第4話 夜中のナイトクラブ

 それから十数分ほど後。Googleでの検索を続けている内に、渋滞の公道を走っていたタクシーは目的地である池袋駅前に到着した。運転手の呼びかけで顔を上げた僕は、案外早かったな、とありきたりな感想を胸中で零し、運転手に料金を支払い自動で開いた扉を潜って外に出る。


「じゃあ、気をつけて楽しんでな」

「えぇ、ありがとうございました」


 扉が閉じる前にかけられた運転手に礼を返し、走り去っていく白と緑の車体を見送り、僕は自分の周囲に構築された世界を見回した。

 静けさなど皆無だ。混凝土コンクリートで創られた街には常に音が浸透している。歩道を進む無数の人、その一人一人が発する声。公道を走る車の駆動音。路上ライブを行う若者が響かせる歌声と弦楽器の音色。それら全てが空気に混ざり、常時僕の鼓膜を揺らし続けている。

 この街で暮らす者にとって、音に満ちた世界は日常なのだろう。けれども、大都市からは離れた土地に暮らす僕からすると、この街は非日常だ。明るく、人生を楽しみ謳歌している者たちが支配する別世界にすら感じる。道端に立っているだけで、そこはかとない場違い感を覚えた。

 いや、こんなところで場違い感なんて覚えている場合じゃない。これから僕は、もっと騒がしい場所に行くのだから。

 周囲の喧騒から注意を逸らした僕は画面に表示された道順と自動音声による指示に従い、次なる目的地を目指してその場を離れた。


「お兄さん、安いんで飲んでいきませんかッ!」

「いい子いますよ。可愛い子沢山」

「飲み放題2000円です。どうですか」


 路上で客引きをしているキャッチに断りを入れながら、僕は歩行者の多い道を進んだ。最近は都条例によりキャッチの取り締まりが強化されているというのに、よくやるものだなと思う。私服警官などに声をかければ、一発で逮捕されてしまうというのに。前科持ちになるリスクを背負ってまで、客引きをするメリットはないように思えるのだけど。

 それに、ああいった客引きを行っている店はぼったくりが多いと聞く。間違っても、ついて行ってはならない。痛い目に遭うことになるから。

 そうして歩き進むこと、十数分。


「ここか」


 マップが示す地点へと到着した僕は自動音声による案内を終了してiPhoneの電源を落とし、その場で一度立ち止まった。

 眼前にあるのは雑居ビルだ。携帯会社の店舗とドラッグストアの間にあるその建物の入口には店舗名と思しき『TCR』の文字と、料金やシステムが記載された看板が設置されている。奥に見える地下に続く階段は様々な色のLEDライトで照らされており、その先からは音楽や人の笑い声が聞こえてきた。現在進行形で、多くの人が楽しんでいることが伝わってくる。

 正直なところ、抵抗感は強い。静かで人の少ない場所を好む僕とは対照的、大勢の人で集まり騒ぐのが好きな者たちが狭い空間で犇めき合っている場だ。苦手なタイプの人間が大勢いる場所だと思えば、気が進まないのは当然のこと。

 けれど、行くと決めた以上、ここで引き返すわけにはいかない。店前まで来て引き返すなんて格好悪い。ここまで来たのだから、勢いに任せて行くべきだ。

 自分自身を鼓舞し、小さな勇気を振り絞り、僕は意を決して入口を潜り階段を下った。


     ◇


 光と騒音に満ちた世界。

 小さな受付で入場料を支払い、ドリンク引換券を受け取った後に足を踏み入れた店内を、僕は胸中でそう表現した。

 周囲に広がる世界は、僕がこれまでに経験したことのないものだった。薄暗い空間の中は天井に吊り下がるミラーボールが放つ明滅の激しい光に照らされている。鼓膜が正常に機能しないほどの大音量で音楽が流されており、一メートル隣で起きている会話も満足に聞くことができない。

 そしてそんな空間の中、流れ続ける音楽のリズムに合わせて踊り続ける大勢の若者たち。言ってしまえば、彼らが行っているのは踊りとすら呼べないだろう。雰囲気とアルコールに酔い、気分のままに身体を動かしているだけにすぎない。傍から見ると何が面白いのかわからないが、不思議なことに彼らからはとてつもない熱気と楽しさが伝わってくる。全員が笑顔で、全員が今を楽しんでいて、マイナスな気分になっている者は皆無だ。身体を動かした反動で手に持っているアルコール飲料が床に零れても、隣で踊る者と身体がぶつかっても、気にする素振りも見せない。どんなことが起きてもお構いなしに、踊り続けている。

 これが人生を謳歌している人間の姿なのか。

 僕は視界を埋め尽くすもの全てに呆気に取られながら、そんなことを思った。


「可愛いね。この後ホテルとかどう?」

「えー? 初対面なのにがっつき過ぎじゃない?」

「いいっしょ。だってそっちも男漁りに来てるっしょ?」

「まーね。いいよ。もうちょっとしたら近くのラブホ行こ」


 僕の少し後ろ、踊り狂う若者たちが密集している店の中央から少し離れた壁際から、音楽に混じってそんな品の欠片もない会話が聞こえて来た。チラリと視線をそちらに向けると、そんな会話をしていたのは肌の露出が多い軽薄そうな服装に身を包んだ一組の男女だ。周囲に人がいるというのに、そんなことは気にする様子もなく、互いの肉体を弄り合っている。

 下品な。その言葉を、僕は喉元で呑み込んだ。普通なのだ。ああいったことは、この空間において。

 店内に入ってから知ったことだが、どうやらここはナイトクラブの中でもチャラ箱と呼ばれる、ナンパ目的の男女が多く集まる場所なのだそうだ。純粋に音楽を楽しむ店もあるらしく、こういった店に関する知識に疎い僕はハズレを引いたわけである。どうせなら、音楽を楽しむほうに行けば良かった。肌に合わないのはわかっていたが、その中でも特に合わないところに来てしまった。誰にでも明るく話しかけることができるタイプの人間ではない僕が、初対面の異性に肉体関係の構築を目的とした声かけなどできるはずがない。ましてや、興味もない。この場にいるのは肌の露出も多く、貞操観念も頭も緩そうな者たちばかりだ。積極的に関わりたいとは思えない。

 失敗した。持っているカクテルを飲み干したら、早々に退店しよう。

 そう決め、僕は踊り狂う若者たちをジッと眺めながら、右手に持ったプラスチックコップを口元に運び傾けた。


「お兄さん全然楽しんでなくない?」


 不意に、そんな声と共に肩を叩かれ、僕は反射的にそちらへ顔を向けた。

 そこにいたのは見知らぬ、この場に大勢いる軽薄そうな者たちに漏れない一人の男だった。明るく染めた髪に金属製のピアスやネックレス。オーバーサイズの衣服に身を包んでおり、頭にはサングラス、右手には幾つも重ねられた空のプラスチックコップが持たれている。

 なんですか。

 知人でもない赤の他人である僕に声をかけた意図を尋ねようと口を開くと、言葉を発する前に、男は僕が持っていたプラスチックコップを取り上げて中身のカクテルを一気に飲み干した。


「うわ、お兄さん甘いの飲んでんね。これ、男が女の子酔わせてホテル連れ込むように飲ませるもんだよ」

「はぁ」

「あ、勝手に飲んで怒った? 酒持ったまま立ちぼ受けてるから、てっきり飲めないのかと思ったんだけど」

「いや、別にそういうわけじゃないですけど……」


 なんなんだこいつは。

 突然話しかけてきた男に嫌悪の視線を向けながら、僕は眉根を顰めた。常識というか、良識というか、大人として持ち合わせて居なくてはいけないものを何も持っていないように思えた。それらを持っているのならば普通、他人の酒を勝手に飲んだりしないだろう。一体どういう生育環境で過ごしてきたのだろう。いやまぁ、どうしても飲みたいわけでもなかったので、特に怒るようなことでもないのだけど。

 ナイトクラブにはこんな輩もいるのか。と、僕が呆れた目で男を見ていると、彼は空になったプラスチックコップを近くのゴミ箱に投げ入れた。


「いや、なんかしけた顔してる奴がいるなと思って声をかけたんだよね。ほら、周りがめちゃくちゃ楽しんでる中一人だけつまんなそうにしてると、すげぇ目立つし。こういうとこ初めて?」

「まぁ、そうだけど」


 敬語を使うのも馬鹿馬鹿しいと思い、僕はなげやりに言葉を返した。


「やっぱりな。初のナイトクラブでチャラ箱はハードル高いって。他のところに行く気があるなら、音楽箱行きな。お兄さんはそっちのほうがあってる気がする。俺のアンテナがそう言ってる気がするわ」

「はぁ。いや、そもそも僕にはクラブって場所が合わない気がするから、別に行くことないかな」


 周りの人とは違い、こういうところを楽しむことができそうにない。

 そう言うと、男は立てた人差し指を左右に振り──ポケットから、とあるものを取り出して僕に手渡した。


「楽しめないなら、試しにこれ使ってみ」

「? 何──」


 暗がりの中、掌に乗せられたそれを至近距離から見つめ、僕は一瞬言葉を失った。

 渡されたそれは詳細不明。けれども怪しさの漂う──一つの錠剤だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る