第2話 同期からの助言

 担ぎこまれた病院から自宅アパートに帰宅したのは、午前九時を回った頃だった。既に空には眩い太陽が顔を出しており、世界を明るく照らしている。帰路の電車内には通勤中のサラリーマンやOLが多く見られ、その大半が晴れ渡った空とは対照的に憂鬱で暗い表情をしていた。これから待ち受ける労働に、億劫になっていることがよくわかる表情を。

 きっと、普段の僕も彼らと同じような顔をして通勤しているんだろうな。

 新たに脳内へ格納された記憶を振り返りながらそんなことを考え、僕は玄関扉を解錠して開け放ち、汚れたスニーカーを脱いで脱衣所に直行した。

 本音を言えば、すぐにでもベッドに直行したい気持ちは強い。けれど、今の僕が身に纏っているのは会社指定の作業服。様々な切削油や金属粉で汚れており、このまま寝転ぶと寝具が汚れてしまう。帰宅後は即入浴。入社してから、これが当然となった。

 シャワーを浴びて汚れを落とし、動きやすいジャージに着替えた僕はリビングに入り、通販で購入した安物のソファに寝転がった。

 詳しい容態や一ヵ月の休息を取る旨を伝える連絡は帰宅途中に上司へと送信済みであり、了解の返事は既に受信している。診断書と休職届を提出すれば、僕は一時的に労働から解放されるというわけだ。土日明け、次の出勤日に会社へ持っていくことにしよう。

 バッテリー残量が20%を下回った型落ちのiPhoneをライトニングケーブルに接続し。それをソファ前のサイドテーブルに置いて、僕は深呼吸を一つ挟んで白い天井の一点を見つめた。

 一ヵ月の休みを貰えることは別にいい。収入は減るが、ある程度保障されているだけでもありがたいと思うべきだろう。問題なのは……僕にやることがないことだ。折角の長期休暇、家でひたすらダラダラ過ごすのはとても勿体ない気がする。病院の主治医が言っていた通り、何か楽しいことでもしてリフレッシュするのが正しい休みの使い方なのだろう。

 けど、僕にはこれといった趣味はない。日頃から仕事のために生きているような生活をしており、そんな人間から仕事を取れば何も残らないのだ。時間を無駄にしないために何かしなくてはと思うけれど、具体的な内容が全く思いつかない。

 考えれば考えるほど、自分がつまらない人間なんだなと思い知らされる。昔からそうだった。楽しいという感情が理解できず、ただ周りの顔色を窺い、それらしい反応を返していた。言い方を変えれば個性を潰し周囲に合わせる日本の平均的教育の賜物とも言えるが、同調圧力に屈し続けてきた。そのツケが、今になって回ってきたのだろう。自分の個性を潰し続けてきたツケが。


「……やめだ」


 病み上がりに嫌なことを考えるのはやめよう。憂鬱な思考を振り払い、僕は久しぶりに朝食でも食べようと上体を起こした。冷蔵庫の中身をはっきりと憶えているわけではないけれど、何かしらの食料はあるだろう。

 朧げな記憶を掘り返しながら冷蔵庫のある短い廊下へ向かおうと、僕はソファから立ち上がった直後。


「ん?」


 着信を知らせるマリンバの音色が室内に響き渡った。部屋の扉に向いていた視線を机上のiPhoneに移して画面を覗き込むと、そこに表示されていたのは『川村』という名前。僕の知人、連絡先を知っている中で同名の者は一人、会社の同期しかいない。心配してかけてきたのだろう、と用件を予想しながら、僕は画面に指を這わせて端末を耳元に当てた。


「もしもし?」

『もしもーし、お疲れ。倒れたって聞いたけど大丈夫か?』

「何とか」


 離れたばかりのソファに座り直し、僕は電話の相手──同期の川村力也かわむらりきやに短く返した。


『何とかって……怪我は?』

「ないよ。ただその場で倒れただけ。製品持ってる時じゃなくて良かったよ」

『倒れた時に製品のこと考えるとかマジの社畜じゃん。え、原因は?』

「過労。働きすぎって医者に説教された」

『予想通りだわ』


 スピーカーから呆れた笑い声が聞こえ、次いで、川村の溜め息が響いた。


『ま、うちの労働時間考えたら倒れるのは当たり前なんだけどな。俺の部署でも一人三ヵ月休職することになったし』

「え、長くね?」

『休職って最大三ヵ月できるんだよ。で、大抵はそのまま退職していくらしい』

「へぇ……」

『そんな奴が何人もいるのに労働環境とか待遇とか改善しようとしないからな、うちの会社は……マジでやってられねぇよ。本当、二代目社長の会社はクソだ』

「まぁ、今の社長は現場経験一切なしで就任したらしいからね」

『そんな奴に媚びへつらってる役員もゴミだけどな。そいつらはいい思いをして、平社員の俺らは薄給激務の奴隷労働だ』


 ひとしきり愚痴を零し、川村は『それで』と僕に尋ねた。


『四乃森はどうすんの? 三ヵ月休職?』

「いや、とりあえず一ヵ月」

『短くね?』

「まぁ、症状が改善しないようなら延長もできるらしいから」

『あーね。それなら、思い切って三ヵ月休めば? あんな会社に貢献する価値なんて微塵もないぞ』

「前向きに検討って形で」


 言いながらも、僕は一ヵ月で戻るだろうな、と思った。何もすることがない生活に耐えられるとは思えない。今でさえ、これから一ヵ月もどうしようかと悩んでいるのだ。それが三ヵ月となると……本当に、気が狂ってしまうかもしれない。

 奴隷根性が沁みついているな、と思わず自嘲してしまった。


「ま、疲れが取れたら復帰するよ。僕がいないと、工作機械のオペレーターが不足するって上司からも言われたからさ」

『ぶっ倒れた部下にそういうこと言う上司もどうかと思うけどな。まぁでも、ゆっくり休んでリフレッシュしろよ? 普段できないこと、一ヵ月もあれば色々できるだろ』

「……今はそれで困ってるんだよ。やること、あまりにもなくてさ」

『あー、お前無趣味だったもんな。つまんねぇ人生送ってると思ったわ』

「辛辣」


 苦笑して言葉を返すと、川村は『んー……』と悩んだ声を上げた後、言った。


『なにもやることないなら、東京行ってみれば?』

「え、なんで東京?」

『いや、単純に日本で一番娯楽が集まってるところだから。東京なら、楽しいことがわからんとか言ってるお前を満たせるものがあるかもしれないだろ』

「あー……」


 なるほどな、と僕は思った。

 情報媒体では頻繁に目にするけど、実際に行ったことはない。日本の三分の一の人間が密集している大都市であるため、確かに娯楽は多いだろう。仕事で忙しい日頃は行く時間がないため、行くなら時間を持て余した今しかない。


「……そうだね。ちょっと行ってみるよ」

『おう。あ、行くなら一週間くらいは滞在したほうがいいぞ。遊ぶとこ多いから、一日二日じゃ絶対に足りないから』

「わかったよ。じゃ」

『あぁ。お大事にな~』


 それを最後に通話を切り、僕は画面が暗転したiPhoneを再び机に置いた。


「東京か……」


 呟き、今しがた川村から提案されたことについて考えながら、再度机に手を伸ばす。手に取ったのは赤い預金通帳だ。中を開けば、預金残高を示す数字の羅列が記されている。

 250万円。社会人として国と会社のために労働すること早三年。この間に節制を重ねて貯めたのが、この金額だ。薄給の中から毎月数万。ボーナスにも手をつけず、三年間で蓄えた貯金。一週間の東京旅行費くらいならば余裕で捻出できる。十数万くらいなんだ。減った分は、また貯めればいい。

 行こう、東京に。

 僕は手元の通帳を閉じ、スーツケースが押し込まれているはずのタンスに足を向けた。

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