を元の位置に戻し、声が聞こえたほうへと身体を捻り振り返った。

 そして──目を見開いた。

 頭の中にいた人物が、僕の眼前に立っていたから。記憶の中の人と全く同じ、一瞬で僕の目と脳裏に焼き付いた女性──夢咲雪奈、その人だ。彼女はその端正な顔に微笑を浮かべ、慈愛すら感じさせる細めた目で僕を見つめている。周囲を通る人から注がれる視線など、一切気にも留めず。

 困惑と驚き、そして大きな緊張を覚え、僕は声帯を正常に震わせることができなかった。彼女が僕に声をかけたのは、この視線からも間違いないことだろう。けれど、どうして彼女は僕なんかに話しかけたのか。もっと話していて楽しい男など、他に幾らでもいるだろうに……。

 脳内で色々な感情と疑問が渦巻き、若干のパニックに陥りかける。と、いつまでも話し始めない僕に痺れを切らしたのか、夢咲さんが口を切った。


「突然ごめんなさい。貴方、さっきまでクラブにいた人ですよね?」

「え? あ、まぁ、はい。そうですけど……」

「一緒にいた男の人にうんざりして、出てきちゃった感じですか?」

「……」


 数秒、沈黙した。

 数秒目が合っただけと思っていたが……感じていた視線は、彼女のものだったらしい。

 けど、何で僕なんかを見ていたのだろう?

 人気者の夢咲さんが誰からも相手にされないような僕を観察していたことを意外に思いつつ、僕は肯定を示す頷きをした。


「概ね、正解ですね。元々短い時間で出ようとは思っていたんですけど、なんか、だる絡みされちゃって」

「やっぱり。多分相手の人、初対面ですよね? 私も初対面にあんな絡みかたされたら、途中で帰っちゃうなぁ」

「誰でもそうだと思いますよ……あの、そちらこそ、どうして店を出てきたんですか? フロアでは閉店時間の5時まで皆踊り狂ってるでしょ」

「狂ってるっていう言い方はちょっとあれだけど……うーん」


 人差し指を顎に当て、少し考える素振りを見せた夢咲さんは数秒後、悪戯めいた微笑を浮かべて言った。


「貴方に興味が湧いたから追いかけて来た……って言ったら、ドキッとします?」

「……今、しました」

「アハハ! 素直ですね。面白い人」

「貴女みたいな綺麗な人にそんなこと言われたら普通はしますよ。ドキッと」

「うわぁ、恥ずかしがらずにそういうことが言えるって尊敬するなぁ……」


 大きく指を開いた手を口元に当て、大袈裟なリアクションを取って見せた夢咲さん。そんな動作一つ一つが、とにかく絵になる。

 そりゃあ、美人は得するはずだな。なんて思いながら、僕は夢咲さんに尋ねた。


「で、店を出た本当の理由は?」

「今のが本当の理由ですよ。興味を持った貴方がいなくなっちゃったから、お話がしたくて慌てて追いかけて来た」

「嘘でしょ?」

「嘘じゃないです。んー、こんな横断歩道の前で長々と話をするわけにはいかないし……」


 一度言葉を止めて周囲に視線を巡らせた夢咲さんは十数秒後、視界に映ったとある店の看板を指さし、僕に提案した。


「丁度あそこにマックあるし、あそこで少しお話ししましょう」

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