第5話 美女

 掌に乗せられた錠剤をジッと見つめ、僕は男に尋ねた。


「これは?」

「見ての通り薬だよ。飲むと楽しくなれる魔法の薬」


 大した代物ではないかのように言い、男は僕に渡した物と同じと思しき錠剤を一つ、自分の口内に放り込んだ。飲み慣れているらしく、水なしで喉に通して見せた。


「最近、この辺りの若者に流行ってる薬だ。飲むとテンションがハイになれて、一晩中良い気分でいられる。飲みすぎると幻覚作用とか出るけどね。もっと上質なやつはお香みたいに焚いて鼻から吸引するんだけど……ま、錠剤でも十分良くなれるから」

「幻覚作用とか吸引とか……聞くだけでやばい代物ってわかるんだけど。これ、法律的には大丈夫なの?」

「見知らぬ誰かが作った法律にはちょっとだけ触れるんじゃね? まぁでも、俺たちには関係のないことだからあんま気にすんなよ」


 ケラケラと法に触れることすらも楽しんでいるかのように言い、男は僕に薬を飲むようすすめてくる。それに言葉を返さず、僕は今一度掌のそれに視線を向けた。

 確かに、楽しいと思えることを見つけるために僕は東京に来た。普段はやらないようなことも積極的に体験し、娯楽というものを思う存分満喫するつもりだった。失敗続きの現状。これを飲めば、本当に楽しくなれるのかもしれない。

 だけど、流石にこれは駄目だ。薬物中毒になる気は毛頭ない。薬の力に頼り、定められた法を踏み躙ってまで、僕は楽しくなりたいとは思えない。禁忌に触れるくらいなら、一生つまらない人生を送るほうがマシだ。

 首を左右に振り、僕は錠剤を男に投げ返した。


「どんな副作用があるのかもわからない薬は使わない。返すよ」

「めちゃ真面目やん。人生短いんだから、リスクなんて気にせず挑戦したほうがいいって」

「短いからこそ慎重になるべきだろ。踏み外して豚箱送りなんて絶対に嫌だ」

「そのリスクをちょっと冒すだけで夢見心地になれるぞ?」

「あくまでも夢だろ。いずれ覚めるものに人生かけたくない」

「つれねーな」


 流石に僕の拒絶に諦めたのか、男は壁に背中を預けて肩を竦めた。


「話して改めて思ったけど、お前やっぱりこういうとこ向いてねぇぞ。ここは真面目な奴が来るとこじゃない。常識とかモラルとか、そういうものをクソ喰らえって思ってる連中が楽しむところだ。真っ当な奴が遊ぶ場所じゃねぇもん」

「だろうね。そんな気はしてた」


 その物言いにも不快になることなく、僕は同意して頷いた。

 タクシーの運転手が言っていた通りだった。こういう場所は、妙な薬の入手場所にもなっている。まさか、こうも早くに出くわすことになるとは思わなかったな。恐らく、都内に数多くある他のナイトクラブもこういうことがあるのだろう。勿論、全員が薬物中毒者なのではなく、こういった場を悪用するのは一部の人間なのだとは思うけれど。

 都内にいる以上、今後も薬の危険が近寄ってくる可能性はある。誘惑に乗らないようにしなければ。

 薬をポケットに押し込んだ男に、僕は好奇心で尋ねた。


「そういう危ない薬って、どこで手に入れてんの?」

「入手経路なんて色々あるぞ。ネットで知り合ったバイヤーから買ったり、路地裏でそういうのを専門で扱ってる業者とやりとりしたり、それこそ、こういうナイトクラブに潜んでる奴から買ったり。警察も色々と目を光らせているけど、全部を規制するなんてまず無理だからな。抜け穴を上手く活用してんのさ」

「抜け穴とか言ってるが、見つかったら大変なことになるだろ」

「さっきも言ったろ。短い人生、多少のリスクは承知の上だって」

「……わからないな。そんな危ないことをしてまで、悪影響しかない薬をやるなんて」

「やってねぇやつにはわかんねぇよ。俺たちにとって、こういう薬は欠かせないものなんだからな。こいつがあるから、楽しく人生送れてる。言っちゃえば、これは俺にとっての青春なんよ」

「……そうかい」


 僕は短く言葉を返し、男から沸き立つフロアへと視線を移した。

 言っている意味は全く理解できなかった。何が青春だ。世間一般の言う青春というのはもっと輝かしく、若々しいものであり、法に触れるような薬物を摂取するようなものじゃない。僕自身、まともな青春を送ったとは言えないけれど……少なくとも、薬物に塗れた人生なんて青春とは言えないと、はっきり言うことができる。身体を毒されながら生きるなんて、まっぴらごめんだ。


「というか、他のナイトクラブに行くのも不安になってきたな……」

「んな心配すんなよ。薬やってる奴なんて、ナイトクラブの中だったら五人もいないと思うからさ。勿論、客の百%が薬物中毒者ってとこもあるけど、そういうところは基本的に会員制だし」

「貴重な情報をどうもありがとう──ん?」


 フロアの入口付近で楽しんでいた若者たちが不自然に踊りを止めており、僕はその様子を見ながら首を傾げた。空間に反響する大音量の音楽は未だ鳴り続けている。入口から離れたフロアの中央や奥にいる客は変わらずに踊り続けており、まるで、入口付近だけ音楽が聞こえなくなってしまったかのようにも見える。

 一体どうしたのだろうか。

 そんな疑問を胸に躍りを止めた若者たちを注視し──すぐに、彼らが躍らなくなった理由を知った。


「……凄く綺麗な人だな」


 反射的に、僕の口からはそんな言葉が零れ落ちた。

 踊りを止めた多くの者たちの視線を一身に集めていたのは、一人の女性だ。艶やかな明るい茶色の長髪に、色素の薄い素肌。丸みを帯びた大きな瞳には自然と視線が吸い寄せられる。均整の取れた肢体もまた、男の情欲を掻き立てる。綺麗とも、可愛らしいとも、どちらの表現も似合う女性だ。異性だけではなく、同性までもが注目してしまう美貌。

 これまでに出会ったことがない、綺麗な人だな。そんなことを考えながらジッと見つめていると、隣にいた男が僕の肩を叩いて首を左右に振った。


「おい、あんまり夢見るのはやめとけよ。あれはレベチ。次元の違う存在だぜ」

「レベチ?」

「そ。高嶺の花過ぎる。これまでもハイスペックな男共が何人もアタックしに行ったんだが、誰も彼も玉砕しているんだ。難攻不落にもほどがあるってくらい、誰にも靡かない」


 男は僕と同じように女性を見つめ、続けた。


夢咲雪奈ゆめさきゆきな。大学ではミスユニバースにもなってる、大学三年生。時折、こういうナイトクラブやらバーを訪れることがある。イケメンたちの間じゃ誰が彼女を落とすのかって話になっているし、そもそも落とせる男がいるのかって疑惑も出てる。前に大企業社長の御曹司を振ってから、攻略難易度が凄まじく高まったらしい」

「情報屋みたいなやつだな、あんた。なんでそこまで知ってる」

「クラブ通いの中じゃ、彼女は有名人だからな。噂話なんて、嫌でも耳に入ってくる。見ろよ」

「?」


 再び話題の彼女に視線を戻すと、彼女は真っ直ぐにバーカウンターのほうへと歩いて行った。


「今も沢山の声がかけられていたが、誰の呼びかけにも応じることがなかった。普通、こういうところに来る女はナンパされるために来るんだが……夢咲に関しては、なんでこういうところに来るのかよくわからねぇ」

「純粋に音楽とか雰囲気を楽しみに来てるんじゃないのかよ」

「だったら、音楽箱に行くはずだ。クラブの違いってものを知らないはずもない。本当に、謎だらけの女だ」

「ふぅん……」


 まるで映画やドラマの登場人物のようだな、と僕は思った。

 突出した美貌を持ち、自身に満ち溢れているのがよくわかる態度。簡単には靡かない難攻不落ぶりと言い、現実の人間とは思えない。

 やっぱり、都会は田舎とは全然違うな。あんな人がいるのだから。

 感想を胸中で呟き、僕はジッと夢咲雪奈という名の彼女を見つめる。相手は住む世界が違い、今後も関わり合いを持つことはない女性だ。田舎者には眩しすぎる人だけど……ほんの僅かな時間、陰から眺めるくらいは許されてもいいだろう──と。


「……っ!」


 カクテルの注がれたコップを手に振り返った彼女と、目が合ってしまった。ドキ、と心臓が大きく跳ねる。時間にして数秒程度。身体を硬直させていた僕は我に返り、これ以上はいけないと目を逸らした。

 人も多く、暗がりだからと油断していた。長々と見つめていた自分に反省を促し、やってしまった、と大きな溜め息を吐く。

 気持ち悪がられても仕方ない。もう少ししたら、この店を出よう。

 自分の失態に肩を落とし、僕は時間を確認するためにiPhoneをポケットから取り出した。

 絶え間なく感じる一つの視線を、なるべく気にしないよう心掛けながら。

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